岡崎十二社 岡崎市

神明宮[能見神明宮](愛知県岡崎市元能見町) 岡崎十二社

2021年5月20日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

神社紹介

神社名神明社(通称「能見神明社」)
鎮座地愛知県岡崎市元能見町四十二番地一
御祭神天照大御神、萬幡豊秋津姫命、手力男命、豊受姫命
須佐之男命、市杵嶋姫命、五十猛命
旧社格神饌幣帛料供進指定村社
創 建不詳
神名帳
境内社
例祭日五月第二日曜日
御朱印
H P/公式HP

参拝日:2020年11月18日

御由緒

 「能見の神明さん」と呼ばれ、春の例大祭では何基もの山車が街中を引き回され、岡崎観光100選だったか、純情きらり観光100選だったかそんな名前の岡崎市観光名所にも選ばれるなど、岡崎に住んでいれば一度はその名称などを聞いた事があるだろうと思われる神社が岡崎市元能見町に鎮座する「神明宮」になります。

 創建時期は不詳ですが、昭和四年発刊の「(旧)岡崎市史」第七巻に神明宮の由緒などの記載があります。委しい内容については下記に転記していますのでそちらをご覧頂ければと思いますが、かいつまんで説明すると真偽は不明で一層の研究が必要だが、能見の神明宮は延喜式内社の一座である「稲前神社」の旧境内地に鎮座していたが、岡崎城主「田中吉政」による岡崎城改修工事によって現在の境内地に遷座した。この時、田中吉政の家老「辻勘兵衛重勝」が神官であった「深見氏」に屋敷地を寄進し、慶長六年(1601年)には伊奈忠次により五石の黒印を拝領しています。

辻勘兵衛重勝とは?
豊臣秀吉恩顧の大名である「田中吉政」の家老であり、「三勘兵衛」の一人としてその名が知られている武将になります。。
関ヶ原の合戦後、田中吉政が筑後国柳川三十二万石に転封となると、一国一城令によって猫尾城が廃城となるまでの間猫尾城城代を勤めています。

 神領である黒印地は、その後、徳川家光により朱印地と改められ、明治維新まで続いていきます。ちなみに一石とは成人男性が一年間に食べるお米の量であるとも言われ、「一石=米150kg」となります。五石=米750kgが毎年寄進されるという事なのか、五石取れるはずの田が寄進され神社側で米作りしていたのかはよくわかりませんが、少なくもとも、神社の運営と神官「深見氏」が生活していけるだけの保障があったということですね。

 延喜式内社である「稲前神社」は元々は岡崎城が建つ「龍頭山」周辺に鎮座していたと言われています。元々岡崎の地は伊勢神宮の神領であり、この地に鎮座する稲前神社の御祭神は天照大御神としています。龍頭山には総持寺が建立される事になり、材木町久後に遷座。さらに、田中吉政による岡崎城の拡張工事によって稲前神社の境内地は没収、元神明と呼ばれる場所に遷座しています。
 この「元神明」が何処を指すのかがよく解らないですが、岡崎市史を読む限り、現在の能見の神明宮の境内地になると思われ、その後、岡崎市稲熊町の現在の境内地に遷座しています。

 稲熊に遷座したときに元神明とする現在の元能見には分祀した御祭神を祭る神社が建立され、この神社が能見の神明宮になっていくのではないかと思われます。

 稲前神社:龍頭山→材木町久後→元神明→稲熊町
 神明社 :           ┗分祀され「神明宮」となる

両社の関係はこんな感じなのでしょうか?

 この稲前神社と能見の神明宮の関係とは異なるもう一つの稲前神社の伝承があって、稲前神社の別当寺として「神領山本光寺」が材木町久後周辺に鎮座していたのですが、岡崎城拡張の際に寺領が没収、一時は廃寺となってしまいますが、その後復興が認められて岡崎市上青野町に境内地を得て遷座しています。この時、境内社として稲前神社も上青野町に遷座したとも伝えられています。
 現在は、上青野町の稲前神社は「榊宮神明宮/紹介記事」に合祀されています。

 (旧)岡崎市史に載っていた神明宮の絵図になります。鳥居から参道が伸びてその先に広がる境内地など、社殿配置などは多少変わっていても、現在の神明宮に通じる雰囲気を感じ取れる気がします。

 神明宮は能見町字東畑十五番地に鎮座。境内一千二百五十坪を有す。其勧請年代は詳ではないが、口碑傳説によれば、もと材木町字久後に三河国二十六座の内「稲前天神社」がありしが、天正十八年田中吉政岡崎城主となりて城地を広むるに及び、此地に移転再興したものであると。
 稲前神社は今稲熊町に其移転せしと称する式内社稲前神社あれば、それとも定め難い。されど材木町字久後の地を今に至りて當社の宮元と称し最も古き氏子なりと云ふより見ても、参考の篠に引きたる天正二十年の辻勘兵衛尉の祢宜屋敷寄進状より見ても、岡崎城主田中吉政が城地拡張の為、此地に遷したたる由の傳えは誤なき事実のように思わるる。辻勘兵衛は吉政の家老である。
 六ッ美村上青野の本光寺は、神領山と号し、長徳三年に能見原に開基し、式内霧降山稲前神社の別当であったと云ひ、田中吉政が稲前神社の社領を没収したるにより、神體を奉じて青野に移り、本多豊後守の岡崎城主時代の慶長六年に神社の復興を請い、社地社殿の寄進を得た。これが今の上青野の稲前社であると傳へて居る。これは信用すべきものか否か明らかではないが、そのかみ能見原に開基して稲前神社の別当職であったと云ふ伝説はこの神明社と何等か因縁を有するもののようである。いずれにしても、式内稲前神社とこの神明社並に稲熊の郷社との関係はなお一段の研究を要すべきであろう。
 天正年中、本社の神官を深見六蔵と云ふ。同二十年九月十八日、辻勘兵衛重勝より屋敷地の寄進を受く。慶長六年二月十日伊奈備前守忠次神領五石の黒印を附す。慶安元年二月十四日、徳川家光之を朱印に改む。寛延二年社殿を再建し同年九月十五日遷宮式執行す。明治五年十月十二日村社に列せられ、同四十年十月二十六日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。同四十二年拝殿の改築あり。大正十三年境内神社御鍬社、津島社(二社)、厳島社、。稲荷社等を合併し、神殿、渡殿、神楽殿、社務所、石鳥居等を建立した。
 祭神は皇大神宮、須佐之男命、豊受姫命、五十猛命、市杵嶋姫命の五座である。堂宇には神殿、渡殿、拝殿、神楽殿、神庫、社務所、籠屋等あり。例祭は五月十四日、十五日。御神輿、山車数基出て市街を練り歩きて人出多く、岡崎有数の祭典である。

『神明宮 西能見村に在り。神領三石
 昔日源頼義公の家臣嵩地源太夫廣長という者あり。能見の郷を開き一神祠を建立すと云ふ。其後、加藤新蔵、鈴木市蔵、近藤九兵衛なる者は皆村中累代の舊家なれば、相共に評議して御神体を改め、神明を勧請せしとぞ。承久の頃は星野判官額田郡を知りたり、茲に源左衛門と云ふ者ありて社地寄附の事願えれば、代官山田外記氏房これを許す。其後御當家にいたり、新たに社領三石を附属し給うと。例祭六月十五日なり。山車両輛出す。氏子町中を引きわたす。童子の舞などあり、美観云はん方なし。(参河名勝誌)』

『能見村神明社勧請之事
 鎌倉之右大将源頼朝卿之御嫡左衛門督頼家の御時、疫病起きて所々村々難儀に及ぶ。依て或は天神を勧請し、或は八幡宮を勧請し奉し、其村思い付きに任せて神々を勧請す。中にも能見村の加藤新蔵、鈴木金蔵、是等は井田郷糀井郷より来て天台宗なる故、さらば當村へも何れの御神体をか分て勧請すべちと申す。中にも根元の人二百年も代々住なれし近藤九兵衛と云者申しけるは、兎角神は伊勢の宗廟に増したる事なし。新たに利生を請わんて邪神杯を祭る事不可然、正法の神を勧請すべしと神明を迎え奉る。初めの程は榊木杉葉を持って仮館をしつらひ敬いける。・・・後略・・・。(社寺舊記)』

昭和四年発刊「(旧)岡崎市史」第七巻より

 創建は明らかではないが、天正二十年(1592年)九月十八日、岡崎城主田中吉政の家老辻勘兵衛重勝より神官深見六蔵(明治まで代々神官を勤めた。)に屋敷地の寄進あり。慶長六年(1601年)二月十日、伊奈備前守忠次社領五石を寄進。慶安元年(1648年)二月十四日、徳川家光朱印に改五石を寄進する。寛延二年(1749年)九月十五日、社殿を改築する。明治五年十月十二日、村社に列格し、同四十年十月二十六日、神饌幣帛料供進指定を受ける。同四十二年拝殿を改築する。大正十三年、境内社の御鍬社、津島社、厳島社、稲荷社を本社に合祀した。また社殿を造営する。

愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」より

 本社創立は平安中期(西暦1000年頃)疫病が起きて村々に難儀が及び、之により能見村在住の近藤九兵衛、伊勢正法神を勧請し、榊・杉葉で仮屋形を建てる。
 承久元年(1219年)、北条泰時出仕の時、星野判官額田郡を押領あり。其の時の代官伊田の郷にあり。翌年代官村々巡見の時、能見村にて其の村の源左衛門宮地の寄進願いけるに山田外記氏房巡見帳に書留、宮地少々寄附し他に銭五十貫文程下され祠を建立。
 祭礼八月十五日夜より十六日迄。この代官十五年間額田郡を支配して神明を敬い山田外記本社建立を寄付。其の後祭礼は水無月に、神移しは大門村八剣神社の神主藤江内膳が諸事執り行うと伝わる。
 天正二十年(1592年)時の神主深見六蔵に城主田中吉政の家老辻勘兵衛尉重勝より神主屋敷の寄進あり。
 慶長六年(1601年)伊奈備前守忠次、神領五石の黒印を附し、慶安元年(1648年)二月十四日徳川家光之を朱印に改める。
 寛延二年(1749年)社殿を再建、同年九月十五日遷宮式を行う。
 明治五年(1872年)十月十二日村社に列せられ、同四十年(1908年)十月二十六日神饌幣帛料供進神社に指定。
 同四十二年本殿拝殿の改築あり。
 大正十二年(1923年)十月三日、境内社の御鍬社、津嶋社、厳嶋社、稲荷社、津嶋社、五十猛社荒神社津嶋社合殿の六社を合祀する。

「神明宮境内設置由緒書き」より

岡崎十二社めぐり

 岡崎城下に鎮座する神社を巡る「おかまいり岡崎十二社スタンプラリー」
 かつては岡崎城下に鎮座する十二社を巡る霊場として造られたようですが、その後神社の合祀などがあり、今回スタンプラリーを実施する辺り松平家ゆかりの神社を加えるなどして十二社を再編した「(新)岡崎十二社」として生まれ変わっています。

2/12

 岡崎三十六地蔵霊場を巡っているとほぼその経路上に岡崎十二社の神社が鎮座している感じで非常にいい感じでスタンプを集められる感じがします。

参拝記

 岡崎城公園から岡崎市図書館りぶらの前を南北に走る「城門通り」をひたすら道なりに北上すると突き当りに鎮座している神社が今回紹介している「能見の神明さん」こと神明宮になります

 神明宮の南西あたりには十八松平家のひとつ「能見松平家」の居城「能見城」があり、伊賀川より南岸は能見松平家の所領だったことのだろうと思われるのですが、能見の神明宮がこの地に鎮座するのは能見松平家が関東移封によりこの地を離れてからになり、能見の神明宮と能見松平家は関係ありそうでない感じのようです。

境内入口

 ストリートビューと代り映えがしませんが、神明宮の境内入口になります。神明宮の境内前を抜ける市道は一方通行になっているので、車で参拝する際には気を付けてください。

社号標

 建立年月は調べ忘れてしまいましたが、境内入口にひっそりと建っている社号標です。

鳥居

 大正十三年建立の神明鳥居になります。

石灯篭

 神明宮の境内には非常に多くの石灯篭が寄進されていました。

手水舎

 水盤と井戸が横並びになっていて木造瓦葺六本柱タイプの手水舎になります。

狛犬

 擬宝珠を頭に載せて、非常に愛くるしい表情のこま犬一対になります。この姿を見ていたら生まれた年を調べ忘れてしまったのですが、後にネットで検索すると明治三十八年生まれだという事がわかりました。

 今まで紹介してきた狛犬の中でも一、二を争う表情のこま犬だと思います。

社殿

 神明造風の拝殿を有する社殿になります。

 ここ神明宮の社殿の特徴として、拝殿、本殿に設けられている「千木」が他の神社とは異なっています。神社の主祭神が男神だと千木の先端を垂直に削る「外削ぎ」、主祭神が女神だと千木の先端を水平に削る「内削ぎ」の千木が用いられるとされていますが、能見の神明宮の社殿を見ていると、前方側に外削ぎの千木、後方側に内削ぎの千木がそれぞれ設けられている特殊な様式をなっています。これは、主祭神が天照大御神と須佐之男命としており、それぞれを表すためにこの様式としているようです。

地図で鎮座地を確認

神社名神明宮
鎮座地愛知県岡崎市元能見町四十二番地一
最寄駅名鉄バス「神明社前バス停」徒歩2分

ご自宅にお札は祀られていますか?

実家には神棚はあっても、今お住いの所には神棚がない方も多いかと思います。神棚には、日本の氏神である"天照大御神"とご自身がお住いの氏神様のお札を掲げると御神徳が宿るとされています。
賃貸住宅などに住まわれて簡単に神棚を掲げられないという方もお勧めなのが、

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南向き、もしくは東向きになる様に、そして目線の高さより上になる様に、棚などの上において頂くとよいかと思います。是非、皆様もご自宅に神棚をご用意いただき、御札を納めてほしいなと思います。

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