室町時代中期に、阿部忠正が築城したというのが「小針城」になります。岩津城主松平信光が矢作川を渡河して安祥城を攻め落とすと、安祥城主となった信光三男「松平親忠」が祖となる安祥松平家に臣従することになっていきます。阿部正勝の代には今川家の人質となっていた徳川家康に仕え、独立後も武功を重ね、江戸幕府開幕後は老中を輩出する譜代大名になっていきます。
城郭情報
城名 | 小針城 |
所在地 | 愛知県岡崎市小針町地内 |
築城年 | 室町時代中期か |
築城主 | 阿部忠正 |
城形式 | 平城 |
遺構 | ー |
規模 | 不明 |
備考 |
訪問日:2020年7月22日
沿革・詳細
今回訪問する「小針城」は、徳川家康の家臣「阿部正勝」の祖先である阿部忠正が築城したという「城」というより「城館」といった側面の強い城と言えると思います。現在でも小針町の字名に城跡・池城・屋下・本丸・馬々西・的場といった地名が残っており(的場は地名改称で消滅したっぽいです。前回紹介した「神明社」周辺が的場でしたが、現在は小針二丁目に変わっています。)、往時に城があった事を想像させてくれます。ただ、こういった地名を小針城所縁の地名であるとすると、500m四方の城郭になってしまう訳ですが・・・・。平成の初め頃まで、神明社の裏手に凡そ200m程の空堀跡が残っていたという情報もあります。
岩津城主だった松平宗家三代「松平信光」は、伊勢氏被官として、西三河において勢力を拡大しており、額田郡一揆の鎮圧の功績により現在の蒲郡の形原や五井まで勢力を伸ばしていました。そして、応仁の乱の動乱に乗じ、矢作川を渡河し一気に安祥城を攻め落とし、矢作川西岸に勢力の拠点を有する事になっていきます。
岩津城と安祥城を直線で結ぶと丁度中間地点となる場所に居館を構えていたのが「阿部忠正」でした。松平信光は阿部忠正に対し従属化するよう交渉を行っていたと考えられます。この要請に従い、忠正は安祥城主となった「松平親忠」に対し、忠正の嫡男である「阿部正重」を出仕させ、阿部一族は松平家(安祥松平家)に従属する事になっていきます。
岩津城、安祥城、小針城の位置関係はこんな感じになります。小針城は岩津城と安祥城の中間に位置し、安祥城の北側の付城としての役割を担っていたのではないでしょうか。小針城から北に進むと当時は戸田氏が居城していた上野上村城があります。当時は松平氏と戸田氏は同じ伊勢氏被官として言わば同盟関係にあったと考えられます。しかし、徐々に渥美半島支配に軸足を置き始めた戸田氏の動向からも小針城の阿部氏の従属化はかなり重要な戦略だったと思われます。
徳川家康の関東移封に伴い、阿部正勝も鳩ヶ谷五千石を得て関東に移っている為、この時に小針城は廃城になったと思われます。
歴史探訪
「寛政重脩諸家譜」によると、阿部家は藤原道兼の後裔矢田権頭宗綱の次男小田筑後守友家の末流であり、のちに姓を阿部に改めるが由来を詳しくせずとしています。
阿部家の系図
忠正━正重━正俊━正信┳正勝━正次┳正澄
┗正廣━某 ┗重次━定高
※忠正、正重については「寛政重脩諸家譜」には記載されていません。
阿部忠正:小針城を築城する。
阿部正重:松平長親に出仕し安祥松平家の家臣となる。
阿部正俊:安祥松平家に仕え、三河国あこたを領す。
阿部正宜:松平清康の山中城攻めに軍功をあげる。
阿部正勝:徳川家康の人質時代の家臣として同行する。
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訪問記
画像だとすこしわかりにくいかな?とも思いますが、田園の先に南北に広がる台地上に小針城があったとされています。現在は住宅地となったりして、台地と沖積層の境が少しわかりにくくなっていますが、現地に行くとその境を感じる事が出来ます。
小針城があった事をしめす意向は現在では全く残っていないのですが、何時ごろ建てられた碑なのか不明ですが、小針城の別名とされる「阿部城の碑」がひっそりと建てられています。
西大友町の大友天神社を参拝した跡、大友皇子の陵墓とされる「小針1号古墳」に向かう途中に偶然この交差点の辻に建っている石碑を見つけて、「何の碑だろう?」と思って止まって、始めてここに城があった事を知った訳です。自宅に帰った後、Google先生で検索してみると、この石碑が「小針城」を示す碑であり、小針の鎮守社である「神明社」が小針城の守護神として祀られていたと知り、偶然とはいえこの石碑に出会えた事が非常に幸運だったなを思っています。
石碑の場所から東を望むと、大友から矢作の街並みが広がっています。小針城自体はもう少し高台にあって、さらに櫓などが組まれていたと思うので、矢作川を越えて岡崎城を望むことができたと思われます。
所在地を地図で確認
城郭名 | 小針城 |
所在地 | 愛知県岡崎市小針町地内 |
最寄駅 | 名鉄バス「40東岡崎ーフタバ産業前」橋目中町徒歩9分 |