2019年2月、サイト名を「神社のある生活って」から「あいちを巡る生活って」に変更致しました。

寺津城を築いた大河内氏とは

スポンサーリンク

寺津八幡社内大河内氏業跡地の碑(訪問2010.10.3)

大河内氏とは

譜代の大名として江戸時代に大河内松平氏を名乗って三家あり、智恵伊豆で名高い老中松平信綱を出し、明治期には大河内に復して華族に列したが、家伝では清和源氏源三位頼政の後裔と称しています。

清和源氏”源頼政”は源頼光を始祖とする摂津源氏と呼ばれる血筋になります。
ここで、清和源氏という名は一度は聞いたことがあると思いますが、実は清和源氏の中で大きく三派の血筋に分類することができます。

1.源頼光を始祖とする摂津源氏(清和源氏の嫡流というべき血筋)
2.源寄親を始祖とする大和源氏
3.源頼信を始祖とする河内源氏

上記三派の始祖は全員清和源氏二代目”源満仲”の息子になります。さらに源満仲にも兄弟がおり、それぞれ血筋が続いています。

さて、大河内氏の先祖とされている源頼政は源頼光の玄孫にあたり、摂津源氏の出身になります。源頼政(1104年~1180年)の時代は丁度、平清盛が台頭し始め、保元の乱、平治の乱を経て、平家の絶頂期を迎えている時に当たります。すべての源氏が平家と対立していた訳ではなく、頼政は保元の乱、平治の乱共に平清盛に付き、源氏方長老として政権中枢にいたそうです。

その後、1180年、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで打倒平家を掲げて挙兵を計画します。しかし、準備段階で計画が平家方に漏洩してしまい、ほぼ準備ができないまま挙兵を余儀なくされます。しかし、多勢に無勢の戦いの中、以仁王を逃すべく平等院に籠って奮戦しますが、最後は辞世の句を詠み自害します。

辞世の句
埋木の花咲く事もなかりしに身のなる果はあはれなりける
— 『平家物語』 巻第四 「宮御最後」—

この時、義政の子”源兼綱”も父親を守るべく討ち死にしています。この源兼綱の子”顕綱”は一説には京から額田郡大河内郷に落ち延び、大河内の改称したと言われています。ただ、この辺りは、記録があまりにも乏しく、家伝、伝承の域を抜けられず清和源氏と大河内家を結ぶための仮冒なのではないかという説もあります。

源の血族なのかは置いておいて、大河内顕綱が額田郡で力をつけていたであろう承久三年(1221年)、朝廷側が鎌倉幕府を討伐すべく挙兵した承久の乱が勃発します。結果は幕府側の圧勝だった訳ですが、その後の論功行賞で三河国守護職を得たのが足利宗家三代目”足利義氏”です。

当ブログでも所々神社紹介のページで出てくるほど三河地方に所縁のある足利家なんですが、三河と足利家の関係はこの時から始まります。

足利義氏が守護代として三河の地にやってくると、大河内顕綱など三河国の有力な豪族を家臣に組み入れ足利家躍進の土台を作っていきます。その中で、義氏は領地経営の一環として自分の息子(足利長氏)を三河国幡豆郡吉良荘の西条城に地頭職として送り込んでいます。その後、吉良荘を本貫地として吉良と改称し”吉良長氏”になり、ここから吉良家が始まっていきます。また、義氏四男”義継”も長氏と同じく吉良荘の東条城に送り込んでおり、こちらも吉良義継と改称しています。義継はその後武蔵国に移り、奥州吉良氏として続いていきます。

その後、大河内氏は足利宗家から吉良氏の家老として仕えるようになり、領地を幡豆郡寺津村に移しています。さらにその後、吉良家は南北朝時代に西条吉良家と東条吉良家と分裂して言わばお家騒動を200年近く続けることになります。大河内氏は西条吉良家の家老として領地を留守がちな当主に代わり領地運営を行っていたんだろうと思われます。

吉良氏は南北朝時代から吉良荘以外に、引馬荘(現在の浜松市)にも領地を持っており、その代官として大河内氏が派遣されていたそうです。遠江国を掌握すべく駿河国から今川氏が勢力を伸ばし、時の守護代斯波氏と結んだ大河内氏は抵抗します。そんな中、吉良家は一連の斯波氏と今川氏の戦いを見ていて、親今川に変化していきますが、大河内貞綱は徹底的に反今川として敗れても敗れても挙兵し、1517年の3度目の挙兵でも今川氏に敗れてしまいます。大河内貞綱は馬城に籠城し、兵糧攻めにも屈しなかったが、今川氏の穴掘り衆によって城中の井戸の水源を抜かれたため力尽き、自害。吉良氏は遠江国の所領を失うことになります。

寺津城改築

大河内氏10代目”大河内信政”が寺津城を築いたとされていますが、元々寺津辺りを納めていた訳ですから、屋敷だった場所を城塞化したんだろうと思います。

寺津城は、現在の西尾市寺津町にある瑞松寺周辺にあったとされています。

まさに寺津村の中心地に寺津城はありました。なぜ寺津と呼ぶようになったのか、それはこの地域の特徴を表しているそうなんです。この辺りには、非常に寺院の数が多く、また海にも近い場所という事から寺津と呼ばれるようになったんだとか。現在でも、寺院の数が多く、昔から栄えていた地域なんだなと解ります。

松平清康と守山崩れ

吉良氏が吉良氏は遠江国の所領を失った数年後、安祥城から一人の傑物が家督を継いで歴史の舞台に登場してきます。その名を”松平清康”と言います。

清康は、1523年、松平宗家を継ぐと、1524年、足助城の鈴木重政を攻めて降伏させ、1526年、宗家と対立していた岡崎松平家の山中城を攻撃して西郷信貞(松平昌安)を屈服させ、岡崎城も奪取しますが、棄却し新たに現在の場所に岡崎城を建築、本拠を移動させます。

さらに1529年には西尾の小島城を攻め、さらに、吉田城(現豊橋市)も攻め落とします。その後東三河の豪族たちが恭順した為、この年三河統一を果たします。家督を継いで僅か6年、清康18歳の時です。

この1529年に行われた現在の西尾市にある小島城攻めは、東条吉良氏から分家した荒川城主”荒川義広”の支城であり荒川氏の家臣”高部屋氏”を屈服させる事で、東条吉良氏を追随させる目的で行われたと思われます。

岡崎領主古記には、
「享禄二年同国吉良ヲ征スヘキ為二出陣有 小島城主高部屋ヲ攻て取之此眨米津左馬久勝政小嶋ノ先陣也 是ヨリシテ吉良衆御手二属シ荒川殿モ出仕ナリ」

とあります。その後、東条吉良家には松平清康の妹が嫁ぎ、吉良氏と松平氏は非常に近しい関係になっていきます。

その頃の、西条吉良氏は、1516年、5代目当主”吉良義信”が亡くなり”吉良義堯”が家督を継ぎますが、1517年に引馬荘の領地をなくし、1522年には足利義稙が失脚し、京都での地盤も無くしてしまった為、歴史の表舞台から消えてしまっています。(西条吉良氏は足利義稙派でした。)さらに、年月は不明なのですが、清康が三河統一を行った頃、吉良義郷に家督が移動しています。かなり弱体化が著しい吉良氏ですので、清康には表立って敵対せず、表面上は恭順の姿勢をみせていたのではないでしょうか。

三河統一を果たした清康はいよいよ尾張へ攻め込むことになります。1530年、東春日井郡の品野城、愛知郡の岩崎城などを尾張で力をつけつつあった織田信秀の支配下であった城を攻め落とします。

そして、1535年、駿河の今川家の支援も受け、総勢1万を超えると伝えられる大群で尾張に再度攻め込みます。現在の名古屋市守山区にある守山城を攻め囲みます。
天文4(1535)年
・12月3日尾張守山に向けて岡崎城を出陣。
・12月4日守山城に着陣。
・12月5日未明、事件は突発的に起こった。

夜間陣中の馬の綱が切れ暴れ出すという騒動が起き、この騒ぎを聞きつけた家臣阿部弥七郎正豊”は父阿部大蔵定吉が以前より主君松平清康に対し逆心の噂があり、弁明の機会もなく成敗されと勘違いし父大蔵の恨みを晴らすべく逆上し主人清康に斬りつけてしまった。
清康は大手門付近であえなく絶命、阿部弥七郎もその場で清康家臣”植村(上村)新六郎氏明”に切られ絶命、憤懣やるかたなく肥溜めに放り込まれたと伝えられている。

これが「守山崩れ」と呼ばれる事件になります。

この直後、松平家は総崩れとなり本城である三河に撤退。一説では吉田(現在の豊橋市)まで逃げたと言われてます。

通説では、松平清康の遺体は、岡崎の丸山の地で荼毘に付され、門前町にて墓塔を建てて善徳院墓塔と伝えられ、その後、1562年、桶狭間の合戦後今川家から独立した徳川家康によって隋念寺が建立されています。

これが通説だと思われていたんですが、長縄という地にある観音寺の一画から寛政七年(1795年)に清康公と彫られた五輪塔が発掘されます。しかも当時長縄は老中を歴任する松平伊豆守家の所領だったりします。神君”家康公”があこがれていたと伝えられる松平清康という文字に当時の人たちは驚き慄いたと思います。

大河内家の口伝に、「大河内喜平小見という者が、森山崩れの際、松平清康公の遺体をこの長縄の地まで運び、荼毘に付し埋葬した。」とあります。

大河内氏には長縄大河内氏と呼ばれる支族があり、長縄城を築き居城としていました。その長縄城の目の前に鎮座しているのが観音寺になります。大河内喜平小見はこの長縄大河内氏の者だと考えられています。

この仮葬地については、下記を参照してみてください。


松平清康公仮葬地碑


この頃は、大河内氏については資料に乏しく、はっきりとしたことはわかっていないのですが、元々大河内氏は西条吉良氏の宿老として吉良氏に仕えていた訳ですが、分家とは言え大河内喜平小見が松平清康の尾張攻めに参加している所を見ると、西条吉良氏は清康に恭順していたのかもしれませんね。

徳川家康と大河内氏

守山崩れの後、松平家は8代目として広忠が家督を継ぐことになるのですが、松平家内部の家督争いもあり、広忠は伊勢に逃れます。その後、親今川側であった東条吉良氏の”吉良持広”が今川義元に話を通し、今川氏の力もあり、広忠は1536年、吉良持広の家臣”富永忠安”の居城だった室城に入城し三河国入国を果たします。さらに翌年、岡崎城に再入城を果たします。吉良持広は松平広忠の元服加冠に際しては名付け親となり、広忠は彼の偏諱を受けたとされる。

しかし、1540年、尾張の織田信秀が三河に進軍し、安祥城を攻め落とされてしまいます(安城合戦)。そこから何年にもわたる織田氏vs松平・今川連合軍による戦いの歴史が続いていきます。そんな最中、吉良家にも150年にもわたる抗争からの和睦を目指す動きが起きます。

西条吉良氏の7代目”吉良義郷”と東条吉良氏の7代目”吉良持広”がほぼ同時期に亡くなります。西条吉良氏6代目の吉良義堯の次男”義安”が東条吉良氏を、三男”吉良義昭”が西条吉良氏をそれぞれ継いでいきます(7代目吉良郷は6代目の長男)。この時点で、吉良義安を主体とした吉良氏統一が行われていたのではないでしょうか。

この辺りから、歴史的には徳川家康の人物史にもかぶってくるようになっていきます。
1547年、織田信秀三河再侵攻、この際広忠は今川氏に援軍を要請。見返りに竹千代(後の徳川家康)の人質として差し出すことを要求され、承諾する。竹千代を駿河に送る途中、田原の地で戸田康光に拉致され尾張の織田氏に売られてしまう。(一説には永楽銭で百~千貫文)
これにより、松平氏は実質的に今川氏の傘下に入ることになります。

1549年、松平広忠暗殺。三河を手中に収めるために、今川氏による安祥城攻略戦が行われます。11月におこなれた安祥城攻略戦では、今川氏本体は、荒川城(現在の西尾市八ツ面)に布陣します。その際、織田家と通じていた東条吉良氏の吉良義安を攻略、捕獲します。(吉良義安はその後駿河に送られます。)その後、西条城は今川氏の城代が置かれ、吉良氏は、東条城のみの所領を安堵されます。そして、吉良氏も今川氏に臣従することになり、室町幕府の中枢にいた守護大名としての吉良氏はここに終焉したといっても過言ではないでしょう。

この時、大河内氏の首領は大河内信貞だと思いますが、先祖が主家の為に反今川として戦い自害しているのに、今川氏に臣従しなければならない状況はどう見ていたのでしょうか。

1560年、今川義元が桶狭間の戦いで絶命すると、ご存知の通り、徳川家康は岡崎城を占拠、今川氏からの独立を果たします。しかし、吉良義昭は今川氏真側に付き、徳川家康の三河統一戦に対抗いていく事になります。

1561年、家康は今川方武将が牧野氏が守る西条城を攻め落とし、吉良氏攻略戦に進んでいきます。4月の善明堤の戦い、9月の藤波畷の戦いを経て、吉良義昭は降伏し、鎌倉時代から続いていた吉良氏による東条城を明け渡します。

この9月の藤波畷の戦いについて『参河志』には「大河内小見討死墓也永禄四年」とあり、大河内氏も戦いに参加していたことがわかります。この大河内小見とは、上記で出てきた松平清康公の遺体を長縄に運んだ大河内小見と同一人物なのでしょうか?ただ、大河内氏の家系図には大河内小見なる者について記述がなく、実在した人物なのかわかりません。

吉良義昭は東条城退去後、岡山(現在の西尾市吉良町岡山)に住んでいたとも、岡崎城下に移住させられたとも伝えられています。そして、1963年、三河一向一揆が起こります。吉良義昭も一向一揆側に付き、東条城に再び入城し、家康に対抗します。この際、大河内氏首領の大河内秀綱も吉良義昭に付いて東条城に入城しています。ただ、大河内秀綱は吉良義昭に対し、一揆側に付くことを戒め止めているのですが聞き入れられず、「今に至て立ち去るは勇士の恥じるところなり」と東条城に入ったそうです。

ただ、この吉良義昭の東条城入城なんですが、すでにこの東条城には松平家庶流の東条(青野)松平家の松平家忠がいたはずなのですが、どうやって吉良義昭が簒奪したのかわかっていません。

ちなみに、松平家忠の筆頭家老が松井忠次となります。


松井氏居城”波城”


松井氏については、当ブログ記事を参照してみてください。

結局、再び吉良義昭は東条城を攻め落とされ、三河国から近江国に逃れ、最後は摂津国芥川で死去したと言われています。ここで、吉良家はいったん滅亡するわけです。

後年、忠臣蔵で有名な吉良上野介義央はどこからきたのかというと・・・。

前述した今川義元による吉良氏侵攻の際、駿河に送られた、”吉良義安”の妻が松平清康の娘だったこともあり、後年、義安の息子である”吉良義定”が家康によって取り立てられて、吉良氏復興がなされます。

大河内秀綱は東条城落城後、小島城の伊奈氏を頼って伊奈氏に仕え、遠江国稗原に領地を拝領。その後の家康の関東移封の際にも伊奈氏配下として武蔵国に領地を拝領し代官として陣屋を構えています。

大河内松平家

大河内氏は現代では仮冒ではないかと言われていますが、摂津源氏の血を引く一族という事もあり、家康から大河内秀綱の次男”正綱”を長沢松平家に出す様に命じられます。この松平正綱を初代として大河内松平家が起こります。

そして、大河内秀綱の孫になりますが”信綱”が生まれます。この信綱こそ後の知恵伊豆とも呼ばれる松平信綱にです。信綱は、松平正綱の養子として松平家に入ります。そして、家光の側近として活躍し、島原の乱では幕府側総大将として、一揆側と対峙し鎮圧しています。

松平信綱の子孫はほぼ大体”伊豆守”の官位を受領し、松平伊豆守系大河内松平家として存続していきます。

大河内氏は江戸時代を通じで大名3家、旗本7家が存続しており、嫡子が生まれず断絶する家系もあるなか、大河内一族と考えると、非常に大きく発展したのではないでしょうか。

投稿者プロフィール

成瀬晃ドクターレザーおかざき 店主
愛知県岡崎市で「かばん・くつ✚革の病院ドクターレザーおかざき」を営んでいる成瀬と申します。
史跡、神社などを巡った事をなどをつぶやきつつ、お店のブログではつぶやけないような事も書いていこうかと思っています。

コメント