城郭情報
城名 | 姫城(姫小川城) |
所在地 | 愛知県安城市東町獅子塚地内 |
築城年 | |
築城主 | 内藤清長 |
城形式 | 平城 |
遺構 | 無 |
規模 | 東西四十六間、南北六十七間 |
備考 |
訪問日:2019年9月24日
沿革・詳細
明治二十一年に発刊された「碧海郡東町村村誌」には、「東西四十六間、南北六十七間を取り囲む高さ一丈の土居が東・南・西に残り、万延年間以前は北側にもあった。」と記されています。
築城主は上野下村城主だった「内藤清長」と言われています。清長は松平清康が森山崩れで死亡した後も広忠、家康と松平家家臣として仕えています。三河に侵攻してきた「織田信秀」率いる軍勢を上野下村城にて打ち破った事もあります。が上野上村城が織田軍の手に落ちる前後には、上野下村城から碧海郡姫小川に姫城(姫小川城)を築き居城を移したと思われます。松平広忠に仕えていた清長は、何かと松平宗家に対し反抗的だった「桜井松平家」への抑えとして姫小川に移されたのではないか思う訳です。安祥城、上野上村城が織田家の手に落ちると、桜井松平家は松平宗家を裏切り織田家に臣従しています。姫城の内藤家、木戸城の成瀬家、藤井城の藤井松平家は協力して織田家&桜井松平家と対陣していたのではないでしょうか。
姫城を築城した清長は、浄土真宗本願寺派の門徒であり、姫城近くにある「小松山誓願寺/紹介記事」を菩提寺としていた様です。
徳川家康が今川家から独立すると、清長は家康に仕えていた様ですが、三河一向一揆が起こると、前述の通り浄土真宗本願寺派の門徒でった清長は一向一揆側として家康と対立する道を選択します。姫城と共に小松山誓願寺の周囲を堀と土塁で固めた城郭寺院へと変貌し、一体的な運用がされたのではないかと思います。
一向一揆が終結し、清長は萩城にて蟄居処分となります。そして永禄七年八月十二日(1564年9月17日)、萩城にて没しています。内藤家の家督を継いだ家長は姫城をそのまま居城としていた様です。そして、家康が関東移封となると、家長は、上総国佐貫城主となり、姫城は廃城となったようです。
しかし、廃城となった後も内藤家一族の屋敷と使用されていた様ですが、この屋敷に据えられていた内藤重清と内藤清長の宝篋印塔が誓願寺に移設されています。
その後も、明治時代くらいまでは土塁などが残っていた様ですね。しかし、その後の宅地開発の中でそういった遺構はすべて消失してしまっています。
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訪問記
誓願寺の北東側に境内と城域が接する様に姫城が築城されたという情報があり、たぶん上記ストリートビューでみえる範囲が姫城の城域だったと思われます。
しかし、遺構がまったく存在しておらず、また石碑などもないので、あくまでも推定でしか紹介できないのが残念です。
桜井町の色々な史跡を巡っていく中、一覧みたいな記事を書こうかなと思って勝手に「桜井町誌」を作成してみました。「綾姫伝説」についてもまとめていく予定ですので、是非ご覧ください。
地図で所在地を確認
城郭名 | 姫城(姫小川城) |
所在地 | 愛知県安城市東町獅子塚地内 |
最寄駅 | 名古屋鉄道西尾線「桜井駅」徒歩9分 |