岡崎市

本寿山妙国寺(愛知県岡崎市宮地町) 宇都宮泰藤菩提寺

2021年1月14日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

寺院情報

寺院名本寿山妙国寺
所在地愛知県岡崎市宮地町寺北十九番地
御本尊大曼荼羅
宗 派法華宗陣門流
創 建暦応四年/興国二年(1341年)
札 所
御朱印
H P

参拝日:2021年1月9日

沿革・由緒

 岡崎市宮地町に鎮座する「糟目犬頭神社/紹介記事」に伝わる「犬神(犬頭)伝説」に登場する宇都宮泰藤の菩提寺となる寺院になります。

 妙国寺の創建については、宇都宮泰藤の妻・徳子の父の、岐阜の里見城の城主であった土岐(多田)頼直が、鎌倉で行われた、 仏教について勉強したことについて戦う「法論会」(問答)において、法華宗総本山本成寺の日印聖人が論破する姿に感動し、上人を師と仰ぎ「日道」と名乗って出家し、暦応四年/興国二年(1341年)、娘婿となる泰藤が治める三河国碧海郡和田荘に草庵を結びます。この草庵が妙国寺の起こりであると伝えられています。

 六ッ美町誌によると、元々土岐頼直は、法華宗に帰依した後、自らの居城であった里見城下に一宇を建立したとされ、娘である徳子と婿である宇都宮泰藤が頼直の信仰する姿に感動し、自らの所領にも法華宗の一宇を建立しようとすると、頼直は里見城下に建立した堂宇を和田荘に移築させます。家督を息子に継いだ後、剃髪し「日道」と称した後、和田荘に移り住み、この堂宇を移築した時が暦応四年/興国二年(1341年)であるとしています。

舊と美濃国にあり。興国元年の創建になると云ふ。この地の城主左近衛将監宇都宮泰藤の妻は美濃国里見城主土岐伊豫守の女なり。伊豫守敷き敷々和田に来たりて泰藤と語る。談常に佛事に呼ぶ伊豫守遂に其香火院妙国寺を和田に徒すと云ふ妙国寺是なり。

愛知県碧海郡誌」より

歴史探訪

 妙国寺は、松平・徳川譜代となる「大久保氏」に非常に所縁のある寺院になります。由緒でも出てきている「宇都宮泰藤」が大久保氏の祖先にあたると「寛政重脩諸家譜」では記載されています。ただ、宇都宮氏と大久保氏を関連付ける家系図については仮冒ではないかと言われている部分になります。
 「新田義貞」と共に越前国で勢力の回復を図っていた所、藤島の戦いで新田義貞が討ち死にしてしまい、宇都宮泰藤は義貞の弟である「脇屋義助」がと共に、越前国での勢力回復は断念して宇都宮一族が伊予守となっていた伊予国に向かったと言われています。

 しかし、その後の宇都宮泰藤の動向は分かっておらず、三河国和田荘または相模国小田原に落延びたという説が出てくる要因になっているかと思います。宇都宮泰藤が和田荘に落延びてきた状況についても様々な説があります。

  1. 延元三年/建武五年(1338年)に主君新田義貞の首を京より奪還し、新田氏の本貫である上野国まで運ぶ途中病に罹り、所領であった和田荘に戻り、首を糟目犬頭神社の境内に埋葬した。そして上和田城を築城し南朝軍再興を図ったという。
  2. 新田義貞討死後も脇屋義助と共に越前国で南朝軍の再興を図るも北朝方の勢力が強く、美濃国の根尾城に籠るが興国二年(1341年)に落城し、伊予国を目指す脇屋義助とは途中の尾張国で分れ、三河国碧海郡和田荘に潜伏し、上和田城を築城した。
  3. 延元三年/建武五年(1338年)に主君新田義貞の首を京より奪還し、新田氏の本貫である上野国まで運ぶ途中、妻子の住む上和田城を訪れ、暇を申し出、東海道を東進するが、小田原の地で病に罹ってしまった為、やむを得ずこの地に義貞の首を埋葬したという。

 資料がある訳ではないのですが、2の状況になるまでに、新田義貞の首を奪還すべく越前国をひそかに抜け出した泰藤は、その主君の首を奪還した後、上野国に届けるべく東進しますが、8月という時期もありあまりにも腐敗が進行してしまった為、やむを得ず三河国の自らの所領があった和田荘に鎮座する糟目犬頭神社の境内に義貞の首をひそかに埋葬し、再び自らの家来がいる越前国に戻っていたという事も考えられるかと思います。

 3番の説は、神奈川県小田原市にある新田義貞の首塚に纏わる伝承になるのですが、通常京都から上野国に向かう場合、鎌倉時代や室町時代には東山道と呼ばれる岐阜→長野→群馬と抜けるルートを使うのが一般的だったといいます。江戸時代になると中山道と呼ばれるルートですね。しかし、この説では東山道ではなく、遠回りとなる東海道をわざわざつかって東に向かった理由は、途中和田荘にあつ自らの居館に立ち寄り、そこに住む妻子に暇を告げる為だったしています。そして和田荘と発ち、東海道を東に上野国に向かいますが小田原周辺で病に罹り、やむを得ずこの地に新田義貞の首を埋めたとしていますが、これは京を発って何日後の事なんでしょうかね・・・。上にも書いていますが、義貞が討ち取られたのは8月の事となり、越前国から京に首が運ばれるだけでも数日を要しているはずですし、さらにそこから晒し首となっていたわけで、もうこの時点でかなりの腐敗が進行していたはず。(いくら産業革命前の温暖化ガスがほぼ放出されていなかった時代とはいえ、夏場の気温が25度を下回っていたとは思えないですね。)
 こんな状況で、京都から和田荘経由で小田原まで運んでいけるものなのでしょうか。仮に説の通り運んだとしても、小田原に埋葬した理由は、泰藤の病ではなく、首級の腐敗であったことは想像に難くないかと思います。

 いつ頃宇都宮泰藤が和田荘に居するようになったのかはよくわかりませんが、糟目犬頭神社と妙国寺の北側に上和田城を築城してここを本拠とし、文和元年/正平七年(1352年)三月十九日、五十一歳で没し妙国寺に埋葬されています。そして泰藤の子孫達も上和田城を居城として、妙国寺を菩提寺としています。

宇都宮泰藤の墓石

 妙国寺には宇都宮泰藤から大久保忠茂に通じる一族の墓石があります。しかし、大久保遠祖供養塔と案内されている場所に置かれている五輪塔はすべて表面が風化しており彫られていたであろう文字を読むことが出来ません。額田郡六ッ美町誌を読むと、宇都宮から大久保に繋がる歴代当主が葬られているそうで、どの五輪塔が誰の物なのかは不明ですが、妙国寺と宇都宮氏の強固な繋がりを感じます。

大久保氏遠祖供養塔

土岐伊豫守頼直入道日道の墓

 正應元年、美濃国時軍土岐郷城内にて生まれる。父は土岐城主土岐頼貞。土岐小太郎頼直とも言い、伊予守従五位下に叙せられ左衛門尉に任ず。建武の役においては父と共に足利尊氏の軍勢に加わわる。しかし、自ら帰依していた法華宗の僧侶となるため、尊氏軍を抜け帰省し、剃髪し日道入道を称する。娘婿である宇都宮泰藤と居宅を訪ね、胸襟を開いて会談し、和田荘に一寺を建立し移り住む。至徳元年/元中元年(1384年)九月十三日没す。九十七歳だったと伝わる。妙国寺に葬る。

宇都宮泰綱の墓

 宇都宮泰藤の三男。父の跡を継ぎ上和田城に居するが、度々吉良氏との争いがあり、その領土を押領せられ、妙国寺に閑居する。応安二年一月十日没。三十歳なり。妙国寺に葬る。

宇都泰道の墓

 泰道は泰綱の子にして宇都宮を宇都に改める。是、祖父泰藤が犬頭大明神の宮を創建せしに依って宮の地を諱み省けりと云ふ。妙国寺に閑居す。応永十五年八月二十日没。四十三歳なり。妙国寺に葬る。

宇都泰昌の墓

 泰昌は泰道の子にして妙国寺に閑居す。この頃の妙国寺は大破に及びたるを以て、丹精経営に勉められ、景観を維持するを得たり。文安五年六月二十日没。七十二歳なり。妙国寺に葬る。

宇都昌忠の墓

 昌忠は泰昌の子。松平信光に仕える。信光より忠の字を賜る。岩津譜代と云う。上和田郷の邸跡に復帰する。後世宇都を大久保に改め同一族名乗り、忠の字を用いる元始にして、主(松平氏)に仕える始めとす。明応九年十二月七日没。八十一歳なり。妙国寺に葬る。

宇都忠興の墓

 宇都昌忠の子。松平長親、信忠に仕える。宇都宮泰藤の領地七カ村あり。上和田、宮地、法性寺、牧御堂、土井、赤渋、森崎の各村なり。忠興の時に至りて下和田、井内、野畑、坂左右の四カ村を加領し合計十一カ村、五千石余りの地を領せり。人呼びて和田殿と称せり。明応三年(大永二年との説もあり。)三月五日没。二十八歳なり。妙国寺に葬る。

加藤宮内右衛門景成の墓

 景成の室は大久保忠茂の女にして后之が子孫大久保と改む。景成は和田の神職にして法名道泉を称する。天正六年四月没。妙国寺に葬る。室は妙秀と称し文禄三年正月没。妙国寺に葬る。

大久保平太夫景實の墓

 景實は景成の男。天正の末神君(徳川家康)関東移封あり。大久保一族も随従して上和田を出発す。是に困って上和田大久保の領地にこの氏族の止り存ずる物無し。時に忠茂の婿加藤宮内右衛門景成が子平太夫景實、氏を改め大久保と称し和田の郷に止り住せしむ。慶長八年神君伏見城に御座の時、平太夫影實伏見に至りて治右衛門忠佐に付き添われ神君に拝謁す。時に神君平太夫を召して「三河の臾は何とて茲に来るや」と。忠佐申し上げるに殿も知し召す如く上和田の犬頭の社領を寄付し賜らん事を願いに来る由申し上げる。これによって神君犬頭社領四十三石寄附する朱印を拝領する。時に慶長八年八月二十八日なり。平太夫影實子孫相続で犬頭明神の社司職となり、和田郷の大久保先祖の地に大久保と称して今も残り存せり。慶長十六年三月没。妙国寺に葬る。

阿部大蔵定吉の墓

 定吉は宇都宮泰藤孫泰道の子宇都彌四郎泰定の子定時、母方の姓を名乗り阿部氏と改める。定時の子定道其の子定武の子にして大蔵大輔定吉と称す。松平清康・広忠に仕える。清康が定吉の嫡子正豊に切り殺される「森山崩れ」が起こると、その知らせを聞いた定吉は自決しようとするが、清康の弟松平信孝に止められる。清康の祖父松平長親がまだ存命であった為、家臣団が長親に岡崎城に来て定吉の処分を決めてほしいと申し出、長親は岡崎城に来て定吉は無罪であるとして処分はなく、定吉は清康の嫡男である仙千代(広忠)の補佐に任ぜられた。桜井松平氏の松平信定が岡崎城を占領し惣領の座を奪おうとしていた為、仙千代の命が危ないと岡崎城を脱出し、一時期伊勢国神戸に逃れた。その後吉良持広を頼り、三河国に再入国し室城に滞在するが、信定が軍勢を差し向けた為、吉良持広経由で今川義元を頼る事に成功し、天文六年(1537年)に岡崎城に帰還した。仙千代は室城滞在時に元服し松平広忠に改名しています。定吉はその後も広忠の筆頭家老として松平家の運営を支えていきますが天文十八年に死去。妙国寺に葬る。

 色々な史料を読んでも、阿部定吉が大久保家の祖先である宇都宮泰藤の家系出身であったと書かれている資料は見たことが無いのですが・・・。定吉は嫡子が主君である清康を切り殺してしまった為、それ以降子を設けなかったという事で、阿部定吉の家系は定吉が死去すると断絶してしまい資料がほぼ皆無であることもあり、阿部氏の出自もよくわかっていないというのが実状です。しかし、阿部氏は安祥七奉行にも名を連ねる安祥松平家最古参の家臣のひとつになります。松平家臣には何系かの阿部氏が属していましたが、一番この安城七奉行の阿部氏に一番近いとされるのがこの定吉のいる阿部氏なんだそうです。

 宇都忠興の嫡男が宇都忠茂になり、大久保姓に改称し大久保忠茂を名乗り、大久保氏初代となっていきます。そして忠茂は菩提寺を妙国寺から額田郡尾尻の海雲山長福寺に移しています。この為、大久保氏の菩提寺といえば長福寺を指すようになり、妙国寺は大久保氏の祖先の菩提寺といった感じを受けます。ただ、何故菩提寺を移す必要があったのか・・・。この辺りに宇都宮氏と大久保氏を繋げる家系図の暗部があるのかもしれませんね。

  系図を作成してみました。寛政重脩諸家譜を見てみても阿部氏に通じるとされる「宇都泰定」という人物については記載がありません。六ッ美町誌は一体どこからこの情報を得たんでしょうか・・。

参拝記

 糟目犬頭神社の参道入口から100mほど東側に建つのが今回紹介している「本寿山妙国寺」になります。上記ストリートビューでは旧本堂も写っていますが、2021年1月には旧本堂は取り壊されています。耐震基準を改修工事を行っても満たすことが出来なかったそうで、安心して参拝できるように新本堂の造営を行ったようです。

山門

 東向きに建っていた旧本堂の正面側だった場所に建つ朱塗りの袖壁が設けられた薬医門になります。この山門のすぐ脇に、先に紹介した「宇都宮泰藤の墓」があります。

 薬医門の脇には、元々は車両の出入り口にもなっていた石柱門もあります。現在では墓地側から境内に入りやすくなっているので、あまりこの石柱門は使う事はないのかもしれません。

本堂

 近代的な本堂に生まれ変わっていますね。本堂正面の扉は自動ドアになっていました。旧来の姿を模した姿で再建される事が大半の神社建築に対し、寺院の本堂再建も当然旧来の姿に準じて再建されている寺院のが多いとは思うのですが、対して近代建築の本堂に出会う事も少なくありません。この辺りを見ると、仏教のが先進的なんでしょうかね。

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所在地を地図で確認

寺院名本寿山妙国寺
所在地愛知県岡崎市宮地町寺北十九番地
最寄駅JR東海 東海道本線「岡崎駅」徒歩13分

寺院・霊場巡りの際のバイブルに

元々、当サイトは神社巡りを通じて、皆様の住んでいる所にある"村の鎮守の神様"と呼ばれる神社を紹介してくサイトを目指していたんです。むしろ寺院については、縁遠いものとおもっていたんですよね。しかし、ちょっとした御縁で弘法大師霊場に出会い、そして愛知県では一番活動が盛んな"知多四国霊場"を巡礼、結願する事になりました。でも、神社の事はある程度知識があっても、寺院については未知の世界だったので、少しでも巡礼の時に役に立てばと思い、こちらの本を読ませて頂いております。

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