
神社情報
神社名:八幡社
鎮座地:西尾市吉良町小山田東山百二十二番、乙川北大山一番地
御祭神:譽田別尊、綿津見神
旧社格:神饌幣帛料供進指定村社
創 建:貞観元年(859年)
境内社:なし
例大祭:四月十八日
御朱印:ー
H P:ー
参拝日:2018年3月23日
御由緒
社伝に、元禄二年(1689)東条の城主吉良義央、富好新田を造成し鎮守の社を建てる。社殿は新田の中央にあったが、宝暦四年(1754)の津波により流出する。社地を現在地(青鳥山)に遷し祀る。明治制度改めによって、八幡社と改称し、明治五年十月十二日、村社に列し、同四十年十月二十六日、神饌幣帛料供進指定をうけた。同四十三年五月十日、字北切の綿津見神社を合祀する。
愛知県神社庁 発刊
「愛知県神社名鑑」より
参拝記
青鳥山真正寺の記事の中で登場した、富好新田の鎮守となる八幡社になります。住所を見ると、隣の地区の山に鎮座しいるので、歴史を知るまで富好新田には神社がないのか?と思っていました・・。
上記の記事でも述べていますが、明治政府の神仏分離令によって八幡社として祀られていますが、それ以前は真正寺と呼ばれていたようです。
全国的に寺社の住職が神事を兼務して行うという事は多々あったようです。
そんな八幡社(真正寺)ですが、吉良上野介義央の妻「富子」が眼病治癒の祈祷の際に守り本尊として祀ると約束していた七面大明神(通称「七面さん)を富好新田の氏神として祀り、安置した場所になります。
しかし、上記でも述べた神仏分離令により、この八幡社から七面大明神は現在の真正寺に遷座しており、厳密に言えば、吉良上野介義央との縁もなくなっていますね。
境内入口
国道247号線「吉良温泉入口」交差点近くにある八幡社参道入口です。
社号標
社号標単体の写真を撮り忘れました。
大正十二年十月建立の旧社格が彫られた社号標です。神社庁資料では八幡社なんですが、八幡神社と彫られています。
鳥居
参道途中にある大正十三年四月建立の明神鳥居がお出迎え。
参道
ちょっとバックして鳥居越しに社殿を望みます。
中々の石段が待っているようです。
ちなみに、鳥居前の一対の石灯篭なんですが、
日露戦争戦勝記念だそうです。
神社を巡っていると、日露戦争にまつわる石造物を多く見かけます。これだけ津々浦々に記念の石造物が作られたところを見ると、当時の日露戦争の勝利は国民に与える影響が途轍もなかったんだと思います。
石段を登っていきます。傾斜自体は緩やかですので、そんなにきつくはないと思います。
途中、なんだか無理やり水路を作り掛けた感がすごい太鼓橋です。
橋を越えてさらに昇っていくと、石灯篭がお出迎え。
年を重ねるごとに石灯篭が増えていく感じなんで、年化すると石段の最初のところまで石灯篭が作られてくるんでしょうか。
やっと、社殿が見える位置まで上がってきました。境内はもうすぐです。
手水舎・水盤
四本柱タイプの木造銅葺の手水舎になります。
祓所
祓所と紹介していますが、実際のところ本当に祓所なのか100%確信が持てなかったりしますが、たぶん合ってるでしょう。
四隅に杉を植樹して祓所を形成させるなんて、初めて見ました。これを考えて実行したこの地区の年行事さんだったり氏子総代さんだったり関係者の熱意はすごいですね。
狛犬
大正十年十月生まれの狛犬一対。
社殿
切妻、平入、瓦葺の拝殿になります。
社殿全体が境内よりさらに石垣を要して盛土されています。まさに見上げる感じの社殿のイメージですね。
覆殿になります。中には流造の本殿が鎮座しているそうです。
本殿を囲む玉垣が、いい雰囲気を出しています。
拝殿に掲げられた扁額・・・これはまた独特ですね。
懸魚・鬼瓦
鰭付きの蕪懸魚になります。
参拝を終えて
青鳥山の中腹に社殿が建っているので、非常に見晴らしが良いです。元々は津波の被害からこの地に遷座されたわけですので、現在でもこの神社の脇には津波災害の際の避難地として管理されていたります。
佐久島、日間賀島、篠島、知多半島、渥美半島、さらに遠くには志摩半島の山々が見えます。
少々拡大してみます。
海の向こうに見えるのが日間賀島、さらにその奥のうっすら見える稜線が志摩半島になります。
神社を散策してみましたが、七面様の面影は・・・。
参道の石段の途中で
お地蔵様が固められていたのが印象的でした。
近隣の神社








