竹島遊園の芝生が広がっている広場に藤原俊成卿の銅像が立っています。
蒲郡市を巡っていると、度々その名を見かけます。
この銅像の目前の海に浮かんでいる竹島に鎮座する八百富神社も藤原俊成卿が琵琶湖に浮かぶ竹生島より市杵島姫命を勧請したことにより創建されたと言います。
藤原俊成卿とはどんな人物なのか?
当ブログでは、竹谷神社を紹介した時に、初めて登場しています。
竹谷の地を熊野三山に寄進し、熊野権現を勧請し、若一王子宮を創建しています。その後熊野三山の許可なく若一王子宮の神領としたり、中々策士ぶりも見せていますが・・・。
その他、竹谷神社と同じく、熊野権現を勧請した大宮神社、前述した八百富神社などを創建しています。
藤原俊成卿が三河国司に任ぜられたのは平安末期の久安元年(1145年)十二月から同五年(1149年)四月までの三年五カ月の期間となります。一説には三河湾の温暖な気候を非常に好み、現在の蒲郡駅周辺に屋敷を有していたようです。それを裏付ける様に『吾妻鑑』という歴史書には、竹谷・蒲形荘を開発した人物として、藤原俊成卿の名前が記されています。
平安時代の三河国の国府は現在の豊川市にあり、蒲郡とは平坂街道で繋がっている位置関係になります。
現在では、JR東海道線、名鉄蒲郡線が走り、駅南側は埋め立てがされていて、少し海岸線が遠くなっていますが、平安時代末期の藤原俊成卿の屋敷は海から近い場所に建っていたと想像できます。
また、中央政権においての藤原俊成卿は、歌人として非常に有名で、寿永ニ年(1183年)、後白河院の院宣を受け、文治四年(1188年)、第七勅撰集『千載和歌集』を撰進しています。ちなみに、息子には小倉百人一首の選者で有名な藤原定家がいます。親子そろって和歌の名人だったんですね。
訪問記
竹島水族館、竹島ファンタジー館など、昭和の香りがする観光スポットを有する竹島遊園。水族館から竹島にかかる橋の間にある芝生広場に藤原俊成卿の銅像は建っています。
ただ銅像が立っている場所が多い中、モニュメントの様に整備されています。
きちんと、銅像の所にも藤原俊成卿の生い立ちなどが書かれています。
こういった説明書きがないと、「(この銅像)誰やねん!」となってしまいます。実際そんな銅像が多いこと多いこと・・・少しでも説明書きが書かれていると助かるのにと何度も思っていますので。(まぁ、自分の学の無さが第一原因なんですけどね)
すこし銅像に近づいてみます。
舌から見上げる感じで・・・かなり凛々しいお姿をされていますね。
なんとなく、現代人でしかもかなりスタイルの良い方並みのプロポーション。
恰好良すぎ・・・かな?
方向的には、竹島を向いて立っている感じですかね。
次の目的地は?
竹島遊園を後にして、東に向かいます。西郡五社の最後、三谷町に鎮座する「八剱神社」を目指します。