ぶらりお勧め散策ルート

簗田政綱の所縁の地を巡ろう。

2022年4月5日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

織田信長家臣「簗田政綱」とは?

 永禄三年(1560年)、天下を驚かせ、織田信長の名を天下に知らしめたという「桶狭間の戦い」が勃発します。劣勢であると伝えらえる織田信長の元に敵将今川義元の本陣の場所を伝えた一人の武将がいます。その武将の名は「簗田政綱」という。

簗田政綱と桶狭間の戦い

 桶狭間の戦いには、奇襲戦なのか強襲戦なのか色々その解釈が分かれている戦いではありますが、そのどちらにしても敵陣・・・特に敵大将の場所を知るという事は戦いを有利に進める事ができる事になる訳で、桶狭間の戦いの後、織田信長は今川義元の首級をあげた毛利良勝ではなく、簗田政綱を一番手柄として沓掛城と三千貫文の知行地を与えたという。

 首級をあげた毛利良勝でもなく、一番槍だった服部小平太でもなく、簗田政綱が一番手柄としたのは、武功ではなく「義元の本陣の動向と場所を知らせた。」という戦略を練る中で必要不可欠な「情報」をもたらしたという点になります。

 そんな、簗田政綱についてGoogle先生に尋ねてみると、「元々は尾張守護だった斯波氏の家臣で春日井郡の九之坪周辺を所領としていた。」という情報が。

 九之坪の場所を地図で調べると思いのほか清州城の近く、さらに九之坪の近くには斯波氏の一族ともいわれる平田氏が城主を務めていた平田城があったようで、この頃には勢力は失墜していたとも言われている斯波氏の数少ない勢力地だった可能性がありそうです。

 いつ頃から簗田一族は九之坪に移り住んだのか、不明な点も数多く存在していますが、今回はそんな簗田政綱が桶狭間の戦いの軍功で手に入れた「沓掛城」とそれ以前からの所領だった春日井郡の九之坪周辺を距離がかなり離れていますが巡っていこうと思います。

簗田政綱の所縁の地を巡る。

 なんで豊明市の沓掛と北名古屋市の九之坪という地図上の直線距離で23.5kmも離れている場所を一緒に巡っていこうかと思ったかと言えば、尾張地方北部の点在する二十一大師霊場のうちのひとつ「西春二十一大師」の札所を調べていて、九之坪周辺に札所が集中していた事からこの辺りに何かあったのかな?って九之坪について調べていたいたら「簗田政綱」の名が登場。俄然興味が湧きて来たので、「九之坪に向かう途中に沓掛城周辺を廻っていけばちょうどいいじゃん。」というほぼ行き当たりばったりな計画性皆無な遠征を企画したわけです。

 ルートは単純で、岡崎を出発して沓掛を経由して九之坪へ。そして九之坪で制限時間まで散策してあとは岡崎まで直帰する。ただ問題点としては、地理的距離間がまったくない場所を走り抜ける関係上、沓掛→九之坪の所用時間が全く分からない点ですかね・・・。

今回の行程

 令和4年(2022年)3月9日(水曜日)天気はくもり。バイクで移動するのでまだまだ防寒着が必要な気候の中、豊明から北名古屋にむけて出発します。

 という事で、先にも述べていますが今回の遠征における主たる目的地は二ヶ所。それが、

  • 沓掛城
  • 九之坪城

 当然、今回の遠征の目的である「簗田政綱」が城主を務めたとされる城を巡るのが第一の目標になります。あとは、この城周辺の神社仏閣などを巡って遠征の肉付け?をして行こうと思います。

3月6日行程表

観昌寺はもとは養泉寺と称し、簗田政綱の位牌が安置されているとか。平田寺は平田城主だった平田氏の菩提寺になります。

2022年あいちを巡る生活って巡拝記

 新型コロナウィルス(オミクロン株)が年明けから急速に感染拡大してしまった為、当所予定してた通りとはいかなくなってしまいましたが、2022年(令和4年)に愛知県を巡っていく巡拝記を順次更新していきます。

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