大河内氏とは
摂津源氏と呼ばれる清和源氏の血流を引くとされ、江戸時代には大河内氏の分家が長沢松平家に養子入りし「大河内松平氏」とも称され、三代将軍徳川家光の時代には知恵伊豆の名で知られている老中「松平信綱」を輩出するなど幕政の中心を務めた一族であり、明治維新に際して大河内松平氏は大河内姓に復して家族に列した一族になります。
清和源氏とは?
清和源氏"源頼政"は源頼光を始祖とする摂津源氏と呼ばれる血筋になります。
ここで、清和源氏という名は一度は聞いたことがあると思いますが、実は清和源氏の中で大きく三派の血筋に分類することができます。
- 源頼光を始祖とする摂津源氏(清和源氏の嫡流というべき血筋)
- 源寄親を始祖とする大和源氏
- 源頼信を始祖とする河内源氏
上記三派の始祖は全員清和源氏二代目"源満仲"の息子になります。さらに源満仲にも兄弟がおり、それぞれ血筋が続いています。
源経基
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源満仲 源滿政 源萬快
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源頼光 源頼親 源頼信
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源頼国
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源頼綱
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源仲政
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源頼政 源頼行 ※源兼綱は
┠────┐ 源頼行の子で頼政の養子
源仲綱 源兼綱
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源兼隆 源顕綱
大河内氏は源頼政の孫「源顕綱」の後裔であると称した一族
源頼政とは?
大河内氏の先祖とされている源頼政は源頼光の玄孫にあたり、摂津源氏の出身になります。源頼政(1104-80年)の時代は丁度、平清盛が台頭し始め、保元の乱、平治の乱を経て、平家の絶頂期を迎えている時に当たります。すべての源氏が平家と対立していた訳ではなく、頼政は保元の乱、平治の乱共に平清盛に付き、源氏方長老として政権中枢にいたそうです。
その後、1180年、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで打倒平家を掲げて挙兵を計画します。しかし、準備段階で計画が平家方に漏洩してしまい、ほぼ準備ができないまま挙兵を余儀なくされます。しかし、多勢に無勢の戦いの中、以仁王を逃すべく平等院に籠って奮戦しますが、最後は辞世の句を詠み自害します。
辞世の句
埋木の花咲く事もなかりしに身のなる果はあはれなりける
— 『平家物語』 巻第四 「宮御最後」—
以仁王の乱において、源頼政の子"源兼綱"は父親を守るべく討ち死にしたとされています。そして兼綱の子"顕綱"は一説には京から額田郡大河内郷に落ち延び、大河内の改称したと言われています。ただ、この辺りは、記録があまりにも乏しく、家伝、伝承の域を抜けられず清和源氏と大河内家を結ぶための仮冒なのではないかという説もあります。
源氏の血族なのかはさておいて、大河内顕綱が額田郡で力をつけていたであろう承久三年(1221年)、朝廷側が鎌倉幕府を討伐すべく挙兵した承久の乱が勃発します。結果は幕府側の圧勝だった訳ですが、その後の論功行賞で三河国守護職を得たのが足利宗家三代である"足利義氏"になります。
当ブログでも所々神社紹介のページで出てくるほど三河地方に所縁のある足利家なんですが、三河と足利家の関係はこの時から始まります。
足利義氏が守護代として三河の地にやってくると、大河内顕綱など三河国の有力な豪族を家臣に組み入れ足利家躍進の土台を作っていきます。その中で、義氏は領地経営の一環として自分の息子(足利長氏)を三河国幡豆郡吉良荘の西条城に地頭職として送り込んでいます。その後、吉良荘を本貫地として吉良と改称し"吉良長氏"になり、ここから吉良家が始まっていきます。また、義氏四男"義継"も長氏と同じく吉良荘の東条城に送り込んでおり、こちらも吉良義継と改称しています。義継はその後武蔵国に移り、奥州吉良氏として続いていきます。
その後、大河内氏は足利宗家から吉良氏の家老として仕えるようになり、領地を幡豆郡寺津村に移しています。さらにその後、吉良家は南北朝時代に西条吉良家と東条吉良家と分裂して言わばお家騒動を200年近く続けることになります。大河内氏は西条吉良家の家老として領地を留守がちな当主に代わり領地運営を行っていたんだろうと思われます。
大河内氏と今川氏
吉良氏は南北朝時代から吉良荘以外に、引馬荘(現在の浜松市)にも領地を持っており、その代官として大河内氏が派遣されていたそうです。遠江国を掌握すべく駿河国から今川氏が勢力を伸ばし、時の守護代斯波氏と結んだ大河内氏は抵抗します。そんな中、吉良家は一連の斯波氏と今川氏の戦いを見ていて、親今川に変化していきますが、大河内貞綱は徹底的に反今川として敗れても敗れても挙兵し、1517年の3度目の挙兵でも今川氏に敗れてしまいます。大河内貞綱は引馬城に籠城し、兵糧攻めにも屈しなかったが、今川氏の穴掘り衆によって城中の井戸の水源を抜かれたため力尽き、自害。吉良氏は遠江国の所領を失うことになります。
寺津城改築
大河内氏10代目"大河内信政"が寺津城を築いたとされていますが、元々寺津辺りを納めていたと考えられ、時代の流れの中で屋敷だった場所を城塞化したんだろうと思います。
寺津城は、現在の西尾市寺津町にある瑞松寺周辺にあったとされています。
まさに寺津村の中心地に寺津城はありました。なぜ寺津と呼ぶようになったのか、それはこの地域の特徴を表しているそうなんです。この辺りには、非常に寺院の数が多く、また海にも近い場所という事から寺津と呼ばれるようになったんだとか。現在でも、寺院の数が多く、昔から栄えていた地域なんだなと解ります。
寺津城址(現:瑞松寺)
吉良氏家臣「大河内氏」居城
松平清康と守山崩れ
吉良氏が吉良氏は遠江国の所領を失った数年後、安祥城から一人の傑物が家督を継いで歴史の舞台に登場してきます。その名を"松平清康"と言います。
松平清康の三河統一
大永三年(1523年) | 安祥松平家家督を継ぐ。 |
大永五年(1525年) | 足助城の鈴木重政を攻め降伏させる。 |
大永六年(1526年) | 岡崎松平家を攻め西郷信貞を降伏させる。 |
享禄二年(1529年) | 幡豆の小島城を攻め落とす。 牧野氏の居城今橋城(現吉田城)を攻め落とす。 戸田氏、菅沼氏、奥平氏、牧野氏ら国人衆を従属させる。 熊谷氏の宇利城を攻め落とす。 |
この居録二年(1529年)に行われた現在の西尾市にある小島城攻めは、東条吉良氏から分家した荒川城主"荒川義広"の支城であり荒川氏の家臣"高部屋氏"を屈服させる事で、東条吉良氏を追随させる目的で行われたと思われます。
岡崎領主古記には、
「享禄二年同国吉良ヲ征スヘキ為二出陣有 小島城主高部屋ヲ攻て取之此眨米津左馬久勝政小嶋ノ先陣也 是ヨリシテ吉良衆御手二属シ荒川殿モ出仕ナリ」
とあります。その後、東条吉良家には松平清康の妹が嫁ぎ、吉良氏と松平氏は非常に近しい関係になっていきます。
その頃の、西条吉良氏は、1516年、5代目当主"吉良義信"が亡くなり"吉良義堯"が家督を継ぎますが、1517年に引馬荘の領地をなくし、1522年には足利義稙が失脚し、京都での地盤も無くしてしまった為、歴史の表舞台から消えてしまっています。(西条吉良氏は足利義稙派でした。)さらに、年月は不明なのですが、清康が三河統一を行った頃、吉良義郷に家督が移動しています。かなり弱体化が著しい吉良氏ですので、清康には表立って敵対せず、表面上は恭順の姿勢をみせていたのではないでしょうか。
森山崩れ
家督を継いで僅か6年で三河国を統一。この時清康十八歳。更に、清康の進軍は止まらず、いよいよ尾張国へと進出を開始します。
享禄三年(1530年) | 尾張国岩崎城、品野城を攻め落とす。 |
天文四年(1535年) | 守山城攻めの陣中において家臣阿部正豊に斬殺される。 (森山崩れ) |
もう少し詳しく森山崩れを紹介
十二月三日 | 守山城に向けて岡崎城を出陣 今川氏の支援を取り付け、総勢一万を超える大軍だったとも。 |
十二月四日 | 守山城近くに着陣 |
十二月五日 | 未明陣中にて馬が暴れだす騒動が起こる。 逆心の噂があった阿部大蔵定吉の子「正豊」は父定吉が弁明の機会もなく成敗されたと勘違いし、主君である清康を一刀両断に殺害した。 阿部定吉は植村(上村)新六郎氏明に切られ絶命。 一説には定吉の遺骸は肥溜めに放り込まれたという。 |
松平家の首領が家臣に斬殺されるという事態に松平軍は総崩れとなり、雪崩を打ったように三河国に撤退したといいます。統制がとれていない撤退戦は莫大な損害を与えられるのは世の常で、織田信秀軍による追討によって、岡崎を越して吉田まで逃げたとも言われています。
守山城紹介記事
松平清康斬殺の地
松平清康の遺体は?
森山崩れで突然家臣の阿部定吉に切り殺された松平清康の遺骸は撤退する松平軍によって岡崎城の北東にある「丸山」の地において荼毘に付されたとする。この荼毘地に墓塔が建立され「善徳院墓塔」と呼ばれたという。永禄五年(1562年)、桶狭間の戦い後今川家より独立を果たした徳川家康によって荼毘地に清康と清康の妹「久子」の菩提を弔う「佛現山善徳院隨念寺」が建立されています。
佛現山善徳院隨念寺
徳川家康が祖父清康の荼毘地に清康と清康の妹久子の菩提を弔う為に建立した寺院
西尾市長縄に伝わる伝承
寛政七年(1795年)、現在の西尾市長縄に建つ「観音寺」の境内近くの田畑において「清康公」と刻まれた五輪塔が発掘されたといいます。当時長縄の地を治めていたのは、大河内氏の血を継ぐ松平伊豆守家になります。この松平伊豆守家は江戸幕府の老中を歴代輩出している家柄であり、江戸幕府を開幕し東照宮として神格化された徳川家康の祖父でありその武功から崇敬していたと伝えられる松平清康の名が刻まれた五輪塔が発見され、当時の人々は非常に驚いたはずで、直ぐに発掘された報が松平伊豆守家の陣屋→江戸屋敷→江戸城と伝えられたそうです。
現在では観音寺の近くの五輪塔が発掘された場所に「松平清康公仮葬地」と彫られた石碑が建立されています。
大河内家には、「大河内喜平小見という者が、森山崩れの際、松平清康公の遺体をこの長縄の地まで運び、荼毘に付し埋葬した。」という口伝が伝えられています。この口伝に付随するのか、この地に埋葬された清康の遺骨はその後掘りだされて大樹寺に運ばれたとも伝えれこの事から「仮葬地」と埋葬ではなく仮葬としたのでしょう。
大河内氏には長縄大河内氏と呼ばれる支族があり、長縄城を築き居城としていました。その長縄城の目の前に鎮座しているのが観音寺になります。大河内喜平小見はこの長縄大河内氏の者だと考えられています。
松平清康公仮葬地碑
森山崩れで斬殺された松平清康の遺骸を荼毘に付し埋葬したと伝えらえる地
松平清康が活動していたこの頃の大河内氏についての資料が乏しく、はっきりとしたことはわかっていない様です。元々大河内氏は西条吉良氏の宿老として吉良氏に仕えていた訳ですが、分家とは言え大河内喜平小見が松平清康の尾張攻めに参加している所を見ると、西条吉良氏は清康に恭順していたのかもしれませんね。
徳川家康と大河内氏
大河内氏が仕えた吉良氏は、西条吉良氏と東条吉良氏に分裂して一族内部抗争が長年行われていました。応仁の乱でも東西に分かれたり、戦国時代になると織田氏に通じた西条吉良氏と今川氏に通じた東条吉良氏といった感じでまさに三河国を巡る織田・今川の勢力争いの縮図といった感じになっていました。安祥城を今川・松平連合軍が織田氏より奪還する頃になると長年対立していた東条吉良氏・西条吉良氏は今川氏の影響力の元統一されていきます。東西合併した吉良氏においても大河内氏は家老として仕えていたようです。
家康の三河統一戦線
永禄三年(1560年)に三河国を支配していた今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られると、今川氏による三河支配は急速に弱体化していきます。その筆頭が岡崎城を居城とし今川氏より独立を果たした松平元康(徳川家康)になります。家康は岡崎城を中心に今川氏の残存勢力を随時討破っていき、永禄四年(1561年)四月までに今川氏家臣である牧野氏が城代を務めていた西条城を攻め落としていきます。この時、吉良氏の当主は吉良義昭だったのですが、今川氏に付き、徳川家康の三河統一に対抗することになります。
永禄四年(1561年)四月の善明堤の戦い、九月の藤波畷の戦いを経て、吉良義昭は降伏し、鎌倉時代から居城としてきた東条城を明け渡します。
この九月の藤波畷の戦いについて『参河志』には「大河内小見討死墓也永禄四年」とあり、大河内氏も戦いに参加していたことがわかります。この大河内小見とは、上記で出てきた松平清康公の遺体を長縄に運んだ大河内小見と同一人物なのでしょうか?ただ、大河内氏の家系図には大河内小見なる者について記述がなく、実在した人物なのかわかりません。
東条城址
東条吉良氏の居城である「東条城」の紹介です。
吉良義昭は東条城退去後、岡山(現在の西尾市吉良町岡山)に住んでいたとも、岡崎城下に移住させられたとも伝えられています。そして、永禄六年(1963年)、三河一向一揆が勃発すると吉良義昭は一向一揆側に付き、東条城に再び入城し家康に対抗します。この際、大河内氏首領の大河内秀綱も吉良義昭に付いて東条城に入城しています。ただ、大河内秀綱は吉良義昭に対し、一揆側に付くことを戒め止めているのですが聞き入れられず、「今に至て立ち去るは勇士の恥じるところなり」と東条城に入ったと伝えられています。
結局、吉良義昭は再び東条城を攻め落とされる事になります。義昭は三河国から近江国に逃れ、最後は摂津国芥川で死去したと言われており、足利家一党であり幕政の中枢を担っていた名門吉良家はいったん滅亡する事になります。
大河内秀綱は東条城落城後は幡豆郡小島城の伊奈氏を頼って伊奈氏に仕え、遠江国稗原に領地を拝領。その後の家康の関東移封の際にも伊奈氏配下として武蔵国に領地を拝領し代官として陣屋を構えています。
大河内秀剛墓所
大河内氏が居城としていた寺津城の城内に大河内氏の菩提寺となる「臨済山金剛院」が建立され現在でも西尾市寺津町に建っています。この金剛院の境内に、現在西尾市の指定文化財になっている宝篋印塔があります。
この宝篋印塔は最後の寺津城主であった大河内秀綱の物であると伝えられ、基壇部分に法名と没年月日が刻まれています。
臨済山金剛院
寺津城主大河内氏の菩提寺
大河内松平家
先にも述べていますが大河内氏は摂津源氏の血を引く一族であるとしています(この家系図は現代では仮冒ではないかと言われています。)。この事もあり家康から大河内秀綱の次男"正綱"を長沢松平家に養子出す様に命じられます。この松平正綱を初代として大河内松平家が起こります。
そして、大河内秀綱の孫になりますが"信綱"が生まれます。この信綱こそ後の知恵伊豆とも呼ばれる松平信綱にです。信綱は、松平正綱の養子として松平家に入ります。そして、家光の側近として活躍し、島原の乱では幕府側総大将として、一揆側と対峙し鎮圧しています。
松平信綱の子孫はほぼ大体"伊豆守"の官位を受領し、松平伊豆守系大河内松平家として存続していきます。
大河内氏は江戸時代を通じで大名3家、旗本7家が存続しており、嫡子が生まれず断絶する家系もあるなか、大河内一族と考えると、非常に大きく発展したのではないでしょうか。