二村山 法蔵寺(岡崎市元宿町) 三河新四国霊場三十五番札所、新選組隊長近藤勇首塚

寺院情報

寺院名 二村山 法蔵寺
所在地 愛知県岡崎市本宿町寺山一番地
御本尊 阿弥陀如来
宗 派 浄土宗西山深草派
創 建 大宝元年(701年):寺伝
札 所 三河新四国霊場 三十五番札所
三河観音霊場 十二番札所
三河七福神/恵比寿
三河十二本寺
三河三檀林
御朱印
H P

参拝日:2019年3月20日

沿革・由緒

浄土宗西山深草派の三河三檀林のひとつ。二村山と号す。本尊は阿弥陀如来。寺伝では行基と空海の伝承があり、二村山出生寺と称し、古くは法相宗、真言宗であったと伝える。至徳二年(1385年)京都円福寺より来住した教空龍芸が浄土宗に改宗し、その時宝蔵寺と改められた。
江戸時代には、東海道に接している事から、参詣者も多く、かつ、幕府の庇護も厚かったため、大いに権勢をふるった寺であった。
家康が幼時この寺で勉学をしたとされ、徳川家ゆかりの宝物が多く残されている。

境内「宝蔵寺案内板」よる

三河三檀林とは?

そもそも、檀林とは何ぞや?新纂浄土宗大辞典によると・・

僧侶が集まって学問をする寺院。古くは談所・談義所・談林ともいった。浄土宗では鎌倉時代から見られる。良忠の飯岡談所、聖冏の横曽根よこそね談所、性心の水沼談所、妙観の矢目やのめ談所、聖観の折木おりき談所などはその代表的なもの。もともとは浄土宗義や仏教学の講義をするところで、良い師のもとに多くの僧侶が集って勉強したが、長い時間のうちに伽藍が整備されて大寺院となった。浄土宗における談林という言葉は、慶長二年(一五九七)知恩院尊照が鎌倉光明寺・江戸増上寺にあてた法度が最初。この頃には関東にいくつかの談林があったとみてよい。江戸時代になると、関東には一八の檀林ができ、僧侶の育成に貢献した。

引用:web版新纂浄土宗大辞典より

とあります。端的に言えば、僧侶の育成機関といった所でしょうか。

そして、この法蔵寺を含め、愛知県の三河地方は浄土宗西山深草派にとって非常に重要な場所のようで、十二教区に分けられている様なのですが、その内九教区が三河地区になっています。寺院数でいくと、かなりの比率で三河地区に集中しているようですね。その為なのか、三河三檀林が設けられ、僧侶の育成を行ってきたんでしょうね。

そんな三河三檀林ですが、本宿の法蔵寺の他に、中島の崇福寺、魚町の大林寺であると言われています。

そんな浄土宗西山深草派の寺院なんですが、現在では、この三檀林も加わった形で、三河十二本寺という物が形成され、総本山の誓願寺に次ぐ中本山の格式を持つ寺院が三河に十二カ寺選ばれています。この十二本寺の中には、霊場の札所になっていて既に紹介した寺院もあったりします。

三河新四国霊場を行く

三十三番、三十四番札所「弘法山 明星院」を後して、国道1号線を東に向かい、本宿にある三十五番番札所「二村山 法蔵寺」とその塔頭である三十六番札所「二村山 勝徳寺」を目指します。法蔵寺、勝徳寺共に旧東海道沿いにあるので、名鉄「本宿駅」前の交差点を右折し、旧東海道に入っていく形になります。

寺前にはかなり大きな参拝者用駐車場が用意されていますので、車での巡礼も安心して参拝することができます。

参拝記

本宿の旧東海道を進み、鉢地川にかかる「法蔵寺橋」を超えるとすぐ右手に法蔵寺が見えてきます。(なぜかストリートビューで法蔵寺を旧東海道か望もうとすると東名高速に画面が切り替わってしまいます・・・。)

画面をパーンして頂くと、法蔵寺の境内の大きさが解っていただけるかと思います。

参道入口

境内入口から本殿までまっすぐ参道が伸びているのが、屋根の感じで分りますね。山門、鐘楼、本堂と続きます。
そして、山門の手前には、鉢地川を渡る為に朱色の欄干の橋が設けられています。

この参道の脇には

御草紙掛松が植えられています。この松の前に掲げられている説明板には・・・


寺伝によれば徳川家康公は幼少の頃、当寺にて学問、手習いに励んだと言われる。この松は家康公手植えの松といわれ、手習いのおり草紙を掛けたことから、家康公ゆかりの「御草紙掛松」として長く人々に親しまれてきた。また「御茶屋の松」「御腰掛の松」とも呼ばれた。
代々受け継がれてきたが、平成十七年八月、虫害により枯れた。その後「慣れ親しんだ松を後世に伝えよう」と、地元有志「もづく会」に手により、平成十八年三月、四代目の松が植樹された。
周囲の石柵は、文化十二年(1815年)旗本小造清左衛門俊往の寄進である。

平成十八年四月吉日 郷土史本宿研究会


この様な事が書かれていました。

寺伝には、天文十八年(1549年)正月に八歳の竹千代(後の徳川家康)が岡崎城から入学し、住職の教翁上人に手習読書を学んだされていますが、歴史上の通説ではて天文十六年八月に人質として駿府へ送られる際に戸田宗光が今川氏を裏切り織田氏に竹千代を届けた為、天文十八年十一月まで織田方と今川方の間における人質交換までの間、熱田周辺に住んでいたと言います。天文十八年十一月に数日岡崎城に滞在後、駿河国駿府に竹千代は岡崎城主の肩書のまま送られたといいます。

寺伝と通説が異なっており、どこまで信用できるのかは・・・。ただ、その後の徳川氏からの庇護を考えると、何らかの接点があったことは間違いないかと思います。

地蔵堂

山門の前には、宝形造の地蔵堂があります。

山門

貫まで袖壁が設けられた薬医門の山門になります。門を車で通り抜けできるという事は、今まで見てきた薬医門の山門の中では規模が大きい山門に入るかと思います。

二村山 勝徳寺

山門を超えて石段の参道が続くのですが、その石段の手前には、三河新四国霊場三十六番札所である「二村山 勝徳寺」がありますが、ここは次回紹介します。

賀勝水

徳勝寺の対面には、竹千代が手習いの際にここから水を汲んだといわれいる「賀勝水」と呼ばれる湧き水があります。

この賀勝水なんですが、日本武尊の伝説にも出てくるようで、日本武尊が東国征伐のときに法蔵寺の南の山頂で祈りを捧げると、岩の中から冷たい泉がほとばしり出たんだとか。日本武尊が、この水を「賀勝」と呼んだため、「賀勝水」と呼ばれるようになったといいます。

鐘楼

ここ法蔵寺には、三河海岸大師霊場を巡礼しているときによく見かけた一間鐘楼門が石段を上がった先に建てられています。この石段を上った先に建つということは、写真の様に鐘楼を見上げる形になり、非常に迫力のあるアングルで鐘楼が迫ってくる感じを受けます。

そういえば、西尾や知立で見たこの一間鐘楼門には、ほとんど耐震用の鉄製の支え柱が設けられていたのですが、ここ法蔵寺の鐘楼門にはそんな支えは見当たりません。

本堂

入母屋造瓦葺平入の向拝が設けられた本堂になります。高覧のある濡れ縁も設けられています。
また、向拝が三間幅(柱が四本)と広く設けられてて、こういった所にも寺格を感じられますね。

大師堂

本堂向かって左手に設けられている入母屋造妻入りの大師堂になります。
知多四国でも散見した大師像と宝塔を結ぶ白い紐が張られていますね。これも開創五十五周年だからでしょうか。

大師像は扉の奥に奉安されていて、姿を見ることはできませんでした。

「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」・・・

六角堂

大宝二年、行基がこの地を訪れた時、輝く杉の大木を見つけたという。すると突然現れた童子に「ここは釈迦如来降臨度生の霊山で、この杉は日本武尊が諸神を勧請した際に一夜で生まれた霊木です。この木で観音像をつくりなさい」と啓示を授かり、行基は童子(実は救世菩薩の化身)と共に長さ三尺三寸の正観音(聖観世音)像を彫刻し、山上に六角堂を建てて安置したといわれています。現在の六角堂は、山頂にあった六角堂が大風により倒壊してしまった為、本堂脇に移築再建したものになります。

三河観音霊場は現在(2019年5月時点)はまだ巡礼していないので、はっきりとしたことは解らないのですが、この三河観音霊場十二番札所の札所本尊はこちらの観音様なのかなと思っています。このあたりは、三河観音霊場を巡礼する時に調べてみたいと思います。

法蔵寺内東照宮

この法蔵寺の境内には、東照宮が鎮座しています。徳川家ゆかりの東照宮や寺院といえば朱塗りの建物に色鮮やかな彫り物達が想像されますが、ここ法蔵寺内の東照宮もまさにそんな感じの建物です。岡崎市内における寺院内にある東照宮といえば、滝山東照宮を真っ先に思い浮かべてしまうのですが、こちらの東照宮も想像より立派な建物でした。

入母屋造の大屋根に切妻破風が設けられ、さらに向拝が設けられているのですがその向拝の屋根には唐破風が設けられるという、屋根装飾がこれでもかと取り入れられた本殿になります。本殿?・・・本堂?・・・東照宮ですから本殿にいいかと思うのですけどね・・・。

松平家御霊廟と三方ヶ原合戦戦死者の墓

東照宮から一段降りたところには、松平広忠公を五輪塔の墓を中心に松平氏の墓が並んでいます。

更に、この墓の対面には

徳川家康が九死に一生を得た戦いの一つとされる三方ヶ原の戦いで戦死した武将の墓があります。

上記写真にはのっていなかいのですが、松平氏始祖松平親氏の父親である長阿弥の墓が山内にあるようです。元々は得川有親と称しており、時宗の寺院にて出家し長阿弥と称したと言われていますが・・・現在では、長阿弥、徳川親氏の親子について、実在したかどうかも怪しいという風潮なんだとか。

そういえば、以前訪問した「酒井氏発祥の地」にも長阿弥の墓所がありましたね。こちらに設置されていた案内板には新田有親と書かれていましたね。新田義貞の血を引く徳川氏という形になっているので、どちらもあっているということなんでしょうか・・・。

近藤勇の首塚

この法蔵寺をネットで検索すると、非常に多くの記事が書かれている事に気付いていただけるかと思います。徳川家康ゆかりの寺院であり三河新四国霊場の札所になっているのも一つの理由かと思いますが、一番の理由は、こちらの新選組隊長だった近藤勇の首塚がこの法蔵寺にあるという事なのではないでしょうか。

わずか150年前の事なんですが、こちらも正直言って真偽は不明な部分があると思います。実際、昭和三十三年の調査まで全く気付かれることもなかったわけですから。当時の法蔵寺の住職も正直びっくりだったのではないでしょうか。

 慶応四年(1868年)四月に江戸の板橋で斬首された近藤勇の首は塩漬けにされて京都に運ばれて、三条大橋西詰に晒された。しかし三日後には首は隊士の一人に持ち去られて、行方知れずとなっている。
伝承によると、近藤の首は、新京極裏寺町にある宝蔵寺の住職・称空義天の許に届けられたとされる。首を奪還したのは新撰組の斎藤一とされていますが・・・(この頃、斉藤は会津にいたはず。)。しかし称空義天が直前に法蔵寺の住職となっていたため、最終的に法蔵寺に首が届けられたという。
この時期は当然、徳川家は朝敵とされており、さらに近藤勇自身も罪人として処刑されていたため、墓碑にあたるものは土中に埋められ、その存在は秘密とされてきた。ところが昭和33年(1958年)に、裏寺町の宝蔵寺の本山にあたる誓願寺の史料から近藤の首の顛末が明らかになり、法蔵寺で調査の結果、墓碑の台座などが見つかった。台座には新撰組の土方歳三らの名が刻まれており、ここが首塚であるとされたのである。

こういった寺伝が残っています。ただ、台座などはみつかりましたが、埋葬されたという首級は見つかっておらず、まだまだ謎は残っていますね。

ただ、以前放送された大河ドラマの「新選組!」の影響、反響はすごかったようですね。まあ・・近藤勇役が香取慎吾でしたしね・・・。ただ悲しいかな・・・岡崎市は新鮮組とは縁もゆかりもない場所ですからねえ・・・地元では近藤勇の首塚が岡崎にある事を知っている人のが少数派だと思うんですよね。

参拝を終えて

法蔵寺の山門には狛犬の彫刻が掲げられていました。非常に精巧で立派な彫刻をついついぼーっと眺めてしまっていました。薬医門に彫刻を掲げている所も少ないので、是非こういった所も見てほしいなって思います。

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やはり、旅先の情報はネット検索もいいですが、るるぶなどの旅行ガイド雑誌が一番ではないかなと思います。ネット情報はどうしてもディープになりがちで、いざ旅行に行こうと思っても、俯瞰的な情報が不足しがちな気がします。
やっぱり、”るるぶ”を見ながら、旅の予定表を作っていくのも、旅行の醍醐味ですよね。

所在地を地図で確認

寺院名 二村山 法蔵寺
所在地 岡崎市本宿町寺山一番地
最寄駅 名古屋鉄道 名古屋本線「本宿駅」徒歩10分

寺院・霊場巡りの際のバイブルに

元々、当サイトは神社巡りを通じて、皆様の住んでいる所にある”村の鎮守の神様”と呼ばれる神社を紹介してくサイトを目指していたんです。むしろ寺院については、縁遠いものとおもっていたんですよね。しかし、ちょっとした御縁で弘法大師霊場に出会い、そして愛知県では一番活動が盛んな”知多四国霊場”を巡礼、結願する事になりました。でも、神社の事はある程度知識があっても、寺院については未知の世界だったので、少しでも巡礼の時に役に立てばと思い、こちらの本を読ませて頂いております。

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少しでも巡礼の時にお役に立てる事もあるかと思います。是非一度読んでみてくださいませ。

次の目的地は?

三河新四国霊場三十五番札所「二村山法蔵寺」から塔頭である三十六番札所「二村山徳勝寺」に向かいます。

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