名古屋市中区 大名古屋八十八

興國山大光院(名古屋市中区大須) 大名古屋八十八霊場五番札所

2020年2月8日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

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寺院情報

寺院名興國山大光院
所在地愛知県名古屋市中区大須二丁目七番二五号
御本尊釈迦牟尼仏坐像
宗 派曹洞宗
創 建慶長八年(1603年)
札 所大名古屋八十八霊場 五番札所
御朱印
H P

参拝日:2019年12月11日

大名古屋八十八ヶ所霊場札所一覧

現在、執筆中です。

由緒・沿革

 山門の赤門から名付けられたという「赤門通り」という商店街が今でも残っているほど、寺院が密集していた南寺町の中でも有数の賑わいを見せていたのが「興国山大光院」になります。現在でも、毎月二十八日は"みょうおんさん縁日"が開かれ、縁日当日は山門前には十店以上の露店が出店されて大変賑わいを見せてているそうです。
 この"みょうおんさん"とは大光院の明王殿にて奉安されている「烏蒭沙摩明王」の事をいいます。ご存知の方も多いと思いますが、「烏蒭沙摩明王」は「東司の神、下の神、女性の神」であるとされています。

烏蒭沙摩明王

 「穢跡金剛経」に、「烏蒭沙摩明王は昔、お釈迦様に誓い、あらゆる不浄を清浄に改める神通力を備わった」とあり、一切の穢れや悪を浄する力があるということで、「東司(厠)の神」「下の神」と言われています。
 下半身の諸病を一切取り除く大悲願をお持ちという事から女性特有の病気を治し願い事を叶えてくれるという「女性の神」とも言われています。

 そんな「烏蒭沙摩明王」を奉安する「明王殿」は文化五年(1808年)に別殿という形で建立されています。「烏蒭沙摩明王」の後利益を求めて非常に多くの参拝者が訪れたといいます。さらに、大光院、清安寺、大須観音に囲まれた場所に遊廓が作られると、基本外出が許されなかった遊女たちが唯一外出できる場所が「大光院の縁日」だったんだとか。
 そんな非常にに賑わいをみせていた"みょうおんさん縁日"について、尾張名所図会でも描かれています。

 そんな縁日と赤門で有名な「大光院」ですが、この寺院も慶長年間に行われた「清州越し」によって清州城下から名古屋城下の現在の場所に移動してきた寺院になります。

 明王殿の前に名古屋市が設置した案内板があったので見ていく事にします。

 興國山と号し、曹洞宗の寺院である。もと清善寺と号し、松平忠吉(清州城主、徳川家康の第四男)が崇敬していた明嶺理察和尚を開山とし、清州に創建した。忠吉亡き後その法名をとり大光院と改め、慶長十五年(1610年)の清州越しでこの地に移された。
 境内の明王殿に祀る烏蒭沙摩明王は、世の中の一切のけがれや悪を清め、霊験あらたかであるといわれる。名古屋名所図会に「毎月二十八日を縁日として参詣の諸人羣集(群衆)をなす」とあり、そのにぎわいは今も続いている。

「境内案内板」より

 大光院の元々の寺名を「興國山清善寺」と称し、清州城主徳川家康四男「松平忠吉」の開基、「明嶺理察」が開山として慶長八年(1603年)に開創された寺院になります。開山である「明嶺理察」は、武蔵国埼玉郡忍(現在の埼玉県行田市)の清善寺(以下、忍清善寺)の六世になる住職であり、清州城下にあり当時は廃寺となっていた「雲門寺」を再興するにあたって松平忠吉から招かれ、寺号を清善寺とし、忍清善寺の末寺としています。

現在でも、忍清善寺は行田市忍の地にあります。

 忍清善寺は、忍城の近くにある事が上記地図で分かりますね。
 松平忠吉は、家康の関東移封に伴い、それまでの 天正二十年(1592年)三月に沼津城主から忍城主に領地替えとなっています。忍城主の期間は慶長五年(1600年)十月までですので、約九年になります。忠吉は忍城主時代、寺社整備にも力を入れており、「長久寺」、「正覚寺」、「清善寺」を厚く保護し、龍淵寺の「叱澗和尚」に深く帰依するようになったそうです。
 慶長五年(1600年)関ケ原の合戦での活躍によって、尾張・美濃国五十二万石の領主となった忠吉は、清州城に移る事になります。その際、「叱澗和尚」を清州まで連れていっています。叱澗和尚は清州に滞在している間、「雲門寺」にいて、忠吉の参禅の相手をしていたと言われています。
 忠吉の領地運営が軌道に乗るまでの滞在の約束だったのか、どうも叱澗和尚は武蔵国忍に戻る事になったようで、叱澗和尚の推薦もあり、忠吉は忍清善寺の「明嶺理察」を招き、雲門寺の地に清善寺を建立させています。同様に「長久寺」「正覚寺」の両寺の住職も招き清州にそれぞれ寺院を建立させ、両寺院とも清善寺同様に「清州越し」によって清州城下から名古屋城下に移されていますが現在も名古屋の地に存在しています。

東岳山長久寺・・真言宗、名古屋二十一大師六番札所

大雄山正覚寺・・浄土宗鎮西派、現在は寺号を性高院に改称

 戒名は本来生前に授かるものなんだそうで、松平忠吉も「大光院殿籌山宗勝」という戒名を頂いていた様で、明嶺理察はこの戒名にちなみ、清善寺を大光院に改称しています。この戒名を叱澗和尚が授けたのか、明嶺理察が授けたのか、はたまた別の上人が授けたのかはよくわからないのですが、深く帰依して清州まで連れてきていた叱澗和尚が授けたんだろうと想像しています。

 その後、松平忠吉は体調を崩し(一説では関ケ原の合戦で負った傷が原因とも)、慶長十二年(1607年)、家康、秀忠に謁見するために江戸に滞在中に亡くなります。享年二十八才。忠吉の遺命では、葬儀を「大光院」にて行う事でしたが、後に徳川家の菩提寺となる芝の増上寺に反対され、徳川家康の裁量で、葬儀を増上寺、位牌を治める牌堂を大光院に建てる事で治めたとされます。

大光院は興国山と号す。中区門前町二丁目の西側にあり。境内は千六百後十八坪一合四勺三才(徳川時代には四千八百二十八坪あり。)常恒曾地四十八級にして埼玉県北埼玉郡忍町(現在の埼玉県行田市忍2丁目)清善寺の末寺なり。もと清州(尾張志に大光院跡、山王の社の東北にあり、名古屋大光院跡地、今田園となる。と見ゆ。)にありて「清善寺」と号す。松平薩摩守忠吉、同地の雲門八廢寺を復興し改称せしものなり。明嶺理察招かれて開山となる。忠吉大光院殿籌山宗勝の法号を受けしより、今の寺号に改む。城下一宗の觸頭となり。毎年江湖会を施行せり。忠吉の江戸にて無くなるに臨み、遺命して江戸愛宕下青松寺に火葬し、清州大光院に葬儀を営ましむ。然るに増上寺意義あり。是に於て、家康葬儀を彼寺に営まして、牌所を当院に建てしむ。慶長遷府の際、二世大奄美菴護奕、今の地に移し、山号を日置山と改む。後今の号に復す。・・(後略)・・・

大正四年発刊「名古屋市史」より

 ところで、もともと「忍城」は北条家の支城の一つでした。城主は成田氏。豊臣秀吉による小田原征伐で小田原城と共に北条方の支城として豊臣軍に包囲された城になります。豊臣軍の忍城攻略の総大将は・・・・あの「石田三成」になります。文官、官僚として出世してきた石田三成としては数少ない戦場への出陣だったのではないでしょうか。対する忍城側の総大将は「成田長親」です。(忍城主だった「成田氏長」は小田原城に入城していました。)豊臣軍は、忍城に対し水攻めを行うべく堤防を築きますが、どうやらうまく水がたまらなかったようです。雨が降りやっと水がたまり始めたら、忍城側によって堤防を決壊され、逆に豊臣軍に被害が出てしまう始末。結局、北条家の本城である小田原城が先に落城し、元北条側からの説得もあり、最終的には忍城は開城しています。まさに、戦術で勝ち戦略で負けるって感じでしょうか。

 ここまで聞くと、邦画好きの方でしたらある映画が思い浮かべているのでは。

 2012年に公開された「のぼうの城」になります。まさに、石田三成と成田長親の戦いを描いている映画ですね。当時、TVCMが頻繁に流れていた記憶がありますね。みたいなと思っていたのですが、結局映画館では観ず、最近アマゾンプライムビデオで見た訳ですが・・。2020年1月現在だと、アマゾンプライムに加入すると追加料金なしで「のぼうの城」を見る事ができます。

 小田原征伐が終わると、元忍城の武将たちは、
・蒲生氏郷に身を預けられる事になった元忍城主の成田氏長についていく者
・徳川家康の関東移封によって忍城主となった松平忠吉に仕える者
・武士をやめて帰農する者
などに別れたといいます。

 忍城軍の大将だった成田長親は、成田氏長に従い、奥州会津に向かっています。成田長親の長子である成田長季は松平忠吉に仕官し、関ケ原の合戦後は清州にいたといいます。成田氏長らは蒲生氏郷の元、奥州にて軍功を重ねて、烏山城を与えられ大名に復帰しています。しかしその後、長親は氏長の元を去り流浪する事になります。そして、清州にいる息子長季の元にむかったとされています。

 そして、清州越しで名古屋の地に移った後、成田長親は慶長十七年(1613年)に死去。享年67才。大光院に埋葬され、戒名は青岩義栢菴主。現在、成田長親の墓石は名古屋市の千種区平和公園に移動されています。

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名古屋二十一大師を行く-寄り道遍-

 「日出神社」から南に進むと、T字交差点に行き当たります。行き当たった東西に走っている通りが「赤門通」になります。この赤門通を左折(東向き)に進むと、今回参拝する「興國山大光院」が見えてきます。
 大光院は、大名古屋八十八ヶ所と呼ばれていた大師霊場の五番札所になります。戦前に盛んだった霊場の様で、納経帳もあったと思いますが、それ以上に各札所オリジナルのスタンプが用意されていた様です。廃寺となってしまった札所が何か寺もあるので、現在では機能していない霊場の一つになってしまっています。ただ、当サイトではそんな忘れられていく霊場を巡るのが大好物ですので、名古屋に出かけた際は、札所一ヶ所だけでも巡っていこうと思います。

参拝記

 空襲と大須周辺の再開発により、かなり境内が削られてしまったようで、元々は東向きに建っていた本堂などの伽藍ですがいまでは南向きに本堂が建てられています。そして、平成に入り、造営工事により非常にすっきりとした境内になっています。
 縁日には、境外になってしまっている赤門周辺と境内に夜店た立ち並ぶとか。一度もこの縁日に行ったこと無いですが、是非行ってみたいですね。

山門

朱に塗られた薬医門の山門になります。その山門の脇に山号も彫られた寺号標が据えられています。塀で囲まれた境内となっています。

水盤

露天の水盤と、その周りには地蔵尊を始めとする元々境内にあった石造物が集められています。

本堂

 平成になって立て直された本堂となります。
 主に塗られた部分が「明王殿」になります。本堂部分は固く閉ざされており、明王殿の前で参拝する形になっている様です。

 明王殿に掲げられている「烏蒭沙摩明王」の説明板になります。
 そういえば、知多四国霊場八十八番札所「瑞木山円通寺」でも「烏蒭沙摩明王」が奉安されていてお札などが置かれていました。気付かないだけで、結構あちこちの寺院で奉安されている仏様なのでしょうかね。

所在地を地図で確認

寺院名興国山大光院
所在地愛知県名古屋市中区大須二丁目七番二五号
最寄駅名古屋市営地下鉄 鶴舞線「大須観音駅」1番出口徒歩10分

次の目的地は?

 全く予期してなかった「松平忠吉」に非常に所縁のある寺院でしたので、これを機に忠吉所縁の神社仏閣などを巡ってみたい所ですが、清州越しで移動してしまっている事もあって調べるのが大変そうです。判明して巡ることができたらまた報告させて頂きます。

名古屋21大師を行く-寄道遍-

前津村の鎮守社である「春日神社」を参拝していきます。前津小林城主「牧長清」が勧請した神社になるそうです。

-名古屋市中区, 大名古屋八十八