大久保氏(松平氏/徳川氏譜代)

大久保氏とは?

 徳川家の譜代大名として小田原藩の藩主を務めた「大久保氏」は、北関東下野国を本貫とした戦国大名宇都宮氏の支流であると言われています。鎌倉時代末期から室町時代初期の時代に「宇都宮泰藤」が三河国碧海郡和田荘に住んだとされ、その居城を「上和田城/紹介記事」と呼びます。

 宇都宮氏は藤原北家「藤原道兼」の曾孫を称する「藤原宗円」が前九年の役の功により下野国宇都宮大明神(現在は宇津宮二荒山神社)の座主となります。三代朝綱の時代姓を宇都宮に改称し、源頼朝の御家人として列格する一方で日光山別当も兼ねる様になり「宇都宮検校」職となり、社家・武家を兼帯するようになっていきます。
 宇都宮氏は「紀清両党」と呼ばれる精鋭武士団を従えて下野国を中心に勢力を伸ばし、国司(下野守)を歴任し戦国時代まで生き延びています。

 宇都宮泰藤は、宇都宮氏八代宇都宮貞綱の弟「宇津宮泰宗」の孫に当たります。父である時綱は武茂荘を本貫とし武茂姓に改称しており、「武茂泰藤」とも呼ばれています。泰藤は後醍醐天皇による鎌倉幕府討幕の勅令により挙兵した「新田義貞」の旗下に馳せ参じ、鎌倉幕府討幕後、足方尊氏率いる北朝方との争い(南北上時代)においても、泰藤は新田義貞と共に南朝方の武将として参戦しその武名を高めたと言われています。(宇都宮氏は宗家が最初は南朝方として参戦していたがその後北朝方に属するなど、一族内でも対応が分かれていた様です。)

 宇都宮(武茂)泰藤は、新田義貞が延元三年/暦応元年(1338年)閏7月2日に越前国藤島において討ち死にするまで義貞と行動を共にしていましたが、義貞亡き後は義貞の弟「脇屋義助」を主将として越前国を中心に北朝方と争いますが、そんな最中の延元四年/暦応二年(1339年)8月、後醍醐天皇が崩御してしまいます。南朝で圧倒的な存在感であった後醍醐天皇の崩御により、南朝の勢いに陰りが見え始め、越前国内でも北朝方が優勢となり、興国二年/暦応四年(1341年)、義助や泰藤は越前国を脱出し美濃国の根尾城に入城して北朝に抵抗したと伝えられています。しかし、根尾城もこの年の九月に落城してしまいます。ここで新田軍は北陸からの撤退する事となり、脇屋義助は美濃国→尾張→伊勢→伊賀→吉野と向かい後村上天皇と拝謁しています。一方の宇都宮泰藤は尾張国で義助と分かれて三河国碧海郡和田荘に入り、上和田城を築城したと伝えられています。

なぜ宇都宮泰藤は三河国碧海郡和田荘にやってきたのか?

 三河国は鎌倉時代の承久三年(1221年)に起こった「承久の乱」で軍功を挙げた足利義氏が三河守護と額田郡、碧海荘、吉良荘の地頭職に任ぜられて以降鎌倉時代を通じて歴代の足利氏当主が三河守護を歴任するなど足利家の本拠地といっても過言ではない場所になります。(細川氏、仁木氏、吉良氏、今川氏、一色氏の本貫地)

 そんな北朝方の重要拠点となる三河国に、北陸で敗れた宇都宮泰藤が逃げ延びて居館を新たに事ができるのでしょうか?

 特に、和田荘からは比較的近い距離に尊氏が三河国滞在時に居していたともされる「足利館」が矢作にあったとも言われ、南朝方の残党が流れてきたとなれば討伐されてもおかしくないと思う訳です。北朝方に寝返ったという話ならまだ分かる訳ですが、一説には上和田を拠点に南朝方の勢力を伸ばそうと動いたとも言われていて、よく北朝方に攻め込まれなかったなという思いを強くするわけです。
 そこで、当サイトでは一つの仮説を立ててみる事にしました。

  • 鎌倉時代には宇都宮氏八代宇都宮貞綱、またその甥である宇都宮貞泰が三河守に任じられており、三河国碧海郡和田荘周辺は宇都宮氏の所領があった。
  • 宇津宮泰藤の妻である徳子の父は美濃国里見城主「土岐頼直」であり、頼直は北朝方の武将として足方尊氏の軍勢に加わっていました。
  • 妙国寺の寺伝の中で上和田に泰藤の妻子が住んでいたという記述がある。

 こういった背景から、三河国碧海郡和田荘は宇都宮氏の所領または地頭を務めていた場所になり、宇都宮泰藤は鎌倉幕府討幕の挙兵以前から上和田に居館を構えていて、ここから新田義貞の下に馳せ参じ、そして、南朝方の武将として活動した後、北陸で敗れ、興国二年/暦応四年(1341年)ひそかに上和田に戻ってきた時、義父である「土岐頼直」が和田荘を訪れ、泰藤との会談を行ったと伝えられています。そしてその会談後、頼直は里美城を嫡子に譲り、自らが里美城下に創建した「本寿山妙国寺/紹介記事」を和田荘に移し、土岐頼直自身も和田荘に移り住んだとしています。
 宇都宮泰藤は上和田に戻ってからは表に出ることなく、出家して主であった新田義貞の菩提を弔っていたのではないでしょうか。

 泰藤からの宇都宮氏は、泰綱・泰道(この時、宇都宮から宇津(または宇都)に改姓)・泰昌・昌忠・忠与と続いていきます。妙国寺の寺伝によると、泰藤の子「宇都宮泰綱」の時、西条城を居城としていた吉良氏との領有争いに敗れ、妙国寺に閑居となったとされています。
 宇津泰昌の時、新進勢力ともいえる松平氏の本拠である松平郷に移り、昌忠は、松平宗家三代松平信光に仕えたとされています。岩津城を居城とした松平信光の代までの家臣を「岩津譜代」と称し、その中に、宇津氏(大久保氏)の名があげられています。松平譜代の中でも最古参の一族という事ができます。そして、昌忠の時、本拠出会った上和田城に復帰を果たしています。

 吉良氏に和田荘を奪われた過去がある為なのか、大久保氏は上和田城周辺に大久保氏一党が住み、徐々に大久保氏の勢力は上和田だけではなく、宮地、羽根などに広がっていきます。大久保党とも呼ばれる強力な一門衆を誇り、今川家に従属せざるを得なくなっていた松平広忠の時代には、蟹江城攻めに特に武功を挙げたという「蟹江七本槍」に大久保党がその名を独占しています。

蟹江七本槍
弘治元年(1555年)、今川軍の蟹江城攻めで活躍した松平軍の家臣七名を顕彰したもの。
・大久保忠俊(1499年 – 1581年)、または大久保忠勝(1524年 – 1601年)
・大久保忠員(1511年 – 1582年)
・大久保忠世(1532年 – 1594年)
・大久保忠佐(1537年 – 1613年)
・阿部忠政(1531年 – 1607年)
・杉浦吉貞
・杉浦勝吉
※大久保忠勝は大久保忠俊の子。
※大久保忠世と大久保忠佐は大久保忠員の子
※阿部忠政は大久保忠次の子(阿部氏の養子となる。)
※杉浦吉貞は、宇都(宇都宮)忠茂の娘の子(嫁ぎ先が杉浦政次)
※杉浦勝吉は杉浦吉貞の子

 宇津忠茂は松平清康、広忠に仕えた武将であり、清康が岡崎(大草)松平氏の支城であった山中城を攻めた時、力攻めではなく調略をもって落城させ第一功とし、市を開く権限(桝取り)を得て、民政などにも手腕を発揮したと言われています。しかし、主君清康が守山城攻めの時に起きた森山崩れにより亡くなると、松平氏の勢力は急激に衰え、更に清康の子「広忠」と桜井松平氏「松平信定」との内部抗争もあり、西から織田氏、東からは今川氏の勢力が伸びてきて、松平家は苦境の時代を迎えてしまいます。織田氏は安祥城を攻め落とすと矢作川以西の松平氏諸家や家臣を次々に調略していきます。そして矢作川の渡河地点であった渡から矢作川を渡河し岡崎城南部に位置する上和田に橋頭堡となる砦を築いています。宇津忠茂は一連の織田家の圧力に対抗する為に上和田城を放棄し、占部川を挟んで対岸に位置する羽根西城、羽根東城に大久保党の拠点を移し織田氏に対抗していたと思われますが、天文十六年(1547年)に死去します。宇津氏の菩提寺は宇都宮泰藤から妙国寺になっていましたが、織田家の侵攻もあり、妙国寺での埋葬ではなく、岡崎市竜泉寺の長福寺にて埋葬されています。

 長福寺の中興開山したのは、妙国寺を創建した宇都宮泰藤の義父「土岐頼直」であるとし、両寺院とも宇津氏の崇敬を集めていた寺院であったと言われています。

 宇津忠茂の嫡子「宇津忠俊」はまだ松平清康が存命中の時、越前国より大窪藤五郎という武芸者が三河に修業に来て、自分の名字を残すのは忠俊しかいないと要望したので、主君・清康に伺いを立てると、大窪は剛勇の士であるからその望みを認めようと言ったので、当初の姓は「宇津」であったが、兄弟全員と共に「大窪」に改名し、後年に漢字は「大久保」と改めたと伝えられています。

 大久保氏の名を広めることになったのは、大久保忠俊の弟「大久保忠員」の嫡子「大久保忠世」とその弟「大久保忠佐」ではないでしょうか。徳川十六将にも名を残す両者は前述の蟹江七本槍にも名を連ね、忠世は小田原城主、忠佐は沼津城主に任ぜられています。
 しかし、慶長十八年(1613年)九月二十七日に忠佐が七十七歳で死去すると、沼津藩は無嗣断絶で改易となり、小田原藩主である忠世の嫡子「大久保忠隣」は翌慶長十九年(1614年)一月十九日に突如改易を申し渡されるなど浮き沈みの激しい一族であるともいえるかと思います。忠隣の孫「大久保忠職」になり罪を許され任官、藩主として復職しています。騎西藩、加納藩、明石藩、唐津藩と転封を重ね、養子、大久保忠朝は唐津藩、佐倉藩を経て忠隣が改易されて以来の小田原藩に復帰しています。小田原藩は十一万三千石を有する藩であり、大久保氏からは老中を何人も輩出するなど江戸幕府の中枢を担う一族でありつづけました。

 また、大久保忠員八男「大久保彦左衛門忠教」は三河物語を著した事でしられています。忠隣の改易と連座改易となってしまいましたが、家康直参の旗本として召し上げられ、知行地二千石の陣屋を坂崎陣屋を構えています。忠教の遺言により、父忠員と同じ竜泉寺の長福寺に埋葬されています。

当サイトで紹介している大久保氏所縁の地