寺院情報
寺院名:精明山 宝泉寺
鎮座地:愛知県西尾市吉良町小牧
本 尊:不明
宗 派:浄土宗西山深草派
創 建:文禄四年(1595年)
H P:-
札 所:三河海岸大師 八十番札所
参拝記
小牧陣屋跡から南に80mほど行ったところに鎮座しているのが、今回紹介する宝泉寺です。この宝泉寺を訪れた理由は、三河海岸大師八十番札所という事だったんですが、参拝して初めてこの宝泉寺が天領だったころの代官家の菩提寺だったことを知りました。この辺は後述・・。
こんな感じの小牧地区の集落の中に宝泉寺はあります。
写真右に移っているのは、観音堂になります。
観音様は祠の中に置かれた厨子の中に入っていて拝見できませんでした。
この祠も観音堂は宝泉寺が管理しているんですかねえ。
薬医門の山門になります。薬医門の基本型である門脇の勝手口が設けられていますね。
この宝泉寺の本堂は明和四年(1764年)に修造された物だそうです。
ここの本堂は全体の造形のバランスが個人的には好きですね。
この本堂の両側に設けられた火打窓がより一層雰囲気を高めている気がします。
鐘突堂になります。この鐘突堂自体は飾り気もなく、簡素な造りなわけですが、ここに吊られている梵鐘が西尾市の指定文化財(工芸品)になっています。
延宝八年(1680年)に三河代官"鳥山牛之助精元"とその子"精永"が、菩提寺の宝泉寺に寄進した。近江国栗東郡辻村(滋賀県栗東市)から碧海郡松江村(碧南市)へ移住した鋳物師、初代国松十兵衛の製作による現存する唯一の梵鐘。
西尾市ホームページより
ここで登場してきた代官である鳥山氏なんですが、関ヶ原の合戦後の1601年、三河代官職に任ぜられ、東条を本拠に三河にある幕府直轄地を支配したと言います。しかし、代官所があった場所は不明です。そして1685年、鳥山氏が越前国高田の代官として移動し、東条の代官所は閉鎖されます。その後、1703年、大河内松平家の領地として、前回紹介した小牧陣屋が築かれて明治維新まで続いて行きます。
1601年、鳥山洞意精俊が三河代官職に任ぜられ、東条に赴任。
1610年、精俊没、精俊の兄精信の鳥山牛之助精明が養子となり家督を継ぐ。
1660年、鳥山牛之助精元が継ぐ。
1685年、越後国高田の代官となって移った。
1601年~1685年の84年間、三河の天領を統括していた一族という事になります。特に、三代目の鳥山牛之助精元は幡豆の地だけではなく、現在の豊田市でも名代官として功績が称えらえています。
そんな鳥山家の菩提寺という事で、代官に任ぜられていた三名の墓石もこの宝泉寺に安置されているそうです。
そうそう、以前紹介しました、駮馬の法光院でも三河代官鳥山牛之助精明の名を目にしました。
宝光院と宝泉寺が三河代官鳥山氏で結ばれるとは。何度も言っていますが、歴史探訪はこういった縁の繋がりがおもしろいです。
さらにこの梵鐘、"国松十兵衛"という人は碧南鋳物の祖とも言われる人で、この三河地方では有名だった鋳物師です。しかも、この梵鐘は初代"国松十兵衛"の作品の中では唯一現存している物だそうです。国松家は代々鋳物師を営んでいましたが、7代目の頃(1830年頃)には衰退し、鋳物設備を売却してしまったとか。
この梵鐘には、鳥居氏が寄贈した経緯など詳しく彫られているそうです。
さらに、鳥居牛之助精元は
阿弥陀如来石造も寄進しています。旧吉良町で一番古い石造らしいのですが、風化防止などは行わなくていいんですかね。
境内の一画にひっそりと鎮守の社が置かれていました。新緑がまぶしいですな。