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長瀬八幡宮(愛知県岡崎市森越町)

2020年9月3日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

越野神社/紹介記事」の境内横に長瀬八幡宮の両部鳥居の一の鳥居が平成二年まで建っていたといいます。この一の鳥居から700mほど北に進むと長瀬八幡宮の境内があります。平安時代の前九年の役で鎮守府将軍として官軍を率いた「源頼義」が創建したという神社であり、その後徳川家康も崇敬したという神社になります。

神社紹介

神社名長瀬八幡宮
鎮座地愛知県岡崎市森越町森下四十五番地
御祭神応神天皇、息長足姫命
旧社格郷社
創 建康平六年(1063年)
神名帳
境内社源太夫社、御鍬社、秋葉社、稲荷社、熱田社、山王社、伊勢社
例祭日十月第四日曜日
御朱印
H P

参拝日:2020年7月22日

愛知県に存在するヤマトタケルの伝承地を尋ねて、古事記、日本書記に記されていない尾張国、三河国の東征の進軍ルートを考察していく「ヤマトタケル東征伝承地を尋ねるin愛知県」という企画を始めました。是非、一度覗いてみて下さい。

御由緒

 河内源氏二代「源頼義」は「前九年の役(永承六年(1051年)~ 康平五年(1062年)」と呼ばれる戦いで陸奥守と鎮守府将軍を兼任し、陸奥国で朝廷に対し反旗を翻し半ば独立国の様な行動を取るようになった「安部頼時(頼良)」を討伐する為に京から軍勢を率いて陸奥国の多賀城に向かっていました。

 矢作川は連日の雨により水位が上がり、当時は現代の様に堤防もなかったでしょうから、越水という表現が正しいのか解りませんが、周囲は洪水が発生したような状況だったのだろうと思います。そんな状況の時に、源頼義率いる一行が三河国の矢作川流域にたどり着いたといいます。この時、頼義は斎戒沐浴を行い、八幡大菩薩に祈願すると神の神霊が現れ、その姿を鹿群に変えて、荒れ狂う矢作川に入水し、その御力にて矢作川の流れを塞き止め、この間に頼義と軍勢は矢作川と渡河する事に成功したと伝えられており、この地を「鹿の渡」と呼ぶそうです。
 康平五年(1062年)、源頼義は阿部頼時を衣川にて打ち破り、長きに渡って繰り広げられた戦いに終止符を打ち、奥州を平定し、京に向けて帰路についています。翌康平六年(1063年)、帰路の途中、矢作川に差し掛かった時に八幡大菩薩の御加護があった事に思いをはせ、この地に八幡大菩薩を奉る八幡宮を建立しています。この時が長瀬八幡宮の創建になります。

 時は過ぎ、永禄三年(1560年)、桶狭間の戦いにおいて今川義元が討ち死にし、この時大高城にいた「松平元康(徳川家康)」は叔父の水野信元が大高城の包囲網を解いた事を利用して大高城を脱出し、松平一族の菩提寺である「大樹寺/紹介記事」を目指しています。大樹寺まで後わずかという矢作川までたどり着くと、矢作川は風雨強く水流がきつくとても人馬が渡れる状況ではなかったのですが、長瀬八幡宮の森から鹿が現れ、川を渡り対岸の大門郷に上がり、そして同じ道を辿って戻ってくるとそのまま森の中に消えていきます。石川数正は「この鹿は吉相の鹿に違いない。」といい、鹿の通った場所を通って矢作川を渡河し、その後元康も渡河に成功し無事大樹寺にたどり着くことができたと伝えられています。

 実は、松平元康が今川義元が討ち取られた跡、大高城からどのようにして脱出し、どういった経路で岡崎の大樹寺に入ったのか解っていません。
 「三河物語」によると、叔父の水野信元が今川義元討ち死の報を元康に伝え、さらに水野信元が送った道先案内人に従って大高城を脱出した後大樹寺に向かったという事が書いてあります。
 さらには、当サイトでも以前紹介していますが、元康は大高城を脱出した後、母:於大が嫁いだ「久松俊勝」が城主である坂部城(阿久比城)を尋ね、そこから成岩の「天龍山常楽寺/紹介記事」に向かい、成岩から船を使って三河湾から矢作川を遡上して大樹寺に向かったという説が天龍山常楽寺の由緒の中に書かれていまっす。
 まだ、当サイトでは紹介していないのですが、豊田市配津町の矢作川右岸の堤防に「徳川家康渡船之所」碑が据えられています。大高城を脱出した元康は池鯉鮒を経由してこの配津までたどり着いたとされ、ここで半三郎という船人によって、松平元康と配下八名を舟に乗せて対岸の仁木へ運んだという事が彫られています。この時、半三郎に銀銭3文と長刀1振が与えられたとしています。因みに、この「徳川家康渡船之所」碑が建っている場所は元々は「村社配津八幡宮」が鎮座していました。

 徳川家康が関東移封によって岡崎の地を離れ、岡崎城に入城してきたのが、豊臣秀吉の家臣「田中吉政」になります。田中吉政は岡崎城を大規模造営して現在の姿へと変えた城主です。「東海道岡崎宿二十七曲」なんかも徳川家によるものではなく、田中吉政によって作られたものだったりします。そんな岡崎城主田中吉政により、石垣などを接収され岡崎城の造営工事に使われてしまった為、徳川家の庇護があった頃と比べるとかなり神社の運営も厳しいものがあったとされています。まぁ、当然徳川家の遺構などは極力排除していく事が旧徳川家の領地に配属された豊臣恩顧の武将の一番大きな仕事なわけですから、徳川家が関東に移って関ケ原の合戦で天下を取るまでの凡そ十年の間にかなりの遺構が打ち壊され、徳川家の色が薄められたのではなかったのではないでしょうか。

 関ヶ原の合戦に東軍大将として東海道を西進する途中、家康は長瀬八幡宮に参篭したと言われています。そして江戸幕府が開幕すると、六十石の社領の寄進を受け、明治維新まで幕府の庇護を受けていました。

 明治六年になると、現在の神門となっている四脚門を大樹寺から移築したそうです。廃仏毀釈の中、大樹寺も明治維新以降その境内をすべて維持する事が困難になり、かなり寺領を削られていますから、その中で山門譲渡の話が出てきたのでしょうね。

 社伝に康平六年(1063年)七月、伊予守源頼義が衣川にて安部貞任を討ち平らげてのち武門の神として勧請したという。その後、源親忠社殿を造営あり。永禄三年(1560年)、徳川家康、今川義元に属して大高城にあったが義元桶狭間にて討死し、城を棄て岡崎へ下向の時風雨強く矢作川満水し人馬通行不能となる。偶々八幡の森より鹿が出て川を渡り大門郷に上がりまた戻り来て森に消える。石川數正これ吉相の鹿なり。先に進む次で十八騎が家康を守り渡ることを得て大樹寺に入る。その後慶長五年(1600年)関ケ原の戦に西進の途中、矢作川を過ぎ家康下馬し、夜中を徒歩にて八幡宮に詣で武運を祈る。その後報賽のため社殿を修復し、慶長八年(1603年)五月、社領六十石を寄進、明治維新にまで続いた。明治五年九月十七日、郷社に列格した。同六年大樹寺の山門を当社に移築した。

愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」より

歴史探訪

 長瀬八幡宮の長瀬とは、昔八幡宮を中心に長瀬村が存在していた名残になります。この長瀬の由来は、当サイトで取り上げている「大友皇子伝説」の中で、大友皇子の従者としてこの地にやってきた「長谷部信次」が大友皇子が亡くなると「小針1号古墳/紹介記事」に埋葬し、大友天神社を創建したと紹介しています。そして長谷部信次が居住した村を「長谷村」と称すようになり、それがいつしか「長瀬村」と誤訳され伝わったと言われています。大友皇子伝説は古くからこの地に伝えられる伝説であることがこんな所からもわかりますね。

参拝記

 「越野神社/紹介記事」の境内地のすぐ脇から長瀬八幡宮に通じる参道を北に進んでいくと、現在では市道として使われている道路に長瀬八幡宮の一の鳥居が見えてきます。この鳥居を潜り、さらに200mほど進んでいくと、四脚門の神門が据えられている長瀬八幡宮の境内入口が見えてきます。
 ちなみに、鳥居を超えて神門に突き当たる間に、元々別当寺であった浄土宗「長寿寺」が参道左手に鎮座しています。ちなみに、以前は大樹寺の末寺だったそうです。

一の鳥居跡

 越野神社脇に平成二年まで建っていたという石造りの両部鳥居の跡が現在もまるで越野神社の境内の一角の様に残っています。現地では、どんな一の鳥居だったのかを示す石碑とその裏側には長瀬八幡宮の由緒板が据えられています。

社号標

一の鳥居跡に据えられている旧社格である「郷社」が合わせて彫られている社号標になります。建立年月は確認し忘れてしまったのですが、側面に「御大典記念」と彫られえている事から、たぶん昭和天皇の即位を記念して昭和三年に建立されたと思うのですが。

二の鳥居

 一の鳥居から北に550mほど進むと、ようやく石造りの扁額のある明神鳥居の二の鳥居に到着します。この鳥居から境内まで更に150mほど進む必要があり、合計700mの参道が昔から作られていたという事から徳川家の崇敬の度合いが分かる感じがします。
 この二の鳥居の建立時期は皇紀二千六百年記念という事ですの、昭和十五年建立になります。

 ちなみに、この記事を書いている令和二年は西暦2020年、皇紀2680年になります。現在では全く見聞きする事もほぼなくなってしまった「皇紀」ですが、実は明治時代に太陰暦から太陽暦に暦変更の際に作られた「神武天皇即位紀元」の事になります。神武天皇が即位したのは紀元前660年2月11日であると制定された物で、昭和二十年の終戦以降はまず使われなくなっていますが、「神武天皇即位紀元」に関する法令が廃止された訳ではない様ですので、実は現在でも有効な暦なんです。

 二の鳥居を潜りさらに進むと、神社の境内入口でよく見かける掲示板が出てきたり、徐々に神社の雰囲気がでてきます。丁度この写真を撮影している場所から左を向くと、元々別当寺であった「長寿寺」が今も存在しています。長瀬八幡宮の参道を一にしているあたりも別当寺であったことを感じさせる点ですね。

神門

 こちらの四脚門の神門が明治六年に大樹寺より移設された門になるようです。大樹寺のどのあたりに使われていた門なんでしょうかね。

 長瀬八幡宮の境内の配置は非常に特徴的で、まさに境内地への入口に大樹寺から移設された神門が設けられ、その神門の左右に透塀が伸び、神門の向かって左手にはこれまた四脚門の通用門が設けられています。こうした造りを見てると、戦前は境内全体を塀で囲み、開門時間以外は参拝者は境内に入れないようにしていたのかなと想像します。

手水舎

 木造瓦葺四本柱タイプの手水舎になります。全体的に最近造営工事が行われたようで、水盤以外はかなり新しく感じます。

祓戸

 基壇の上に石造りの瑞垣が設けられた祓戸になります。垣内に植えられた榊が選定されていてきちんと管理されているのがわかりますね。

矢竹

 景行天皇の皇子である「日本武尊」が東征の際、この矢作川を挟んで駿河より攻め入る夷賊と向かい合う事に。この時日本武尊の命により、矢作川西岸に生えている竹を使用して矢を大量に作り、この矢を放つ事で夷賊を打ち破る事が出来たという伝説があります。この矢を作った場所という事が矢作(やはぎ)という地名の由来となったとも言われています。

 このや矢作の伝説地は、長瀬八幡宮からは南に鎮座する「矢作神社」の由緒などにも登場する伝説であり、矢作の地名発祥の地と言えば「矢作神社」だったりします。しかし、矢作神社周辺の狭い範囲ではなく、大量に矢を作ったとなると、矢作から長瀬にかけて広範囲に自生している竹を使用したと考える事が出来る訳で、そうなると長瀬八幡宮も日本武尊の伝説の場所に鎮座する神社であるといえるのかなと思います。

狛犬

 昭和十三年生まれの狛犬一対になります。中々筋骨隆々な狛犬ですね。

社殿

 入母屋造瓦葺平入に向拝と高覧のある濡れ縁が設けられた拝殿のある社殿になります。本殿を囲む瑞垣の垣内に境内社が三社鎮座しています。境内社の正面には瑞垣の一部を神門になっていて神門越しに参拝できる様式となっています。

境内社

 境内社七社が鎮座していますが、その中であまり馴染みのない社名の境内社は「源太夫社」になりますかね。社の前に掲げられている説明板では、上知我麻神社(熱田神社の摂社)を勧請したもので、そこに松平広忠が父松平清康を祭神として祀った神社になるようです

地図で鎮座地を確認

境内社長瀬八幡宮
鎮座地愛知県岡崎市森越町森下四十五番地
最寄駅名鉄バス「31東岡崎ー北野北口」北野口バス停徒歩7分

ご自宅にお札は祀られていますか?

実家には神棚はあっても、今お住いの所には神棚がない方も多いかと思います。神棚には、日本の氏神である"天照大御神"とご自身がお住いの氏神様のお札を掲げると御神徳が宿るとされています。
賃貸住宅などに住まわれて簡単に神棚を掲げられないという方もお勧めなのが、

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南向き、もしくは東向きになる様に、そして目線の高さより上になる様に、棚などの上において頂くとよいかと思います。是非、皆様もご自宅に神棚をご用意いただき、御札を納めてほしいなと思います。

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