西尾市

松平清康公仮葬地碑

2018年5月7日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

ポイント

天文四年(1535年)に松平宗家七代目「松平清康」が尾張後略として守山城に布陣中、家臣「阿部正豊」によって惨殺され、松平軍が岡崎に撤退する途中、松平清康の遺骸をここ長縄に地にて仮葬したと伝えられている場所として「松平清康公仮葬地」の碑が建てられている場所になります。

史跡概要

史蹟名松平清康公仮葬地
所在地愛知県西尾市長縄町字玉屋地内(観音地境外)
遺 構愛知県石碑あり
URL
駐車場
訪問日2018年2月21日

沿革

 寛政七年(1795年)、幡豆郡の字玉屋畑(現在の長縄)にある「観音寺/紹介記事」近くの土中から一基の「五輪塔」が掘り出されます。この五輪塔を調べると「松平清康公」と彫られています。この地の吉田藩の飛地の様な領地であり、すぐさまこの情報を吉田城に届けます。吉田藩主は「松平伊豆守信明」であり、当時は老中の席にあり、江戸城内にて幕政を取り仕切っていました。
 そこで、江戸にいる「松平伊豆守信明」の元に、この五輪塔の情報が届けられます。幕府としても、松平清康公の遺骸もしくは遺灰は岡崎の「仏現山隨念寺」、その後「拾玉山大林寺」にて埋葬されているとして、この地から出た五輪塔は、この地にて清康公の遺骸を護るために仮葬した地である可能性があるという事で、幕府は毎年観音寺に対し寄進があったといいます。

松平伊豆守系大河内松平家

当時の吉田藩主である「松平伊豆守信明」は、伊豆知恵と呼ばれた「松平伊豆守信綱」の子孫になります。松平伊豆守とは、江戸幕府で老中にまで上り詰めた松平伊豆守信綱から続く長沢松平家(伊豆守系)の事で、官職"伊豆守"を歴代継いでいました。松平伊豆守信綱は長縄大河内家の本家筋にあたる寺津大河内家の出身で、このまま大河内家にいては出世しても旗本止まりだと考え、長沢松平家に家康の命令で養子入りした信綱の叔父"松平正綱"に養子入りを直談判し、松平信綱と改称しました。 島原の乱を鎮圧した総大将としても有名です。
 ここで注目したいのは、松平信綱が長縄城主だった長縄大河内家の本家となる「寺津大河内家」にて生まれたという事です。そして、松平信綱が出世をし、最初に城主となった城が「武蔵国忍城」だという事です。

 そして時は流れ大正五年(1916年)に愛知県名勝舊蹟地として石柱が建てられます。

森山崩れ

 松平清康が亡くなった原因は天正四年(1535年)に尾張国にある守山城下にて家臣である「阿部正豊」よって斬殺されたことによります。(一説には脳天から真っ二つ(唐竹割)にきられたとか。)これによって尾張国に進軍していた松平軍が総崩れとなったことから「森山崩れ」と呼ばれています。

松平清康と森山崩れ

 安祥松平家四代目として生まれたのが「松平清康」です。おや?松平宗家七代目じゃないの?の思われる方も見るかと思いますが、元々清康が生まれた「安祥松平家」は、松平家の庶家になります。本来の松平家宗家は岩津城を本城とした「岩津松平家」だったのですが、永正三年(1508年)に今川氏親による三河侵攻(第三次井田野合戦)によって岩津城が落城し滅亡したと考えられます。ちなみに、この時の今川軍の先鋒は「伊勢新九郎(後の北条早雲)」になります。この今川軍を打ち破ったのが安祥松平家の祖「松平親忠」になります。結果、松平家惣領は岩津松平家から安祥松平家に移ったとされ、安祥松平家から「徳川家康」が生まれる事になり、安祥松平家が宗家とされることになっていきます。「大樹寺/紹介記事」にある松平八代の墓は徳川家康に通じるという事で、安祥松平家の墓が並んでおり、大樹寺は松平家菩提寺というより、安祥松平家菩提寺と言った方が正解なのかもしれません。

 松平清康は、歴代の松平家の中でも突出した傑物と言われる武将になります。
 大永三年(1523年)にわずか十三歳で安祥松平家の家督を継いだ清康は、僅か五年後の十八歳にして三河統一を成し遂げます。そして、甲斐國の武田信虎との共同戦線により、今川家の背後を武田軍が攻めこむことで三河に進出する余裕がなくなる間に、一説では斉藤道三との共謀により、尾張国に進出を図ります。品野城(現在の瀬戸市)、岩崎城(現在の日進市)を攻め落とし、天正四年(1535年)、織田信秀の弟「織田信光」が城主の「守山城/紹介記事」に兵を進め、附近で布陣します。この陣中において、松平清康は家臣の「阿部正豊」によって切り殺されてしまいます。

守山城址

尾張進出を狙った松平清康の終焉の地

 三河物語などの松平清康について記述のある歴史書などでは当主である「松平清康」を失った松平軍は、統制を失った松平軍はまさに雪崩を打ったように総崩れとなり岡崎城に向かって敗走したとし、この状況を見た織田信秀は非常に激しい追討を行い、松平軍の損害は著しかったようです。それでも松平軍は清康の遺骸を岡崎まで運び、岡崎城北東の丸山という地で遺骸を荼毘に付し、墓が建てられています。そしてその後、清康の墓は「大林寺/紹介記事」に移され、正室の春姫、息子の広忠のそれぞれの墓と共に安置されています。荼毘に付され最初墓が置かれた地には、徳川家康によって「隨念寺/紹介記事」が建立されたとしています。

佛現山隨念寺

松平清康荼毘地に建つ寺

西尾市長縄にある仮葬地とは一体?

 上記で清康の遺骸を守るために現在の西尾市長縄地区にておいて仮葬した可能性があるという事を江戸幕府も認め毎年この仮葬地の場所に建つ「観音寺」に対して寄進を行っていたと紹介していますが、岡崎からかなり離れた長縄の地にどのようにして清康の遺骸が運ばれたのでしょうか。

 仮葬地に関する伝承というか口伝が長縄城を居城としていた長縄大河内氏に口伝が伝承されているようで、この口伝では「わが先祖に大河内喜平小見という者がおり、松平清康公に仕えていたたという。当家の言い伝えによれば、喜平は、清康公がなくなった時、森山の陣中から、御遺骸をひそかに奉持し来り、同村の観音院に仮に奉納した」としています。この口伝は口外することなく一族内のみの伝承だったとか。

どのように遺骸を運んだのか?

 長縄大河内氏に伝わる口伝では、「森山の陣中よりひそかに運び出した」としています。

 岡崎城から守山城に向けて当時はどういった経路で進軍または撤退を行っていたのか?。清康は現在の瀬戸市の品野城や岩崎城を森山への進軍前に攻め落としている事から、現在の日進市や長久手市周辺を経由して守山に向かい、守山からの撤退も同様の道を通ったと思います。

 清康の遺骸をひそかに持ち出したという事で、陸路を使うのではなく、勝手な想像なんですが、「境川から船を使って三河湾に出て寺津入江に向かって、そこから陸路で長縄に向かったのでは?」と考えています。

歴史探訪

 守山崩れから約250年程の地に発見された神君家康公の祖父にあたる「松平清康」に関連する史蹟になります。発見され、知らせが江戸城内に届いた時、結構な騒ぎになったと思います。が、廃棄された様に埋まっていた五輪塔が清康公の墓であるはずがないので、清康または広忠の時代に建立された墓で、地元の口伝を元に「仮葬地」という事で落ち着いたのだろうと思います。ただ、発見された時代が寛政七年(1795年) と江戸幕府後半で幕府にもお金がない時代なんで、毎年寄進する事で決着しんだろうなあと。これが家光の時代になると、家康があこがれた清康公関連の墓であるとして発見された観音寺は家光によって造営された可能性も捨てきれないですね。

訪問記

長縄城址、稲荷社から南に100mほど進むと、写真の様に木々に囲まれた石碑が見えてきます。

石碑には「松平清康公仮葬地 愛知縣」と彫られています。石碑自体は三河地震の際、倒壊して折れてしまい、繋いだ修繕跡が非常に目立ちます。

この石碑の裏側には、

松平清康公の墓所も設けられています。

石碑の隣には観音寺が鎮座しています。

ここから歴史探訪企画がスタートします。

 長縄町の稲荷社を参拝する事で、この地を納めていた長縄大河内氏に繋がり、さらに松平清康に繋がってきました。こういった参拝先に出会った歴史の繋がりを大切にしていきたいと考え、大河内氏ゆかりの場所や、松平清康ゆかりの場所を訪問し紹介していこうと思います。

 そして、ゆかりの場所でまたその周辺で新たな歴史の繋がりが生まれるかもしれません。さて、長縄町から始まった歴史の連鎖記事はどこまで進んでいけるでしょうか。(こういった企画は本来自分の地元である上地町から始めると思ったりするのですが、まぁそれはいずれ・・。)

「長縄町の稲荷社から始まる歴史探訪」

さて、結末はどうなりますやら・・・。
というかどこまで繋がっていくのか、自分も楽しみです。(実際、この記事を書いている時点では、ゆかりの場所には行ってませんし・・・・。)

地図で所在地を確認

史蹟名松平清康公仮葬地之碑
所在地愛知県西尾市長縄町玉屋地内(観音寺)
最寄駅名古屋鉄道西尾線「福地駅」徒歩17分

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