天林山東光院(名古屋市南区笠寺町) 大名古屋八十八ヶ所 四十六番札所

寺院情報

寺院名天林山東光院
所在地名古屋市南区笠寺町上新町四十七番地
御本尊不動明王
宗 派真言宗智山派
創 建不詳
札 所大名古屋八十八 四十六番札所
御朱印
H P

参拝日:2020年2月5日

由緒・沿革

 前回紹介した「天林山泉増院/紹介記事」「天林山西方院/紹介記事」と同じく元々は「天林山笠覆寺(笠寺観音)/紹介記事」の塔頭の一坊でした。
 元々は笠覆寺の「宿坊」として建立され、塔頭十二坊を経て江戸時代の塔頭六坊から明治時代になり独立した寺院になります。

天林山笠覆寺の塔頭六坊一覧

1天林山西方院名古屋市南区笠寺町上新町八十一番地
2天林山東光院名古屋市南区笠寺町上新町四十七番地
3天林山泉増院名古屋市南区笠寺町上新町七十六番地
4慈雲院(廃寺)
5天林山西福院名古屋市南区笠寺町上新町二十二番地
6寶壽院(廃寺)

 笠覆寺の境内ある「西福院」以外の三ヶ寺はそれぞれ「大名古屋八十八ヶ所」の札所に選ばれています。そのおかげで笠覆寺周囲を少し歩くだけで四ヶ所の札所を納経することができます。

 東光院の本尊である不動明王は伝教大師の作と伝えられ、元々は紀州熊野神宮の本尊とされていたが、故あって慶安三年(1651年)に東光院に伝来し本尊として奉安される事になります。

 前述している様に、「東光院」は元々笠寺観音の宿坊として誕生した経緯があります。そしてその宿坊としての東光院は江戸時代まで受け継がれていた様で、その名を知らぬ者は居ないだろうと思うくらい有名な「剣豪」も東光院に逗留しています。

 その剣豪の名は「宮本武蔵」と言います。
 佐々木小次郎との「巌流島決闘」でその名を知られている剣豪であり、飛んでいるハエを箸で捕まえたという逸話も有名ですよね。

 巌流島決闘から十年以上後の寛永七年(1630年)頃、武蔵は尾張藩に仕官するために名古屋を訪れ、東光院を宿坊としながら数か月から数年名古屋に滞在したと伝えられています。

 武蔵は、尾張藩主「徳川義直」の前で御前試合をすることになり、気合だけで相手を圧倒したと伝えられています。しかし、尾張徳川家には「柳生兵庫助(柳生利厳)」が既に指南役として仕えていたこともあり、仕官はかないませんでした。また他説では柳生家の禄高が五百石であったのに対し、武蔵は一千石を要求し、それを譲らなかったため、破談になったとも言われています。

 しかし、この時の武蔵を見た尾張藩家臣の中に武蔵に弟子入りを希望する者が多数出たため、武蔵は円明流を指南し、尾張藩周辺では円明流が伝承されていく切っ掛けとなります。

 宮本武蔵百年忌となる延享元年(1744年)に、円明流師範「左右田邦正」その嫡子「行重」が、笠寺観音の境内に宮本武蔵の顕彰碑を建立しています。そしてこの時、武蔵が宿坊としていた東光院に「宮本武蔵自筆の書」、「武蔵画像」、「自作木刀」を寄進しています。

笠覆寺(笠寺観音)にある宮本武蔵顕彰碑

宮本武蔵の所縁の品については下記の名古屋市南区役所のホームページの画像付きで紹介されていますので、こちらを参照してください。

宮本武蔵については、後年熊本藩に客分として招かれるまでの経歴については不明な点が多く、名古屋藩に仕官するために訪れたのは確かなようですが、名古屋に滞在していた時期や期間については武蔵の経歴を見ながらこの頃だろうと推測によって言われているのが現状のようです。

 そんな宮本武蔵も宿泊したと言われる東光院ですが、さらに時代は平安時代末期で遡ります。平治元年(1159年)の年末に発生した「平治の乱」が起き、源義朝は敗れ、尾張国野間に敗走し、その地において長田忠致に殺害され、嫡子である源頼朝は捕らえられ東国に流罪となります。この辺りは当サイトでも以前、知多郡美浜町野間周辺を散策した時に紹介させて頂いています。
 そして、源義朝六男で頼朝の異母弟となる「源範頼」が幼少で戦にも参戦していませんが、源義朝の息子という事もあり、縁故を辿りここ東光院に隠れ住んだと言われています。

源範頼と言えば、異母兄である頼朝が木曽義仲討伐の為に永寿三年(1184年)に大軍を京都に向けて出陣していますが、この時範頼が頼朝の代官として大軍を率いて西上している時に、額田郡福岡町大字上地の地にて当地の長者大見藤六宅に宿泊し、大見宅に祀られていた八幡神に祈願をし、この時に「西国から無事に帰ってくることができたら立派な社殿を建立しよう。」と言ったと伝えられ、木曽義仲討伐、平家追討を終え無事に鎌倉に戻っています。この一連の遠征の最中、範頼は三河守に任ぜられており、平家滅亡後、祈願した八幡神の為に八幡宮を造営建立しています。この八幡宮が当サイトで一番最初の記事で紹介している岡崎市上地町に鎮座している「八幡宮/紹介記事」になります。

名古屋二十一大師霊場を行くー寄り道遍ー

 「天林山泉増院/参拝記事」を後にして、笠寺観音の仁王門から真っ直ぐ南に向かって伸びている道を150mほど進むと左手に「笠寺天満宮 東光院」と彫られた寺号標が据えられた「天林山東光院」の山門が見えてきます。東光院向かい側は笠寺幼稚園となっていて、登園降園の時間帯は送り迎えの車で渋滞しそうな感じですので、参拝する時間帯には注意が必要ですね。
 境内の周囲には「出世神酒天神」と書かれた幟が数多く掲げられています。寺号標にも彫られている「笠寺天満宮」の祭神を「出世神酒天神」と呼んでいる様ですね。どういう由来なんだろうと思いGoogle先生に聞いてみると、何やら御神酒を供えると顔を赤面するという伝承と、豊臣秀吉から授けられたという二点の特徴から「出世神酒天神」と呼ぶようです。

 ちなみに、「出世神酒天神」の御神体は、「菅原道真の画像菅原道真公尊像)」であると伝えられています。一説には「菅原道真の直筆による自画像」とも伝えられている様ですが、この辺りの真贋についてはよく解りませんね。

参拝記

 笠覆寺の山門から南に延びる市道沿いに「天林山東光院」があります。駐車場は東光院の隣に用意されているので、こちらの駐車場に駐車してもいいですが、距離が近いので笠覆寺から歩いて参拝される事をお勧めします。

境内入口

 東光寺は周囲より一段高くなった境内を持ち、石段を上がった先に袖壁が設けられた薬医門による山門と、その前に「笠寺天満宮東光院」と彫られた寺号標が据えられています。
 神仏分離により、天満宮=神社というイメージが定着している為、寺院に天満宮の幟などが掲げられていると、少し不思議な感覚になってしまいますね。

本堂

 切妻造瓦葺平入の本堂というより「方丈」になります。
 側面(倒壊防止用の支え柱が設けられている場所)には授与所と思われる場所が設けられています。この授与所らしき建物がある場所は

笠寺天満宮

 笠寺天満宮の彫られた石柱の奥には、寄棟造瓦葺平入の御堂が建っています。中央に菅原道真公が祀られている厨子があり、その前には鏡が置かれいます。さらに左右に狛犬がいるなど一見神道っぽく見えるのですが、その手前には護摩焚きができる座が設けられているなど、「江戸時代までの天満宮ってこういった感じだったんだろうなあ」と感じさせて頂ける造りになっています。まさに神仏習合の香りです。

 こちらに奉安されている出世神酒天神と称されている「菅原道真公の画像」は、戦国時代この辺りを治めていた星崎城の城主「山口半左衛門尉重勝」が近江国に滞在している時に手に入れたと言われ、自らの本城であった星崎城内に祀っていたようです。
 重勝の娘「御辰の方」が豊臣秀次の側室となっていた為、秀次の本城であった近江八幡城の城下に滞在する事が多く、その時に菅田神社の社人「藤原安長」を所有していた「菅原道真公の画像」を譲り受けたと思われます。
 豊臣秀吉の跡継ぎとして関白の座を譲られた豊臣秀次そしてその側室の父として優遇される事も多かったであろう山口重勝ですが、至福の時はとても短く、豊臣秀次謀反の疑により切腹となり、正室、側室を始め子供、室の親までもが、連座で切腹となり、山口重勝も切腹となっています。重勝の財産もすべて没収されていますが、この時東光院に預けられていた「菅原道真公の画像」は没収を免れ、重勝所有の物であったことから、改めて豊臣秀吉から東光院に授けらえた形となっています。

 実は、こちらの天満宮には弘法大師像も奉安されています。たぶん、大名古屋八十八ヶ所の札所本尊ではないかとおもうのですが。

「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」・・・

地図で所在地を確認

寺院名天林山東光院
所在地名古屋市南区笠寺町上新町四十七番地
最寄駅名古屋鉄道名鉄本線「本笠寺駅」徒歩7分

次の目的地は?

 東光院の納経を終え、「名古屋二十一大師霊場遍路の旅四日目」も終了となります。残す札所は二十一番札所「八事山興正寺」を残すのみとなりました。もう少し先を考えて回れば、全札所を四日で結願する事も可能だったと思いますが、初めての名古屋市内をバイクで廻っている訳で、この辺りを考えれば順調にまわれているのではないかと思う訳です。(寄道した個所もかなりの数になっていますし。)
 遍路の旅五日目は、まずは八事山興正寺にて納経を終えてから寄道先を考えながら名古屋市内を回る予定です。

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