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八事山興正寺(名古屋市昭和区八事本町) 名古屋二十一大師 二十一番札所

2020年4月26日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

寺院情報

寺院名八事山興正寺
所在地名古屋市昭和区八事本町七十八番地
御本尊大日如来
宗 派高野山真言宗
創 建貞享三年(1686年)
札 所名古屋二十一大師 二十一番札所
大名古屋八十八 終番外札所
愛知四国霊場 十五番札所
知多本四国移 八十八番札所
尾張三十三観音 三十三番札所
城東西国観音 十二番札所
なごや七福神 / 寿老人
東海不動尊 三十六番札所
御朱印
H P〇 / web

参拝日:2020年2月26日

由緒・沿革

 貞享三年(1686年)「天端圓照」和尚が高野山より熱田の八文字屋八右衛門氏を頼り、当地に来て草庵を結び、律寺建立を志します。貞享五年(1688年)、尾張徳川藩二代「徳川光友」公の帰依を受け、八事山遍照院興正寺の称号を賜り、徳川家祈願所として、弘法大師を開基。天端圓照和尚を中興と位置づけ開山しています。

天端圓照和尚とは

 天瑞圓照和尚は、後光明天皇の御代にあたる承応年間(1652-54年)、伊勢津藩主藤堂家の分家で当時難波に住んでいた野田家に生まれます。容姿端麗でいてさらに頭が切れるという事で、和尚の両親は叔父で武蔵国、長慶寺の「郁和尚」に預けます、武蔵国にうつりしばらくすると郁和尚が亡くなってしまい、天瑞は修行の旅に出たといいます。
 山城国黄檗山萬福寺摂津国地蔵院和泉国大鳥山神鳳寺大和国生駒山宝山寺などで修行を重ね、遂に高野山金剛峰寺にて法雲和尚から弘法大師の「五鈷杵」を授けられています。

 堂宇造営や神領、寺領の寄進など行い、藩内の神社仏閣への崇敬が篤かったとされる尾張徳川藩二代「徳川光友」公からの絶大な庇護を受けた興正寺は開山以降寺領の寄進などを受けながら諸堂宇を建立し境内が次第に整えられていきます。

 興正寺の山内は「東山遍照院」「西山普門院」と分けられました。「東山遍照院」は学問、修行の場として、高野山の奥の院に倣い、参道の両側に石造の宝篋印塔約360基が並び、その奥に「女人門」が建立され、この門から先は女人禁制とされ、一方の「西山普門院」にはこの禁制がなく、自由に参拝できる信仰の場として賑わったといいます。

 興正寺の本尊である「大日如来坐像」は元禄十年(1697年)四月十七日に開眼され、三日三夜にわたり供養が行われ、興正寺の境内で一番高い「呑海峰」に安置されています。

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名古屋二十一大師霊場を行く

 いよいよ名古屋二十一大師霊場遍路の旅も結願となる二十一番札所「八事山興正寺」を納経します。愛知県を代表する真言宗の寺院であり、「知多四国霊場」の結願所ともなっている寺院ですね。
 自分の中では八事と言えば学生が非常に多い賑やかな街というイメージなのですが、地図をよく見ていると非常に寺院、神社が多い街だったりもします。それだけ古くから人々の住み、人の往来が多かった場所だという事なのでしょう。

 実は、知多四国霊場の札所をすべて回らせて頂きましたが、こちら八事山興正寺で結願までは行っていなかったので、今回、名古屋二十一大師霊場の結願と合わせて結願印を頂きたいと思っています。

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参拝記

 飯田街道(国道153号線)沿いに建っています。すごく広々とした境内がひろがっているので、逆に車に乗っていると気付かないかもしれませんね、自分も興正寺の境内より、その先の左手にある「かに本家さん」の建物と看板が印象に残っていたくらいです。行った事ないんですけどね・・・。駐車場は、興正寺前に自走式の二階建ての駐車場が用意されていますので心配なく車で参拝できます。(但し、有料です。)

境内入口

 飯田街道の歩道沿いに建てられた「別格本山 八事山興正寺」と彫られた寺号標になります。現在では、興正寺の正面入り口となっていますが、元々は「西山普門院」への入口だったはずで、山門も建てられていたはずなのですが、現在は非常に開放的な境内入口となっていますね。

中門

 現在では山門といった感じの中門と呼ばれる楼門になります。昭和になり現在の場所に移築されましたが、元々は東山遍照院と西山普門院の境に建っていた門になり、由緒でも書いていますが、この門を潜る事ができたのは男性だけだったという「女人門」と呼ばれていた門になります。

女人門跡へ

 由緒の所で、女人門の前後には「・・(前略)・・参道の両側に石造の宝篋印塔約360基が並び、・・(後略)・・」と書きました。女人門が移築され中門となった現在でも、東山遍照院へと通じる参道の両側には宝篋印塔が立ち並ぶ非常に重厚な雰囲気が漂っています。

この宝篋印塔に囲まれた参道を進んでいくと、「女人門」跡地が見えてきます。

 跡地脇には「女人禁制」と彫られた石柱が据えられています。門の跡地には変わりとなる「冠木門」が設けられいて当時の門が建っていた感じを感じられますね。

 門跡の脇には、不動明王の石造が奉安されていました。当時から不動明王はここに据えられていたのでしょうか。

ここから先に進んでい行くと、八事山の本尊「大日如来像」が奉安されている大日堂、弘法堂、東山本堂などがある「東山遍照院」になります。こちらはまた後程紹介します。

五重塔と大仏

 文化五年(1808年)に建立された東海三県唯一の木造の五重塔で、国の重要文化財に指定されています。その前には、別名「平成大仏」と呼ばれる平成二十六年に開眼法要が行われ奉安された釈迦牟尼仏になります。

西山本堂

 寄棟造瓦葺平入の向拝が設けられた西山本堂になります。寛延三年(1750年)、西山阿弥陀堂として建立され本尊である阿弥陀如来をはじめ、弘法大師、大隨求明王、不動明王などが奉安されています。

 弘法大師は西山本堂の右手側に奉安されているようで、弘法大師正面側の扉越しに納経が行えるようです。その脇には修行大師像が建ち、その足元はお砂踏み場となっています。

「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」・・・

観音堂

 尾張三十三観音霊場、城東西国三十三観音霊場の札所になる観音堂になります。開山である「天瑞園照和尚」により建立され、保存である「聖観世音菩薩」は尾張徳川家二代藩主徳川光友公より寄進された秘仏になります。

能満堂

 西山本堂から能満堂に向かう間に、石段の他に上記のようなエスカレーターが設置されてます。興正寺を取り上げていらっしゃるブログなどを拝見させて頂いても、結構エスカレーターが取り上げられてりしていますね。

 石段orエスカレーターを上ると、その目前に能満堂が建っています。

 亨保二年(1717年)に尾張徳川家六代「徳川継友」公の寄進によって徳川家の祈願修法所として建てられ、能満堂本尊は開山である天瑞圓照和尚が自ら刻んだ「虚空蔵菩薩」であると伝えられているそうです。

 以上が「西山普門院」に属していた建物の紹介になります。これからは「東山遍照院」の紹介となります。東山の山内は元々多くの参拝者が訪れる場所ではなかった為、西山と違った雰囲気の境内となっており、二つの雰囲気を持つ場所を有する興正寺の大きさを感じるところですね。

東山門

 最初に紹介した興正寺正面入り口から飯田街道沿いに東に150mほど進むと、東山門と呼ばれる高麗門があります。名古屋城の出丸門(戦闘用の門)を移築したもので、弓や鉄砲が撃てる様、両側が格子になっているんだとか。山門の両脇には六地蔵と七観音の石造が据えられていたのですが、近年前述したエスカーレター脇に移されています。

清水不動

 東山門を潜り東山本堂に向かって進んでいきます。西山と異なり、こちらはちょっとしたハイキングの様に森の中を参道が伸びています。途中、清水不動尊という石柱がある不動明王の石仏が据えられていました。

東山本堂

 この東山本堂が建つ場所周辺が開山である天端圓照和尚が草庵を結び修行していた場所であるといいます。徳川光友公の帰依により、元禄二年(1689年)に木曽の鹿射香の名木の寄進を受け建立された茅葺の本堂になります。本尊は阿弥陀如来像であり、歴代の尾張徳川家の位牌が安置されているといいます。
 茅葺部分は現在銅葺の被せ屋根が設けられています。茅葺屋根に瓦葺の庇が設けられている屋根の形状を「四方蓋造(しほうぶたづくり)」と称します。寺社建築でこの様な造りは非常に珍しく、当サイトでは碧南市にある「東照山称名寺/紹介記事」の本堂で見かけて以来の本堂になります。

弘法堂

 開山天端圓照和尚百回忌に建立され、開山堂とも呼ばれている弘法堂になります。中央に弘法大師、その左右に開山天瑞圓照和尚、興正菩薩叡尊を奉安しています。

「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」・・・

鎮守社 八幡社

 愛知郡誌などを見ていると、東山遍照院には鎮守社として八幡社が鎮座していたと記述されていて、大正初期にも八幡社の名を見る事ができます。そのことから、こちらの社は八幡社ではないかと推測しています。
 春日造の様な本殿に鞘堂が設けられ、更に開放型の妻入り拝殿があり、小さいながら名古屋様式の神社の社殿配置になっていますね。

大日堂

 八事山興正寺の境内の中で一番標高が高い「呑海峰」に据えられた大日如来坐像とその鞘堂である大日堂です。こちらに鎮座する「大日如来坐像」が八事興正寺の総本尊になります

 失礼ながら参拝されている方達の動きを見ていると、西山本堂を参拝しても、こちらの大日堂、先に紹介した東山本堂に参拝される方はとても少ないように思えます。せっかく興正寺という巨刹といってもよい広い境内を持つ寺院を訪れたのですから、ゆっくりと境内全体を廻ってほしいですね。

ちなみに、こちら大日如来坐像は「名古屋三大仏」の一つに数えられています。

名古屋三大仏

1永国寺名古屋市中区橘木像阿弥陀如来坐像
2雲心寺名古屋市熱田区尾頭町木像阿弥陀如来坐像
3興正寺名古屋市昭和区八事本町銅製大日如来坐像

 いつ頃から言われている名数なのかは不明ですが、上記三ヶ寺の本尊が三大仏とされているようです。

 かなり端折って紹介してきましたが、これで興正寺をぐるっと一周する事ができました。かなりのんびりと廻っていたため、気付けば1時間以上かけていましたが、あっという間な気がします。皆様も是非のんびりと廻ってみてください。

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地図で所在地を確認

寺院名八事山興正寺
所在地名古屋市昭和区八事本町七十八番地
最寄駅名古屋市営地下鉄鶴舞線・名城線「八事駅」1番出口徒歩5分

次の目的地は?

 名古屋二十一大師霊場遍路の旅もここ興正寺で無事結願する事ができました。しかし、せっかく名古屋まで来たので、興正寺から少し寄り道をしながら帰路につきたいと思います。もうしばらく寄り道遍へのお付き合いをお願いします。

興正寺を後にして、松平忠吉が清州城への移封によって忍城から帰依した和尚たちを呼び寄せ建立した寺院の一つ「大雄山性高院」を参拝していきます。こちらには松平忠吉の墓石が安置されているそうです。

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