寺院情報
寺院名:真珠院
鎮座地:愛知県西尾市吉良町駮馬
本 尊:不明
宗 派:浄土宗
創 建:天保十一年
H P:-
参拝記
東条城から県道越えて山中に入った所に、真珠院という今は無住になってしまった寺院があります。この真珠院には何やら"行場"という物があり、それが西尾市の指定文化財になっているんだとか。東条城からもほど近いので、参拝してみようと向かってみました。
境内前には、縁起板が掲げられていました。(この創建年については、後述しますが、"行場"の内容と食い違いが生じているので、当サイトでは、縁起板の方を創建年と統一させて頂きます。)
陸奥棚倉城主松平周防守康爵なんですが、これだけはなんで松平氏が?と思われると思いますが、祖先は松井忠次(後の松平康親)になり、松井松平氏と呼ばれ、歴代"松平周防守"を名乗っていたそうです。
松井忠次の墓が法応寺にありましたし、それこそ松井忠次以前の松井氏菩提寺"正龍寺"もこの東条城からほど近い場所にありますので、何らかの縁でこの地に来る事がありこの地に浄土宗である真珠院を建立したんでしょう。
そんな松井松平氏ゆかりの真珠院ですが、ここの住職として迎えたのがここ駮馬出身であった"慈本豪英尼"でした。この慈本尼、浄土宗の寺院で出家し、その後、臨済宗、天台宗と改宗し、また浄土宗に帰依された方です。で、天台宗の豪潮律師に弟子入りしていた時の天保二年(1831年)二月から天保四年(1833年)四月まで、慈本尼は則定村(現在の豊田市則定町)の羅漢山で千日念仏を行じます。そして、千日念仏を終えた後、真珠院の住職として迎えられます。
そして、真珠院の住職の間にもさらに二度目の千日年仏を行います。その千日念仏を行った場所が"行場"と呼ばれている場所で、さらにその中に"千日箱"という箱を据えてその中に籠り、光を遮断した中念仏を唱えていたんだとか。
その"行場"というのがこちらの建物。
間口2.14m 奥行2.94m 高さ2mの一坪少々の建物になります。こんな中に1,000日閉じ込められるわけです。・・・ただ閉じ込められるだけではなく、さらに幅76cm 奥行90cm 高90cmなんという木箱の中に1,000日間籠るんです。自分なら間違いなくリタイヤする自信があります。
ちなみに、この木箱も千日箱といって指定文化財のようなのですが、現在は吉良歴史民俗資料館に寄託されているようです。
この時代でこんなひっそりとした感じの山の中・・・。江戸末期とはいえ、今よりはもっと鬱蒼と茂っていた山の中だと思いますよ。夜・・・・怖すぎですね。
この行場の奥には、歴代住職の墓石が置かれています。一際大きいのが慈本尼の墓なんだとか。
一際というか・・・桁違いに大きさが異なっている感じですね。そういえば、この真珠院には檀家の方の墓石が見当たりませんでした。無住になった際、移動したのかな?
いきなり"行場"の案内から始めてしまいましたが、改めて境内入口から。
なんとなく境内入口の雰囲気で無住どうかわかる様になってきました。
境内を見渡しても庫裏が存在していなかったので、本堂の一画に庫裏があるのかもしれません。
無住なのか、廃寺なのか、外からでは中々判断しきれないのですが、まだ境内に手が加えらえている様子からどなたかが管理されているんだと思います。
鐘突堂になります。
この奥から、先ほど紹介した"行場"に通じる道が通っています。
道と言っても・・
こんな感じなんですけどね。
倒木や竹が行く手を阻んでくれます。
最初はマジでここであってるの?と思われると思いますよ。
そして最後に、行場の説明書きです。
境内の地図も書かれているのですが、行ってみれば確かに地図はあってるんですが・・・
この真珠院のすぐ西側には"長福寺"という臨済宗の寺院があったのですが、近年廃寺になっています。そこで祀られていた薬師堂の薬師如来が真珠院にて安置されているそうです。→現在は岩瀬文庫に寄託されているそうです。
伊勢湾台風の際、諸堂を失い、実相寺の兼務寺になっていたようですが、前述の通り廃寺となっています。
薬師堂跡に建つ石碑。長福寺に安置されていた薬師如来は西尾市の指定文化財になっていて、平安期に作られた物なんだとか。
今や、寺院跡と言われても全く見えません。ただ、この写真の奥の方に
歴代住職の墓がまだ据えられています。
少々真珠院とかかわりのある長福寺も併せて紹介させて頂きましたが、真珠院もいつ廃寺となるのかわからない状況だったりするので、行場という中々目にする機会がない文化財がありますので、一度訪れてみてはいかがでしょうか。