豊明市

平野山聖應寺(愛知県豊明市沓掛町)

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

ONE POINT

豊明市沓掛町にある沓掛城主となった梁田政綱または梁田広正と非常にゆかりのある曹洞宗の平野山聖應寺の紹介です。

寺院紹介

寺院概要

寺院名平野山聖應寺
所在地愛知県豊明市沓掛町森元十七番地
創 建永正元年(1504年)
宗 派曹洞宗
御本尊釈迦如来像

霊 場

霊 場桶狭間十三佛 三番・四番・九番札所
前札所霊 場次札所
清涼山曹源寺桶狭間十三佛瑞雲山照栄寺
正等山円福寺 桶狭間十三佛 普照山慈光寺

文化財

国 宝
国指定
県指定
市指定
町指定
村指定

参拝情報

御朱印
URLhttps://www.syo-ouji.com/
駐車場
参拝日2022年3月9日

御由緒

 聖應寺の境内に設置されている由緒書きによると、元々は臨済宗の寺院で寺号を「聖禅寺」としていたようです。
 そして、永禄二年(1559年)に簗田左衛門尉出羽守政綱によって臨済宗の大本山である大徳寺の直末寺となり寺号を「久護峯慶昌寺」とした。

永禄二年(1559年)とな?

 ここで、疑問が・・・簗田政綱が沓掛城主としてこの地を治めたのは、永禄三年(1560年)の桶狭間の戦いの後の論功行賞によって三千貫文の領地と共に信長より与えられてからのはずです。それ以前の沓掛城主は織田氏に臣従していたが、後に信長を見限り今川氏に寝返った「近藤景春」になります。いつ近藤景春が寝返ったのかについては正直よくわからないのですが、桶狭間の戦いの前年である永禄二年はもしかしたら既に今川氏側に与していた可能性があるのでは。
 まぁ、近藤景春が信長を裏切っていなくても、九之坪から遠方となる沓掛城のすぐ近くにある寺院に対して寺号を代える程の影響力を与える事ができたのでしょうか・・・。

 その後、永禄十一年(1568年)に簗田広正によって曹洞宗に改宗、寺号を縁者である平野甚右衛門の母の法号から「平野山聖應寺」と改称した。とあります。
 ここで注目ポイントは、「簗田広正」がどんな人物であるのかという点になるかと思います。

簗田政綱と簗田広正

 通説では、簗田政綱の嫡子が簗田広正であると言われています。ただ、史料によっては、政綱と広正が同一人物であるように記載されているなど、その人となりについては正直わからない部分が多い武将であると言えるかと思います。

  • 永禄三年(1560年)簗田政綱:桶狭間の軍功により沓掛城と三千貫文を与えられる。
  • 元亀元年(1570年)簗田広正:小谷城の浅井攻めで殿を務める。
  • 天正三年(1575年)簗田広正:朝廷からの叙任で右近大夫となり、別喜姓を下賜される。
  • 天正四年(1576年)簗田広正:加賀国の旗頭となり大聖寺城を与えられるが、加賀一向一揆の討伐に失敗し、尾張に召還される。
  • 天正六年(1578年)簗田広正:織田信忠の麾下となる。

 簗田政綱や広正を調べると、大体上記のような年表が使われているかと思います。政綱の子である簗田広正ですがその名が歴史書に明確には登場することが少なく、「簗田右衛門太郎」と記されている人物が「別喜」姓を与えれて「別喜右近」と称するようになります。

 とにもかくにも、史料に乏しい人物であることは間違いなく、簗田政綱は一体信長とはどんな関係で、広正は政綱の子だったのか、政綱は沓掛城を拝領して以降どういった活動をしたのか・・・その人物像については全く解っていない事がこうしてみるとわかりますね。

別喜右近

 上記コラムに書いたように、簗田広正が天正三年(1575年)に朝廷より官位と共に別喜姓を与えれ、「別喜右近」と呼ばれる様になり、これ以降この名前が史料で散見されるようです。

 しかし、別喜右近の天正六年以降の足取りについては不明(Wikipediaには天正七年(1579年)六月六日死去と記されています。)。

 聖應寺の由緒書きに「別喜右近」についても記されている部分があり、これによると

「織田信長の三名将の一人、「平野金左衛門の娘婿で沓掛城主小松城主天神山城主など歴任し、天正五年(1577年)八月二十三日、信長と上杉謙信との手取川の対陣を契機として信長から離れ、小松左近将監と名乗り上杉四家老のひとり「斉藤下野守朝信」の世話を受け、後に教如上人の弟子となり法順と号し天正十一年(1583年)真宗東派寂定山超願寺を開創す。」

と書かれています。

・・・織田信長三名将って誰?そういえば織田信長の家臣団の十六将とか聞いた記憶がないですね。京都に鎮座する建勲神社が創建された時に選ばれた「織田信長公三十六功臣」が信長の家臣団をまとめているくらい・・かな?

 で、この由緒で一番の特徴は「別喜右近が信長陣営から出奔して、当時敵対してた上杉謙信の陣営に入ったという点でしょうか。謙信の配下の斉藤朝信の庇護を受け、その後、真宗本願寺派の教如上人に弟子入りしたと・・・。加賀国の大聖寺城時代は一向一揆を鎮圧していた人物がその後その一向宗たる真宗本願寺派に帰依して更に僧侶になった。」としている点です。
 この、別喜右近が信長陣営を出奔したという由緒がここ聖應寺だけのものだとしたらその真偽はどうなのかなと思ってしまう所ですが、色々調べてみると、新潟県柏崎市に真宗大谷派の「寂定山超願寺」が健在で、聖應寺の由緒と非常に似た由緒が伝えられているようで、一連の伝承の信憑性を高めている感じがします。

 先にも述べていますが簗田政綱と広正は同一人物であるとしている説もある事から、この新潟県の超願寺も簗田政綱ゆかりの地になる可能性がある訳で、ここまできたら是非一度参拝してみたい所です。

 近年、聖應寺の裏手にある山中より、城郭の遺跡が発見され元々沓掛城はこの山中にあり、現在沓掛城址となっている場所は今川義元が接収した後に築いた城なのではないかと考える説が浮上しているようです。

開創不詳。永正元年(1504年)臨済宗本郷山聖禅寺と号す。その後、永禄二年(1559) 築田左衛門尉出羽守政綱により臨済宗大本山大徳寺直末として久護峯慶昌寺と号す。永禄十一年(1568年)津島小法師平野土佐守金左衛門の子 平野佐渡守甚右衛門長安と築田左衛門太郎廣正(別喜右近将監)により曹洞宗に改宗し、甚右衛門の母の法号 聖應をとり平野山聖應寺と号す。

寺頭案内板より

簗田政綱ゆかりの地巡り

 令和4年(2022年)3月9日(水)、豊明市と北名古屋市に点在している桶狭間の戦いで軍功一位とされた「簗田政綱」の所縁の地を巡る遠征に出かけました。桶狭間の戦い以降はしっかりとした史料が残っていなかったりしてある意味「謎の武将」の感がある簗田政綱の数少ない?足跡を辿っていきたいと思います。

北名古屋市

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高畑神明社(愛知県北名古屋市九之坪)

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北名古屋市

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月峰山松元院(愛知県北名古屋市九之坪)

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花厳山観昌寺(愛知県北名古屋市九之坪)

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2022/4/21

補陀山瑞雲寺(愛知県北名古屋市九之坪)

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2022/4/19

大雲山平田寺(愛知県北名古屋市九之坪)

北名古屋市九之坪にある曹洞宗の大雲山平田寺の紹介です。平田城主だった平田氏により創建された寺院であることから寺号も平田寺にしたとか。雨乞いの龍神で知られており、さらに豊臣秀吉の位牌がある事でも知られています。

御朱印帳の保管に

 数年前より非常に集める方が増えた「御朱印」ですが、皆様は御朱印帳はどうやって保管していますか?神社・仏閣を廻って御朱印を受けているとあっという間に御朱印帳の冊数が増えていきますが、そのまま棚などに置いている方が多いのでは?。せっかくお受けした御朱印ですので、日本では古くから着物を始めとして大切なものを保管する為に使われていた「桐箱」に入れて保管した方がよろしいかと思います。

 ぜひ、皆様も桐箱に御朱印帳を保管されてみたらいかがですか?

参拝記

 沓掛城の南側入口から慈光寺を参拝してそのまま西に進んでいくと、途中真宗大谷派の正福寺の門前を通り抜け、今回の目的地である聖應寺の参道入口が見えてきます。車で向かう場合は参道を進んだ先に駐車場が用意されています。

参道入口

 「曹洞宗 平野山聖應寺」と彫られた寺号標が建てられた参道入口になります。一般共用されていない参道って久々に出会った気がします。

境内入口

 質素な参道入口から、石灯籠一対、寺院の入口によく据えられている禁酒標?が据えられている境内入口になります。さらに、聖應寺の境内入口の印象付けているのが山門になるのではないでしょうか。

 八脚門の間に仁王像が据えられている「仁王門」になるのですが、屋根の形状が曹洞宗の山門というより、黄檗宗の山門に近い印象を受けます。

黄檗宗の山門とは

当サイトで黄檗宗の寺院について紹介しているのは、名古屋市緑区の鳴海地区にある「龍蟠山瑞泉寺」の一ヶ寺だけなんですが、ここ の山門もまさに聖應寺の山門と非常に似た造りとなっています。

 基本となる門の形状が四脚門と八脚門、更に屋根形状が切妻造と入母屋造という違いがあるのですが、門の屋根の中央部分が重層造りの様な形状となっているなど基本構造は全く同じといってもいい造りかとおもいます。

 黄檗宗は禅宗の臨済宗と非常に強い結びつきがある宗派で一時は臨済宗黄檗派と称していた宗派になります。なぜ黄檗宗とは系統の違う曹洞宗の寺院に黄檗宗を特徴づける山門の様式が使われているのが興味がでてきます。

手水舎・水盤

 木造瓦葺四本柱タイプの手水舎になります。その手前に設置されている看板が由緒書きになります。

本堂

 寄棟造瓦葺平入の向拝が設けられた本堂になります。禅宗の本堂らしい濡れ縁が設けられていないシンプルな造形となっています。

観音堂

 宝形造の観音堂になります。中には三十三観音像が並べて据えられています。

御朱印

 聖應寺では御朱印を頂けるかどうかは確認していないので不明です。

参拝を終えて

 聖應寺の境内にある墓所の市場の奥には、簗田出羽守、または別喜右近の墓であると伝えられる「前羽州太守景巌宗徳大禅定門」と刻まれた墓石があります。
 織田家を出奔したという別喜右近の墓が尾張にあるのはどうかな?と思いますし、更に聖應寺の伝承では真宗東本願寺派(現在の真宗大谷派)の僧侶となっているわけですから、なおさらここに墓所があるのはどうなのか?

 そう考えると、ここに墓所があるとすると、簗田出羽守と別喜右近は別人物(親子)であると考えた方がしっくりきそうですが、真実はいかに。

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やはり、旅先の情報はネット検索もいいですが、るるぶなどの旅行ガイド雑誌が一番ではないかなと思います。ネット情報はどうしてもディープになりがちで、いざ旅行に行こうと思っても、俯瞰的な情報が不足しがちな気がします。 やっぱり、"るるぶ"を見ながら、旅の予定表を作っていくのも、旅行の醍醐味ですよね。

所在地を地図で確認

寺院名平野山聖應寺
所在地愛知県豊明市沓掛町森元十七番地
最寄駅鉄道:
バス:豊明市コミュニティーバス「宿バス停」徒歩10分

寺院・霊場巡りの際のバイブルに

 元々、当サイトは神社巡りを通じて、皆様の住んでいる所にある"村の鎮守の神様"と呼ばれる神社を紹介してくサイトを目指していたんです。むしろ寺院については、縁遠いものとおもっていたんですよね。しかし、ちょっとした御縁で弘法大師霊場に出会い、そして愛知県では一番活動が盛んな"知多四国霊場"を巡礼、結願する事になりました。でも、神社の事はある程度知識があっても、寺院については未知の世界だったので、少しでも巡礼の時に役に立てばと思い、こちらの本を読ませて頂いております。

少しでも巡礼の時にお役に立てる事もあるかと思います。是非一度読んでみてくださいませ。

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