寺院情報
寺院名 | 大雄山性高院 |
所在地 | 愛知県名古屋市千種区幸川町三丁目六番 |
御本尊 | 阿弥陀如来 |
宗 派 | 浄土宗鎮西派 |
創 建 | 天正十七年(1589年) |
札 所 | ー |
御朱印 | ー |
H P | 〇 / 公式web |
参拝日:2020年2月26日
沿革・由緒
天正六年(1578年)、武蔵国埼玉郡忍庄持田村(忍城下)に「攝受院正覚寺」が建立されます。当時の忍城主は「成田氏長」になります。天正十八年(1590年)、豊臣秀吉による小田原の役の際、忍城も石田三成率いる豊臣軍に包囲されますが落城せず、小田原城落城後の北条方の説得で開城しています。(この戦いは、「のぼうの城」にて映画化されています。)成田氏長は戦後「蒲生氏郷」預かりとされ、蒲生氏郷が会津に転封された時、成田氏は蒲生氏に付いていきそのまま蒲生氏郷の家臣となっています。
旧北条家の領地はほぼそのまま徳川家康に与えられた(関東移封)為、忍城には家康四男「松平忠吉」が十万石の領主として入城します。そして、忠吉は、天正十七年に亡くなった母西郷局(院号:宝台院)の菩提を弔うために、忍城下にあった「攝受院正覚寺」を再興させ「満譽玄道」を以て中興開山しています。
慶長五年(1600年)、関ケ原の合戦で武功をあげた「松平忠吉」は尾張国と美濃国に合わせて五十二万石の領地を与えられ、忍城から清州城に移ります。この時、忍城主の事深く帰依していた三ヶ寺の住職を清州城下に招き、それぞれ寺院を清州城下に建立開山しています。
忍城下から清州城下に移転した三ヶ寺
※性高院は、清州城下時代は大雄山正覚寺と称していましたが、清州越しの時に、寺号から忠吉公の法号である性高院に改称しています。
現在でも、上記三ヶ寺は、忍城のある埼玉県行田市に存続しています。清州城下に移転したというより、分院を清州城下に建立したといった感じのがしっくりくる感じがします。
忍城下の三ヶ寺
寺院名 | 所在地 | 宗派 |
---|---|---|
平田山清善寺 | 埼玉県行田市忍二丁目八番地十八号 | 曹洞宗 |
應珠山長久寺 | 埼玉県行田市桜町二丁目二十番地四四号 | 真言宗 |
大雄山正覚寺 | 埼玉県行田市城西四丁目三番二一号 | 浄土宗 |
松平忠吉は、慶長十二年(1607年)、江戸城にて家康、秀忠と謁見後の三月五日に病にて死去、享年二十八歳。葬儀は江戸増上寺にて催行(忠吉は自らが帰依していた興国山大光院にて葬儀を行う旨の遺言があったそう。)されます。その後、遺骨の一部が尾張「大雄山正覚寺」と三河「稲荷山隣松寺」に送られ、それぞれの寺院にて墓石が建立され松平忠吉の菩提を弔っています。忠吉の法号は「性高院殿憲瑩玄伯大居士」
慶長十五年(1610年)、天下普請により「名古屋城」の築城が始まり、翌十六年(1611年)から順次それまでの尾張国の中心となっていた清州城、その城下町を名古屋城下に移す「清州越し」が行われます。この時、正覚寺は名古屋城の南に位置する「南寺町」に移設されます。この移設時に、寺号である正覚寺から院号である性高院に改称ています。
南寺町には、曹洞宗、臨済宗、浄土宗などの寺院が、名古屋城の東側に作られた「東寺町」には、日蓮宗、曹洞宗などを寺院をそれぞれある程度宗派ごとに固めて建てられたのが特徴とも言えます。初代藩主徳川義直の時代には、浄土真宗の寺院は名古屋城下に建立する事は許されなかったと言われ、二代目光友の代になりようやく南寺町に東西本願寺の別院が建立され、空き地にも浄土真宗の寺院の建立が許されたと言います。徒党を組むと何をするかわからない浄土真宗の門徒を城下に入れたくなかったのでしょう。家康は一向宗に煮え湯を飲まされていますからね。
若宮八幡宮の南側に境内を持つ性高院は、寛永十三年(1636年)以降、朝鮮から使節が送られる「朝鮮通信使」の一向が江戸に向かう際、性高寺は朝鮮通信使の休泊所となっていました。
時は流れ、太平洋戦争の最終の昭和十八年(1943年)に日本陸軍用道路計画の為、現在地へ移転していますが、昭和二十年の名古屋空襲により伽藍すべてが灰燼に帰してしまいます。この時に朝鮮通信使の史料もすべて焼失してしまったそうです。その後、都市計画もあり、かなり境内が縮小され、現在は、境内に建てられたビルの一部を性高院の本堂としています。外観から性高院を探すと見つけにくいです。
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名古屋二十一大師霊場を行くー寄り道遍ー
松平忠吉が忍城下から清州城下に移転させた三ヶ寺の二ヶ寺は既に参拝・紹介をさせて頂いています。残る一ヶ寺は名古屋二十一大師霊場の札所からは少し離れた場所にある為、その札所の中でも比較的距離の近い二十一番札所「八事山興正寺/紹介記事」の納経が終わった後に参拝しようと思っていました。名古屋二十一大師霊場遍路の旅五日目でようやく興正寺の納経を終える事が出来たため、興正寺から北に進んだ名古屋大学のキャンパス近くにある「大雄山性高院」を参拝していく事にします。
参拝記
「性高院」の目の前は名古屋高速二号東山線の西向き(環状線)方面の「四谷IC」になっているので、このICが目印になるかと思います。性高院の参拝者駐車場が用意されているのかは不明ですので、確認して参拝してください。
社殿?
ビルの一角が御影石の外観となっている所に寺号標が据えられた性高院となっています。残念ながら扉は施錠されていた為、中はどういった構造になっているのかは不明です。
松平忠吉公墓所
ビルの裏手(駐車場側)にまわってみると、土塀で囲まれた場所がある事に気が付きます。塀越しに五輪塔または宝篋印塔の屋根部分がみえたりしているので、ここが松平忠吉公の墓石が据えられている場所であるとわかります。
塀には徳川家、松平家の家紋である三つ葉葵の丸瓦が埋め込まれています。
愛知県下の様々な寺院、神社などに石造物を寄進している「伊藤満蔵」氏が寄贈した「松平忠吉公墓所」と彫られた石柱になります。今まではあまり気にしてなかった伊藤満蔵氏の寄進物なんですが、ネットで調べた情報でもかなり広域で多数の寄進がされたという事ですので、わざわざ探すまではいかないですが、参拝先で見かけた(気付いた)時には合わせて紹介していこうかと思います。
「性高院殿御遺骨」が刻まれた松平忠吉公の墓石です。中々「御遺骨」と彫られた墓石を見る事はないかと思いますが、江戸にて埋葬された忠吉公の遺骨が清州の地に分骨という形とはいえ戻ってきた意義は、忠吉公が帰依し清須の地に建立した寺院にとっては非常に大きな意味があった事は想像に難くないです。
正中に向かって据えられている四基の墓石は、忠吉公の死去に伴い殉死された方の墓石になります。
忠吉が亡くなった江戸幕府初期にはまだ殉死は禁止されておらず、二代将軍「徳川秀忠」、三代将軍「徳川家光」が亡くなった時も殉死する家臣がいたそうなのですが、幕府は「武家諸法度」により殉死は不義無益であるとして禁止し、江戸時代中期には殉死は無くなっています。が、大正元年明治天皇の崩御により、日露戦争に二〇三高地の戦いなどでの日本陸軍の将軍として知られている「乃木希典」が妻と共に殉死しています。そういえば、昭和天皇が崩御された時も、何名かが殉死していると報道されています。
忠吉公の墓石と並ぶように据えられている名古屋市の有形民俗文化財に指定されている「双体地蔵石碑」になります。忠吉公とその家臣である奥津氏(石碑の側面にその名が記されているそうです。)の菩提を弔った物とされています。
その他にも、江戸時代中期の尾張藩家臣である「奥山信景」と「松平君山」両名の墓石もこちらに安置されています。
地図で所在地を確認
寺院名 | 大雄山性高院 |
所在地 | 名古屋市千種区幸川町三丁目六番 |
最寄駅 | 名古屋市営地下鉄名城線「名古屋大学駅」3番出口徒歩8分 |
次の目的地は?
松平忠吉が病気平癒の祈願をし、無事回復した為、頼奉謝のしるしとして社殿を建立創建した「富部神社」を参拝します。