城跡巡り

坂崎陣屋(愛知県額田郡幸田町) 大久保氏陣屋

2021年1月18日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

城郭情報

城名坂崎(大久保)陣屋
所在地愛知県額田郡幸田町坂崎字御屋敷十番地
築城年慶長十九年(1614年)
築城主大久保忠教
城形式陣屋
遺構石垣
規模
備考現在、八百富社境内

訪問日:2021年1月15日

沿革・詳細

 大久保忠員の八男「大久保彦左衛門忠教」が慶長十九年(1614年)に徳川家康の直参の旗本として三河国額田郡坂崎に一千石の知行地で召し上げられた時、築いた陣屋になります。忠教は基本的に江戸城に詰めていた旗本となるので、基本この陣屋は代官が詰めていた事になります。その後、寛永元年(1624年)には竜泉寺・羽栗・桑谷など合わせて一千石が加増され、合計二千石の旗本の知行地を管理する陣屋となっています。
 大久保忠教の系図は、忠教1639年没ー忠名1659年没ー忠隆1664年没ー忠直1702年没ー忠備1744年没ー忠垣1789年没ー忠順1824年没ー忠良(明治維新を迎える)と続いていきます。

歴史探訪

 「三河物語」の著者で知られている「大久保彦左衛門忠教」の二千石の知行地を管理する陣屋跡になります。大久保氏に代わって金澤氏や三浦氏がこの地を治める実務を担い、約250年間に及ぶ大久保家の知行地を管理してきた事になります。
 明治維新により、坂崎に戻ってきた?やってきた?九代当主大久保忠明は坂崎村の村長を勤めたり、大久保氏屋敷となっていた旧坂崎陣屋跡に坂崎郷学校を開校するなど地元の発展に寄与しています。

明治期の坂崎陣屋を撮影した写真

 坂崎郷学校が坂崎尋常小学校となり、大正九年に現在の場所に移った後に、屋敷跡の南側にある教塚古墳の周囲を境内地としていた八百富社の境内が手狭になった事から、屋敷跡へ遷座が行われ、現在では屋敷跡は八百富社の境内地となっています。

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訪問記

 平成から令和に変わる辺りで坂崎陣屋のすぐ南側にセブンイレブンが開店して、2021年1月現在アップされているストリートビューでの陣屋周辺の様子は大きく様変わりしています。ただ、今後は国道248号線辨天交差点角にできたセブンイレブンを目印にすることができるので、訪れるにはらくになったのかもしれませんね。

 古写真の撮影している場所とほぼ同じ場所から陣屋跡を望みます。少し前までは、屋敷跡に通じる道の左右は田園風景がひろがっていたのですが、先ほども書いていますようにセブンイレブンが出来てその敷地を囲むフェンスが設けられています。視覚的に非常にフェンスが迫ってくる感じがします。

 陣屋があった当時の石垣が残っています。元々の陣屋の敷地は現在の八百富社の境内地と隣にある消防団の建物と公民館が建っている敷地を合わせた場所になるのかなと思います。ただ、地名を見てるともしくはもう少し西側まで広がっていたかもしれません。

 左が1960年頃ですので、昭和35年~40年頃の航空写真になります。右は2010年頃の航空写真になります。大きく異なるのは、南北に国道248号線が開通している所ですかね。自分が小学生の頃までは248号線バイパスと呼ばれていました。

 既に述べている様に、現在では陣屋跡は八百富社の境内なっています。こちらの八百富社についてはまた別記事で紹介させて頂きます。

 そう言えば坂崎陣屋跡の説明板が新しく張りなおされていました。非常に詳しい内容となっていて非常に助かります。

地図で所在地を確認

城郭名坂崎陣屋
所在地愛知県額田郡幸田町大字坂崎字御屋敷十番地
最寄駅JR東海 東海道本線「相見駅」徒歩21分

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