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長親山西光寺(岡崎市鴨田町) 千人塚・大衆塚

2020年4月4日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

寺院情報

寺院名長親山常念院西光寺
所在地愛知県岡崎市鴨田町向山三十八番一号
御本尊阿弥陀如来
宗 派浄土宗鎮西派
創 建不詳
札 所岡崎三十六地蔵 二十四番札所
御朱印
H P

参拝日:2019年7月10日

由緒・沿革

 大樹寺に伝わる「大樹寺格式」に書かれている内容では、応仁元年(1467年)に起こった「第一次井田野合戦」において戦死した兵たちの菩提を弔う為、「松平親忠/紹介記事」は現在西光寺が建つ場所に「千人塚」という供養塔を建立します。それから九年後の文明七年(1475年)、千人塚に弔ったはずの戦死者達の亡霊が騒ぎ出し、塚がしきりに鳴動して「ときの声」が絶える事がなくなり、さらに鴨田近辺に悪病が流行することになったという。この亡霊を弔うために「松平親忠」は塚のほとりに念仏堂を建て、碧海郡宇祢部郷「千手山福林寺」の住職「勢譽愚底」を招いて七日間の別時念仏を修し、その功力で亡霊を鎮めた。そして、親忠の嫡子「松平長親」が念佛堂を造営した上で「長親山西光寺」として開山されています。

 しかし、当サイトが追っている「改正三河風土記」や西光寺の境内に岡崎市が設置した現地案内板では、大樹寺格式とは違う由緒となっています。この辺りを少しみていきます。

大樹寺格式改正三河風土記現地案内板
千人塚建立年応仁元年(1467年)明応二年(1493年)応仁元年(1467年)
敵対勢力尾張の品野
三河の伊保
阿部孫次郎
中條出羽守
鈴木日向守
三宅加賀守
那須宗左衛門
阿部孫次郎
中條出羽守
鈴木日向守
三宅加賀守
那須宗左衛門
建立された寺院名千手山西光寺成道山大樹寺千手山西光寺

 ご覧の通り、三者三様の説が唱えられている事がわかって頂けるかと思います。岡崎市史などを読むと、応仁元年(1467年)に発生した井田野合戦は明応二年(1493年)の間違いではないかとする説が主流だが、大樹寺の寺伝を否定する資料も存在しない為、岡崎市史には併記するとありました。

 ちなみに、成道山大樹寺の開創年代は「文明七年(1475年)」であるとされています。仮に、千人塚が建立されたのが明応二年(1493年)の井田野合戦での戦死者供養の為だとしたら、大樹寺が建立開山した後に千人塚が建てられた事になってしまいます。史料などによると、大樹寺は明応二年以前には確実に存在していた様ですので、間違いなく「改正三河風土記」の内容は史実と異なる事が見えてきます。しかし、千人塚は一体いつ、どの戦いにおいて設けられた供養塔なのでしょうか。

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歴史探訪

 松平宗家三代目「松平信光」の三男にして安祥松平家の祖となる「松平親忠」ゆかりの寺院になります。戦没者供養のために「千人塚」を建立し、さらに念佛堂を設け、「勢譽愚底」を招き七日間にわたる法要を納めています。この法要の御恩に報いるために親忠は勢譽愚底を開山として「大樹寺」を創建しています。

「勢譽愚底」とは

 大樹寺の一世であり、その後浄土宗鎮西派の総本山「知恩院」二十三世となり、その後再び大樹寺に戻り隠居した僧侶になります。

 松平氏の歴史、大樹寺の歴史に深く関わってくる重要な寺院ではないでしょうか。岩津城を本拠としていた時代の松平家の中枢が、西光寺、大樹寺が立っている鴨田周辺だったのではなかったのかなと思います。

 さらに西光寺の境内には「大衆塚」と呼ばれる塚があります。この塚は、永禄三年(1560年)に起きた「桶狭間の戦い」の後、「松平元康(徳川家康)」は大高城から大樹寺に逃げ込んみますが、追撃する織田方に大樹寺が包囲されてしまいます。この窮地を救う為、織田方と戦って倒れた500名の僧(=大衆)を葬ったものだと言われています。

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霊場をいく

 岡崎三十六地蔵霊場二十三番札所「成道山大樹寺/紹介記事」の参拝を終え、大樹寺から見ると南側に建つ「長親山西光寺」を目指します。両寺院ともに安祥松平家初代「松平親忠」に縁のある寺院になりますね。

 この記事を書いている時点でスタンプラリーに使うスタンプ台などが設置されているのかは不明ですが、現在でも「おかまいり」の公式サイトが稼働している(H3.4.29現在)ので、まだスタンプラリーは実施されているのかも?。巡ってみたいと思った方は、まだスタンプラリーがやっているかどうかを岡崎市観光協会に問い合わせる事をお勧めします。

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浄土宗は赤地に白抜きのスタンプ!

参拝記

 石段の参道が続く「長親山西光寺」の境内入口になります。車で参拝される場合は、こちら側ではなく、本堂裏手から車で境内に入る事が出来る道路がありますので、ぐるっと回り込んでいくことになります。
 中々趣きのある境内入口で、参道脇には三十三観音堂が設けられています。

手水舎・水盤

 自然石をくり抜いた形の水盤になります。隣の水道には飲用水と札がかかっていますね。

本堂

 宝形造瓦葺の向拝の設けらえた本堂になります。

大衆塚

 周囲と比べて一段高くなっている所が「大衆塚」のようです。この塚の頂上には「阿弥陀如来坐像」が据えられています。現地にある岡崎市の案内看板によると、背中部分に銘文が彫られていて、「永禄三年五月」と確認できることから、桶狭間の合戦後の大樹寺周辺の争いの中で亡くなった方達を埋葬した塚だという事がわかるそうです。

 大衆塚墳丘に向かう石段の脇に鎮座する六地蔵菩薩像が岡崎三十六地蔵の二十四番札所の札所本尊になります。

 なんともいえない優しいお顔の阿弥陀様です。

 大衆塚から大樹寺方面を望んでみます。楼門と本堂の屋根が大樹寺小学校の体育館の屋根越しに確認する事ができます。思ったより大樹寺と西光寺は距離的に近いなと感じます。

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千人塚

 西光寺の境内から50m程離れた場所に、井田野合戦の戦死者の菩提を弔うために建立された「千人塚」があります。(「(旧)岡崎市史」では、「戦人塚」となっていました。)

 松平氏が発展していく過程で、周辺各地の勢力との戦いが繰り広げられ、井田町から鴨田町にかけての地でも、井田野合戦と呼ばれる戦いが数度におよんだ。応仁元年(1467年)、明応二年(1493年)には、加茂郡をはじめとする勢力がこの地に進出、安祥松平家の親忠ら松平一族が井田野に迎え撃ち、これを撃退したと伝えられている。
 親忠はこの合戦の戦死者を敵味方の区別なく埋葬して塚を築いたといわれ、後に千人塚と呼ばれるようになった。
 低い円墳状の地の墳頂に約二メートルほどの石碑が建てられている。碑銘は正面が「南無阿弥陀仏」左側面が「井田埜戦亡精霊金台」、右側面が「元禄九丙子年八月十五日、大樹寺廿八世忍誉碑銘焉」である。その他にも小さな碑あるいは墓が二十基程建てられている。

 最近、造営工事が行われて、千人塚を始めこの周囲に据えられていた墓や碑が「基壇」が設けられてその上に並んで据えられています。円墳状の塚があったと案内板に書かれていますが、この辺りも造成工事で削られた様です。

余談

実は、ここ「長親山西光寺」と全く同じ山号寺号を有する寺院が現在の岡崎市奥殿町に存在します。奥殿町の西光山の宗派は浄土真宗であり、三河一向一揆の際、元々あった場所からこちらに移動したそうです。そして元々あった場所というのが「井ノ口」になります。
現在は、地元の人々の嘆願から、元々西光寺があった場所に、同じ山号寺号の「長親山西光寺」が建立されているので、同じ岡崎市に「長親山西光寺」という寺院が三ヶ寺存在する事になります。浄土真宗:長親山西光寺の由緒


応仁二年(1468年)、本願寺八代 蓮如上人が三河に滞在、布教し、勝鬘寺(針崎町)は、真宗高田派から本願寺派に転派したといいます。その後、信心深い勝鬘寺門徒某に蓮如上人筆と伝えられる「名号」が、勝鬘寺を通して下付され、井ノ口村に一宇を建て、「名号」を掲げ、「勝鬘寺下井ノ口道場」を開き布教に努めたといいます。
それから50年ほどたった文亀三年(1503年)、井ノ口道場の地に、勝鬘寺の法弟「明心師」を開山として、勝鬘寺下「長親山西光寺」が創建されました。

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