能見城(愛知県岡崎市元能見町)能見松平氏居城

城郭情報

城名能見城
所在地愛知県岡崎市元能見町地内
築城年不明
築城主松平光親
城形式平城
遺構なし
規模不明
備考定本西三河の城より

訪問日:2020年11月18日

沿革・詳細

 岡崎の元能見に鎮座する「神明宮/紹介記事」の西隣あたりに、能見の地を所領とした松平光親が築城した「能見城」が存在していたと伝えられています。

 松平光親は松平信光の八男(ほかにも十男とも十二男とも言われる)であり、兄親忠の所領である井田野から伊賀川を挟んで南側に広がる「能見の原」と呼ばれる地域と阿知和を拝領し、能見に居城を構えた事から「能見松平氏」の祖と言われています。

 現在は伊賀川の流れが当時とは大きく異なり、能見の神明宮の北側辺りで大きく南側に流れを変え、能見松平氏の菩提寺「観音寺」の東を流れて岡崎城方面に向かって菅生川と合流していますが、当時は国道2148号線や愛知環状鉄道の高架がある辺りまでまっすぐ西に向かって流れていて、能見の神明宮、能見城、観音寺は同じ伊賀川南岸に建っていました。

 上記地図を見比べて頂ければ伊賀川の流れの変化が一目で見て取れます。今の伊賀川の流れは台地と低層地の境を流れる様に築かれた人工河川になります。今では低層地は区画整理が行われ宅地化されていますが、元々は田園が広がる地域で、人々は伊賀川の左岸(東岸)の台地部分に居していた事がわかります。

 能見の神明宮の所でも述べていますが、能見城の東隣に鎮座していたとされる神明宮ですが、一説には材木町久後に鎮座していたという「稲前神社」が田中吉政の岡崎城拡張施作により能見に遷座し、この時神官の深見氏に神官地を寄進したと伝えられています。この時深見氏に与えられたという神官地は能見城の一部であったとされています。というか、稲前神社の遷座した場所も元々能見城の城域だった気がしますが。

 能見松平氏は、初代光親の頃から一貫して松平家惣領に臣従してきた様で、光親は父であある岩津松平家の松平信光、そして兄である安祥松平家の松平親忠に仕え、二代目松平重親以降は安祥松平家に仕えています。三代松平重吉は、安祥松平家5代松平広忠が死去すると、今川家に人質となっていた竹千代(徳川家康)が不在の間、鳥居忠吉と共に岡崎惣奉行となっています。重吉の子松平重茂と共に徳川家康の初陣である加茂郡寺部城攻めに従軍しています。(この戦いで重茂は討ち死。)また、松平信康初陣の際には具足親となるなど、武勇優れる武将であったとされています。

 能見城は、能見松平氏の居城と伝えられる。「寛政重修諸家譜」によれば、能見松平氏の系譜は次のようである。初代光親は松平三代信光の八男で、父信光と親忠に仕え、額田郡能見や阿知和などを領し、能見の地に住んだことから能見松平氏と称した。二代重親は、松平長親と信忠に仕え、三代重吉は松平昌安(西郷信貞)の勧めで松平清康に仕えたのち松平広忠に仕えた。広忠は三河が今川領国であった天文十八年(1549年)鳥居忠吉とともに岡崎惣奉行となり、永禄元年(1558年)には、今川義元の命により寺部城(加茂郡)攻めに加わり、子の重茂などを失いつつも奮戦し、義元から感状を与えられた(譜諜余禄)。天正年間に至っても諸所で活躍するが、同八年(1580年)に能見で没し、能見観音寺に葬られた。重吉の孫昌利のときに関東移封となって、能見を去ったと思われる。

江戸時代に消えた能見城の跡

 能見城の遺構は江戸時代に徐々に破壊されていったようで、明治初年の地籍図にもその痕跡をほとんど留めていない。しかし、その様態は「追遠拾遺」(能見松平氏の事蹟を江戸時代にまとめたもの)からわずかに窺うことができる。
 それによると、松平光親の屋敷は東西が五町(550m程)で南北が三町(330m程)あまりであった。屋敷の南には垣一重を隔てて菩提寺の観音寺があった。また、もとは城の東西を取り巻いて流れていた伊賀川が、先の文書が書かれた当時は西側に付け替えられて、古い川は沼田になり、城の堀跡は埋まって町屋の建つ宅地となっている。城の東にある神明宮(能見神明宮)は光親の氏神であった。当時城址は既に一面の畑地となっていたが、井戸跡のほか土居(土塁)や堀跡も残っているとある。
 屋敷の広さが誇張されていることも考えられるが、これは能見松平氏の当地における直轄地の広さを示したものであろう。従って居城として能見城は、観音寺の北側、かつての能見村字西屋敷付近にあって100m四方ほどの規模であったと推定される。

家康の移封とともに役目を終える。

 徳川家康(当時は松平元康)が岡崎城を居城としていた永禄年間の初めの家臣団の屋敷配置を記した記録によれば、当地には能見松平氏の屋敷を初めとして、松平一族や遠山氏の屋敷があった(永禄四年または七年岡崎御在城之間後家中御旗本衆迄屋敷附)。また当地には元康の組織的上級家臣の能見松平氏のほかに小林、金田、石川、野々山、杉山、大賀などの中下級家臣が配備されていた。東の大平、西の六名とともに岡崎城北辺の警護を任務として家臣団が集住していた地域であったのである。(「新編岡崎市史」2巻)
 天正十八年(1590年)には徳川家康の関東移封の後をうけて豊臣秀吉の代官として田中吉政が岡崎に入封した。吉政は岡崎城を拡張するため、材木町字久後にあった稲前天神社を現在を現在の能見神明宮の地を移転させ、同二十年(1592年)吉政の家老辻勘兵衛は神明宮の神官深見六蔵に屋敷地を寄進している。(「旧岡崎市史」7巻)神主屋敷は神明宮の西隣に当り、前の能見松平氏の本領地内に含まれる。つまり、田中吉政は家康とともに関東に移封した能見松平氏の屋敷地を引き継ぎ、空き地をなったところを深見氏に与えたのであろう。新大名吉政は各地域の城址を自分の進退の元におき、処分できる存在であった。能見城は城屋敷としての務めをここに終えたのであった。

「定本西三河の城」より

能見城址

 能見松平氏の城址である。元能見町神明宮の西辺の地と思はるるが今は明ではない。
 三河古城紀、並びに古今城墨誌には「松平次郎右衛門重吉」とあり、三河二葉松には「松平次郎左衛門重吉息大隅守重勝息宮内少輔康治。重吉は神君御幼年の比岡崎惣奉行を勤む。」とあれど、なほそれ以前より在城し、重勝にまで及んだようである。二葉松に云ふ康治の事は詳でない。
 能見松平氏の祖は、松平三代信光の子(八男とも十子とも十二子とも云ふ。)次郎右衛門光親にして系圓に天文五年四月卒、見松山観音寺に葬ると云ひ、その子傳七郎重親(実子にあらず。)能見住人と載せ、永禄元年正月歿、また観音寺に葬る故を云ふ。されば光親の頃より居住したるものと思はる。重親の子重玄、重吉、重吉は二葉松に云へる如く、広忠歿死後、鳥居伊賀守忠吉等と岡崎奉行たりし人、重玄は玄鐵と号し、阿知和右衛門大夫と云ひ、阿知和に住む。その子玄以、また阿知和右衛門大夫と云ひ、本多忠勝に仕へた。玄織の女は忠勝の妻である。重吉の長子重利、庄右衛門の云ひ、永禄三年尾張丸根城城攻の時討死し、次子重茂、若之助といひ、永禄元年二月の寺部城攻に戦死し、三子重勝は二郎右衛門と云ひ、駿府城代となった。
 また光親の子に親友あり。圖書頭と呼ぶ。本多中務大輔家の老梶氏は其後なりと云ひ、観音寺境内に松下鳩茎撰文の碑石を建ててある。観音寺は菩提寺であったのである。

親氏━信光━光親┳重親┳重玄━玄以
        ┃  ┗重吉┳重利
        ┗親友━忠恒┣重茂
              ┗茂勝
以上は寛政重修譜に據れるものなるが松平系圖には重玄を挙げずして重則を掲げ、これを阿知和右衛門大夫とよぶ。法名厳鐵、永禄七年甲子五月十一日針崎村合戦に討ち死と云ひ、また重吉の第三子に重勝を挙げざるものあれど、今寛政譜に従って記した

昭和五年発刊「(旧)岡崎市史」八巻より
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訪問記

 由緒沿革の中でも書いていますが、明治の頃にはほぼ遺構は消失してしまっている上に、伊賀川の付け替えが行われた事もあり、現在では能見城を彷彿とされる物は一切残っていません。
 ただ、そんな能見城址ですが近年、岡崎城郭研究会によって民家の一角に石碑が設けられ、石碑の建つ場所一帯に能見城があった事を現在に示しています。

 一応石碑が建っている場所が先ほども書いていますが民家の軒先という事もあって細かい場所は載せない方がいいのかな?とおもってしまったので、ストリートビューで紹介するのは自重させて頂きました。
 ただ、場所についてこれだけではよく解らないと思うので、「観音寺の北東側の伊賀川沿いに建つ民家の軒先に石碑がある。」とだけ公開します。あとは、探してみて下さいね。
 あ!駐車場はまったくないですし、前面道路も路駐も不可能な道幅なので、能見城跡の石碑を探すときは時間貸駐車場などに車を停めて向かってください。

地図で所在地を確認

城郭名能見城
所在地愛知県岡崎市元能見町地内
最寄駅名鉄バス「神明社前バス停」徒歩4分

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