寺院情報
寺院名 | 開運山 光照寺 |
所在地 | 半田市乙川高良町百二十番地 |
御本尊 | 阿弥陀如来 |
宗 派 | 時宗 |
創 建 | 興国三年(1342年) |
札 所 | 知多四国霊場 十八番札所 知多西国霊場 三十二番札所 |
御朱印 | 〇 |
H P | - |
参拝日:2018年5月16日
知多新四国霊場公式ホームページのご紹介
http://chita88.jp/
沿革・由緒
興国三年(1342年)源親房の建立という。元の寺は八幡社前の海岸にあったのだが、文化五年(1808年)、紀州徳川家の支援によって十四世覚阿是興上人の時、現在地に移転した。
文化八年(1811年)廓山和尚の時、本堂はじめ庫裏等上棟落慶した。別棟の観音堂は当時寺格の関係で塔の建築は許されなかったが、鳴海陣屋の成瀬隼人正に懇願し「ヒサシ(向拝)をつければ塔にあらず。」との条件で建立を許されたという。
「知多四国めぐり」より
知多四国霊場を行く
知多四国霊場番外札所「清涼山 海蔵寺」を後にして、十八番札所である「開運山 光照寺」を目指します。海蔵寺から県道261号線に出て、そのまま南下していきます。
海蔵寺からは約800mほど走ると、左手に光照寺の参拝者用駐車場が見えてきます。
これくらいわかりやすい駐車場だと巡礼しやすいですね。
参拝記
由緒にでてくる八幡社とは、地図の東側に鎮座する乙川八幡社の事かな?と思っていて、ちなみに、この乙川八幡社の鎮座地は、乙川城址を境内にしているとされ、乙川城址の推定されている場所の一つになります。
地形などから、武豊線が走っている辺りが海岸線沿いに近い場所に当たると想像でき、元々の場所は乙川天満宮の周辺じゃないのかな?と思っています。
境内入口
光照寺周辺は南に向けて下り坂となっていて、境内南面の正面側は石垣と壁が何とも言えない情緒を醸し出しています。道は非常に狭いので注意が必要ですが、歩いてこの辺りを散策したくなってしまいます。
境内入口石段脇にあった知多四国霊場道標になります。次の十九番札所まで十三丁の道のりだそうです。
山門
鐘楼門の山門です。
山門の印象をより一層強くしている四柱それぞれに付けられている袖壁みないな物は、倒壊防止用支柱を隠すために設けられた物の様です。普通の鐘付き堂でも耐震性が乏しいのに、このような層門様式の鐘突き堂となるとさらに重心が高くなってしまい、さらに耐震性が低下してしまいますので、現代では倒壊防止用の支柱は必須なのかもしれませんね。
手水舎・水盤
切妻瓦葺四本柱タイプの手水舎になります。
写真のアングルのせいなのかもわかりませんが、なんとなく小ぶりな印象を受けますね。
本堂
入母屋造瓦葺平入向拝が設けられ、高覧付きの廻縁のある本堂になります。
向拝がかなり幅広く設けられています。正面七間に対し四間幅の向拝であり、両端の柱以外に二本の柱が設けられています。この辺りにも寺院ごとに個性が出てくるポイントですね。
観音堂
こちらが由緒にも出てくる重層造の観音堂になります。
向拝が無ければ、二重の塔?という扱いになるんですね・・・。この裁きを下したのが「成瀬隼人正」とされていますが、これは尾張徳川家筆頭家老成瀬氏の事を指します。犬山城主としても有名ですね。
「隼人正」は官位であり、成瀬氏が代々称していましたそうです。
ここ光照寺では、弘法堂ではなく、中央に安置されている十一面観音像を本尊として観音堂と呼ぶそうです。実際、ここ光照寺の本尊は本堂に安置されている阿弥陀如来なんですが、納経帳に記載されている札所本尊は十一面観世音菩薩となっています。十一面観世音菩薩は秘仏とされ、厨子の中に安置されています。
秘仏とされる十一面観世音菩薩は、亀崎沖で漁師の網にかかって引き揚げられた御像を迎え安置したという逸話が残っています。こういった伝説逸話は枚挙に暇がないですね。
この観音堂は内陣、外陣がしっかりと分けられていて、外陣にはご覧の通り、様々な奉納された絵馬?などが掲げられています。こういった奉納された物をみても、光照寺が参拝者の崇敬を集めていたのがわかります。
弘法大師は、十一面観世音菩薩の右側(向かって左)に安置されています。
「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」・・・
清水次郎長地蔵尊
ここ光照寺には、清水次郎長所縁の地蔵尊が安置あれています。
元々は亀崎街道と呼ばれる県道沿いに祀られていたそうなのですが、拡幅工事が行われることになり、光照寺に移設されたそうです。
清水次郎長地蔵尊
「勝軍地蔵」「心願成就地蔵」と呼ばれる清水次郎長地蔵尊ですが、これには一つの逸話が関係してきます。
穂北(ほげた)の久六は次郎長と親交を結んだがその後悪行の数々を働き、再三次郎長から訓告されてしまう。久六はこれを逆恨みし、また次郎長の名声を妬み、次郎長の事を誹謗中傷をする。
次郎長は大政、森の石松、八五郎の3人の子分を引き連れ、角力興行中の久六を呼び出し、亀崎街道の乙川畷で久六と対峙し久六の右腕を切り落としたそうです。
この一戦の前に次郎長は道端に祀られていた地蔵尊に、心願をかけ一心に勝利を祈ったと云います。それ以降勝負事に後利益があるとされ、多くの参拝者が訪れるようになったと言います。
御朱印
参拝を終えて
写真にも雨が降っている様子が写り込むくらい、雨が強く降っていました。正直、写真を撮るのも一苦労です。
光照寺を参拝し、「成瀬隼人正」、「清水次郎長」という歴史上の人物との繋がりも得ることができました。特に成瀬氏については、私の地元愛知県に所縁の深い一族になるので、色々関係している史蹟や神社仏閣などがあると思いますので、またいずれ「成瀬氏所縁の場所を行く」みないた記事紹介企画をやってみたいですね。
次の目的地は
十八番札所「開運山 光照寺」を後にし、次は十九番札所「前明山 光照院」を目指します。