岡崎三十六地蔵 岡崎市

照光山安養院金田寺(愛知県岡崎市魚町)岡崎三十六地蔵十二番札所

2021年4月30日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

寺院情報

寺院名照光山安養院金田寺
所在地愛知県岡崎市魚町一丁目二十一
御本尊阿弥陀如来坐像
宗 派浄土宗西山深草派
創 建天文十五年?
札 所岡崎三十六地蔵 十二番札所
御朱印
H P

参拝日:2020年11月18日

沿革・由緒

 安祥松平家五代「松平広忠」に仕えていた「金田惣八郎正祐」の菩提を弔うために設けられた御堂が安養院の始まりであると伝えられています。安養院の寺伝では金田正祐の菩提を弔うために徳川家康が建立したとされています。徳川家康が菩提寺を建立したというこの金田惣八郎正祐とは一体どんな人物だったのでしょうか。
 金田正祐の子孫は旗本として続いている事から「寛政重脩諸家譜」にも記載されている一族なので、まずは寛政重脩諸家譜にどう書かれているのか見ていこうと思います。

金田正祐 惣八郎 母は某氏。
広忠卿につかへたてまつり。御近習に列し、天文十五年九月六日三河国上野の役に戦死す。年二十二。法名照観。額田郡能見村の宅地に葬る。のち東照宮正祐の忠死をなけきおぼしめされ、阿部大蔵元真に仰て彼宅地に寺を建て、金田寺と号し寺領を寄付せらる。慶安元年大猷院殿より寺領十石の御朱印をたまはる。そののちこの寺を同国大林寺のうちにうつすとき改葬す。

寛政重脩諸家譜第五百三十五巻より

 金田正祐は家康の父「松平広忠」の側近の一人だった人物のようです。天文十五年の三河国上野の役とは、松平広忠を裏切り尾張国の織田信秀に与した酒井忠尚が城主となっていた「上野城/紹介記事」を巡る戦いの事を指します。この戦いにおいて正祐は戦死したと伝えられています。

 実は、安養院の寺伝では金田正祐が戦死した戦いは永禄六年の三州山中郷中芝の役であると伝えられています。この寺伝について昭和四年発刊の(旧)岡崎市史では誤った伝承が伝わったとしています。

 金田正祐は、松平広忠の近習(側近)であった事から、広忠の正室「於大の方」とも面識があったはずです。於大の方は水野信元の妹であり、水野家は松平家共に今川家と同盟を結んでいたのですが、突如信元は今川家との同盟を破棄、織田信秀と同盟を結び、今川家との同盟関係の維持を選択した松平伊広忠は於大の方との離縁を決断し、於大の方は水野信元が居する刈谷城に送り返される事になります。

 この於大の方を刈谷城へと贈る時の事が「改訂三河後風土記」に書かれていて、その護衛として金田惣八郎正祐の名前が登場してきます。

竹千代君御誕生付御母君御餞別の事

天文十年辛丑正月、三州刈屋城主水野右衛門太夫忠政の息女を以て、広忠君の北方と定め給ふ。此故は御父清康君は松平弾正左衛門昌安入道が女子を以て、北方とし給ひけるに、ほどなく御離別ありて、青木筑後守貞景が女を迎へ給ひ。この御腹に広忠君をまうけ給ひ、此の方うせ給ひて後、右衛門太夫忠政が離別せし妻を娶て北方になさる。・・・・・中略・・・・然るに此若君(徳川家康)三歳の時、天文十三年甲辰、御母君御餞別あり。そのゆけ如何というに、前年水野忠正は卒せらる。其後長子下野守信元は、織田信秀に志を通じらるるにより、広忠卿我今川家の与国として、信秀に一味する水野と縁を結ぶ事本意に背けりとの思召故なりとぞ。此時北方御病おはしければ、酒井雅楽助正親が家に留まいらせしが、御快ならせ給えば、弥水野家へ帰らせ給ふべしとして、御母子御別をなげかせ給ふぞ埋り過てあはれなる。
 かくて北方涙ながら岡崎を出給ひ、刈屋に趣給う。金田惣八郎正祐、阿部四郎兵衛定次、其外士五十人ばかり御供せり。北方をば神輿に載て、岡崎と刈屋の境に至りし時、北方御供の人々を召して、「送り来りし輩下々まで、わらはをば此所に捨置いて、とくとく帰るべし。」と仰られければ、金田・阿部を始め「とは如何なる御心にてかくは宣ふにや。岡崎殿には道の程よく警護して、刈屋まで送参らせよとこそ仰られつれ。是非御供仕るべし。」・・・・後略。

 文中にでてくる広忠君の北方が「於大の方」になります。

 それよりも、大林寺などの寺伝では松平広忠は春姫(松平昌安娘)とありましたが、改正三河後風土記では春姫ではなく青木貞景の娘との間に生まれた男子が広忠であるとしています。色々調べると、春姫と清康はその後離縁している様で、離縁したと伝わる年と広忠が生まれた年を考察すると広忠は春姫の嫡子ではないっぽいですね。

 松平広忠と金田正祐は年が近く、相談できる懐刀といった関係だったのでないかと思います。そういった関係ならば当然広忠の正室「於大の方」とも親しい関係だったのだろうと想像でき、当時の情勢とはいえ於大の方と離縁しなくてはいけいなくなった広忠の代わりに於大の方を刈谷城の水野信元の下に送り届ける護衛役として選ばれたのも当然の流れなのかなとおもいます。

 改訂三河後風土記の話で略してしまったのですが、岡崎城から刈谷城にむかう於大の方は岡崎と刈谷の境にたどり着いた時、護衛の金田正祐と阿部定次に「護衛はここまでで岡崎に戻ってください。」と話したといい、その理由を「兄信元は大変短慮な人であり、私と共に刈谷城に向かった場合、生きて岡崎に戻る事は出来ないだろう。そうすると松平と水野は血縁でありながら敵味方の対立関係になってしまう。」として、敵対関係にならないようにここで岡崎に戻ってほしいと嘆願したとし、於大の方を意を汲み、小川の領民に頼み、於大の方を刈谷まで送り届けたとしています。刈谷城からは高木善治郎清秀・水野太郎作清久らが迎えにやってきたとしていますが、実は武装化していたとしています。

 桶狭間の戦いの跡、徳川家康は於大の方と再婚相手の久松勝俊とその子供たちを岡崎城に迎え入れていて、家康と於大の方の間の会話の中で父広忠の側近「金田正祐」の話を聞き、正祐の忠節ぶりに感銘を受け、正祐の菩提を弔うべく能見村にあった正祐の墓所を整備、伽藍を建てて金田寺を建立しています。その後、大林寺の境内に移転しています。

 (旧)岡崎市史の大林寺の記事の中に、江戸時代の頃の大林寺の絵図が載っていました。この絵図の右側に塔頭の様な感じで大林寺の境内に建っているのが安養院の境内になります。

 安養院は金田寺と曰い、照光山と号す。魚町四十二番地に在り。境内四百六十七坪一勺を有す。同町大林寺の末寺である。
 もとは能見村にありて、開基を義覚利玄と伝ひ、金田惣八郎正祐菩提の為に徳川家康の創立せられしものである。慶安元年徳川家光より寺領十石の朱印を賜ひ、後今の地に移った。

昭和四年発刊「岡崎市史」より

霊所をめぐる

 安養院は岡崎藩の寺院で構成された「岡崎三十六地蔵霊場十二番札所」となっています。令和二年から三年にかけて岡崎市の観光協会などが始めた「おかまいり」という企画で岡崎三十六地蔵霊場を巡るスタンプラリーが行われています。

 この記事を書いている時点でスタンプラリーに使うスタンプ台などが設置されているのかは不明ですが、現在でも「おかまいり」の公式サイトが稼働している(H3.4.29現在)ので、まだスタンプラリーは実施されているのかも?。巡ってみたいと思った方は、まだスタンプラリーがやっているかどうかを岡崎市観光協会に問い合わせる事をお勧めします。

 令和2年(2020年)11月18日、事前にスタンプラリー帳をゲットしていた岡崎三十六地蔵と岡崎十二社のスタンプラリーを始めてみました。この日はとりあえず岡崎市の中心部にある岡崎市図書館交流プラザ「リブラ」の駐車場にバイクを停めて、徒歩にて巡ってみる事に。

 岡崎市立図書館が入っている交流プラザ「リブラ」です。図書館と中心にジャズコレクションなどいろいろな施設が入っている建物になります。丁度リブラが建っている辺りは、岡崎城の「大林寺郭堀」が彫られていた場所になります。

 大林寺郭堀の北側に桃色で塗られている場所が「拾玉山大林寺/紹介記事」の境内になります。この境内地の北東あたりに安養院の境内があったようです。どこの城址でもそうですが、堀は容赦なく埋め立てられて、岡崎城の場合はこの大林寺郭堀周辺はかつての岡崎の中心地「康生」が成形されていました。自分が中学生の頃には夏はプール、冬はスケートリンクになったスポーツガーデンや岡崎郵便局が建っていましたが、廃止や移転となって、一時は期間限定のなんちゃら小町とかいうお土産屋などが並ぶ観光施設になっていた記憶があります。
 そんな場所に建つリブラの駐輪場にバイクを停めて、徒歩で巡ろうと準備していると・・・

 全く知らなかったのですが、岡崎市ではレンタル自転車の事業をやっている「HELLO CYCLING」という企業と提携して色々な公共施設の駐輪場などにレンタル自転車のスポットが置かれているみたいです。利用には「HELLO CYCLING」のサイトで行うようです。15分で50円かあ・・・1時間で200円・・・お値段的にはこんなものなのかなあ・

 これがレンタル自転車になります。電動アシスト自転車が使えるみたいですが、これって日頃の充電ってどうなっているんですかね。借りたけど電池切れは辛いなあ。

 今回は自転車は借りずにやっぱり歩いて巡って行こうと思います。

 歩き始めてすぐに大林寺への道路標識が見えてきます。左折100mなんていう標識をわざわざ建てる必要があったのかはよくわかりません。

 リブラの前から左前方面を見ると、吸排気用の建物とフェンスの間に大林寺の本堂を見る事ができました。江戸時代から明治時代になって境内が削られ、さらに太平洋戦争の時の岡崎空襲からの復興の中で更に境内が削られているんだろうなと思います。大林寺の境内前を東西にはしる市道を超えると古地図を見る限り大林寺の境内だった場所に入るみたいですね。

 リブラから真っ直ぐ北に向かって250mほど歩くと安養院の境内が見えてきます。境内の一角は墓所になっていてブロック塀とフェンスに囲まれています。この時には気付かたなかったのですが、この墓所の一角に「金田惣八郎正祐」の墓石もあるみたいです。

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ひとつめゲットです。

参拝記

 岡崎空襲で本堂などが灰燼に帰してしまった為、戦後建てられた本堂のみの少し寂しい感じの境内になっています。

本堂

 入母屋造瓦葺妻入りの向拝の設けられた本堂になります。外壁にトタン板が張られているなど、少し寂しい感じですね。

 中央に本尊である阿弥陀如来坐像、向かって左側には弘法大師像、そして向かって右側に子安地蔵が奉安されています。この子安地蔵が岡崎三十六地蔵霊場の札所本尊のようです。

 特に弘法大師霊場の札所になっているとも聞いていないのですが、本堂に弘法大師像が奉安されている所をみると、改めて弘法大師信仰の根強さを感じます。

 本堂の前には「おかまいり」のスタンプ台が置かれています。ずっと回って思ったんですが、スタンプを押す台が欲しいんですよね。スタンプが置かれている箱の上を使って押していたんですが、盗難防止の為に付けられているチェーンの長さが足りなかったり、写真を見てもらってもわかりますが、雨や梅雨で濡れてると拭く必要があったりして、う~ん押しにくいなと思いながら回っていました。

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やはり、旅先の情報はネット検索もいいですが、るるぶなどの旅行ガイド雑誌が一番ではないかなと思います。ネット情報はどうしてもディープになりがちで、いざ旅行に行こうと思っても、俯瞰的な情報が不足しがちな気がします。
やっぱり、"るるぶ"を見ながら、旅の予定表を作っていくのも、旅行の醍醐味ですよね。

所在地を地図で確認

寺院名照光山安養院金田寺
所在地愛知県岡崎市魚町一丁目二十一
最寄駅名鉄バス「本町バス停」徒歩4分

寺院・霊場巡りの際のバイブルに

元々、当サイトは神社巡りを通じて、皆様の住んでいる所にある"村の鎮守の神様"と呼ばれる神社を紹介してくサイトを目指していたんです。むしろ寺院については、縁遠いものとおもっていたんですよね。しかし、ちょっとした御縁で弘法大師霊場に出会い、そして愛知県では一番活動が盛んな"知多四国霊場"を巡礼、結願する事になりました。でも、神社の事はある程度知識があっても、寺院については未知の世界だったので、少しでも巡礼の時に役に立てばと思い、こちらの本を読ませて頂いております。

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少しでも巡礼の時にお役に立てる事もあるかと思います。是非一度読んでみてくださいませ。

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