寺院情報
寺院名 | 青泰山 浄土寺 |
所在地 | 知多郡南知多町豊浜小佐郷一番地 |
御本尊 | 薬師如来 |
宗 派 | 曹洞宗 |
創 建 | 明治二十三年 |
札 所 | 知多四国霊場 番外札所 南知多観音霊場 十六番札所 知多百観音霊場 四十八番札所 |
御朱印 | 〇 |
H P | - |
参拝日:2018年9月26日
知多新四国霊場公式ホームページのご紹介
http://chita88.jp/
沿革・由緒
昔は東方寺といい、行基菩薩の開創と伝えられている。
豊浜地区に鎌倉時代から伝わっている盆踊り歌の一説がある。
「わしの若い時や小佐まで通うた 小佐の薬師堂で夜があけた。」
この歌にあるように「小佐薬師」と名高い立派な木製の薬師如来坐像だった。だが戸数三十ほどの小佐地区は漁港としてにぎあう隣の須佐(現在の豊浜)に頭があがらなかった。いつの頃からか須佐の人達は「小さな小佐にあんな立派なお薬師さんはもったいない。」と言い出し、明治六年、強引にこの御像を須佐の寺に移し、東方寺は廃寺されたのだ。
明日、須佐の人々が観音様と取りに来るという夜、総代は薬師像の胎内仏だけをそっと境内の大欅の中に隠した。明治十一年、このことを総代から聞いた小佐の人々は御像を各家に隠したり、田圃に埋めたりして必死に隠す努力をしたという。明治二十年、伊勢の寺を古材を小佐の男達は天馬船に乗り、伊勢海を何度も往復して持ち帰り本堂を建立して胎内仏を奉安したという。
「小佐の男の心意気を忘れるな。お薬師さんを立派に守ってくれ」
そんな遺言を息子たちに言い残して小佐の海の男達は永眠るといいます。
「知多四国めぐり」より
行基開創と伝えられる小佐山東方寺が、この歌詞に登場する薬師堂のあったお寺です。しかし、明治維新の廃仏毀釈により、 明治六年に一時廃寺となりました。 村人は薬師堂がなくなったことを嘆き、境内の大欅の空洞から見つけられた薬師如来を本尊として、 明治二十三年に小佐の薬師堂の旧蹟に寺が建立されたのです。以来、青泰山浄土寺と称しました。
「南知多三十三観音霊場会 札所寺院紹介」より
知多四国霊場を行く
国道247号線を師崎から北上していくと、右手に神明社が見えてきます。
この神明社の境内に沿うように右折して路地に入りそのまま進んでいくと、知多四国霊場番外札所「青泰山 浄土寺」に突き当たります。
駐車場は境内の中に車を留める形になるのですが、狭いので注意が必要です。
管理人が行く知多四国霊場巡礼の旅
観光バスで知多四国霊場の巡礼をお考えの方は、クラブツーリズムの知多四国巡礼ツアーがお勧め!
≪国内旅行≫リピーター続出!クラブツーリズムの大好評ツアーはこちら
参拝記
師崎の羽豆岬交差点過ぎて国道247号線の伊勢湾側を北上していくと、最初に出てくる集落が小佐地区になります。この集落の中のにあるのが「浄土寺」になります。
境内入口
本堂を建て替えた際、丁度白い車が止まっている辺りにあった山門であった長屋門を取り壊されてしまったようです。
左に見える石柱には「新四国手引大師龍亀大菩薩」と彫られ、ちょっと奥の右手に見える石柱には「新四国龍亀霊場」と彫られています。ここの札所は、なにやら亀に関係する由緒がありそうです。
手水舎・水盤
瓦葺石柱と木造のハイブリッドな二本柱タイプの手水舎になります。
石と木の組み合わせも多そうなんですが、お初なタイプの手水舎ですね。
本堂
寄棟造瓦葺平入の本堂になります。
ここ浄土寺の本堂の造りも独特で、向拝が設けられている本堂の様に見えますが、実は、本堂正面の外壁が柱一間分中に入り込んでいて、入り込んだ一間分と軒下によって向拝の様になっています。(文字では説明しにくいですね。)
この写真ならわかってもらえるかな・・・。
屋根の庇に対してかなり外壁が内に入っているんです。これによって全体的に向拝が設けられた様な形になっています。
本堂の中央には本尊である薬師如来が安置されていて、本尊の左側に弘法大師像が安置されています。こちらの大師像はほかの札所に安置されている大師像と異なり立像になっていますね。
「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」・・・
龍亀大菩薩堂
本堂の前に、龍亀菩薩が安置されている御堂があります。
この龍亀菩薩の由緒は・・・
明治四十二年九月十日、小佐の海岸に身長六尺、重量五十三貫の大亀が泳ぎつきました。 背には「奉大海龍大神」と大書され、「伊賀国上野村谷村佐助」と姓名が記されていました。
住職の亀岳鶴翁和尚は、驚愕しました。それは、もう三晩も霊夢があり、「余は永く海中に住む大亀であるが、 もはや天寿尽きなんとす。われを請うてまつらば誓って諸願成就せしめん」と告げられていたのでした。 和尚は「今より汝をまつって境内に奉安せん」と告げると、霊亀はさも嬉しげに永眠したのです。
和尚はこのことを谷村佐助氏に知らせたところ、病に苦しんでいた氏にも霊夢に大亀が現れたので、 和尚に告げられたように二見ヶ浦で漁師の網にかかった大亀を見つけ上野まで運んで懇ろに供養したところ病気が平癒したので、 その大亀に大書して再び二見の海へ放ったことがわかりました。
伊勢湾を挟んで知多半島と三重県での壮大な伝説ですね。
御堂の横には、実物大とされる亀の石像が据えられています。
この亀の石造の甲羅部分には「奉大海龍大神」と彫られています。
この龍亀の石造の後ろに何やら洞窟の様なものが見えますね。
なにやら祠が据えられています。
どういったいわれのある祠なんですかね。
亀像が据えられていた場所を引いた場所から望んでみると、亀像以外にも色々な石造仏が安置されていました。
御朱印
参拝を終えて
明治維新以降、廃仏毀釈のうねりの中、そのうねりに巻き込まれ一旦は棄却されてしまったそうなのですが、小佐地区の皆さんの熱意によって復興した寺院になります。知多四国巡りでは豊浜の人達が薬師様を奪っていた様な記述になっていましたね。たぶん、廃仏毀釈の中で廃寺となってしまった為、本尊だった薬師様を豊浜の寺院に移したという事なでしょうけど、地元の人にとっては奪われた!と思ってしまう出来事だったんでしょうね。
次の目的地は
知多四国霊場番外札所「青泰山 浄土寺 」を後にして、次は、四十番札所「普門山 影向寺」を目指します。
この浄土寺の参拝が終わった時点ですでに時刻は午後2時近く、タイムリミット間近になってまいりました。ただ、次の影向寺を参拝しておかないと、次の巡礼の時道順が組みにくくなってしまうので、ちょっと急ぎ足になってしまうのですが、納経していく事にしました。