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浅間神社(愛知県安城市姫小川町)

2020年5月16日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

神社紹介

神社名浅間神社
鎮座地愛知県安城市姫小川町姫四十番地
御祭神木花咲耶姫命
旧社格神饌幣帛料供進指定村社
創 建不詳
神名帳
境内社不明社一社
例祭日十月第三日曜日
御朱印
H P

参拝日:2019年9月24日

御由緒

 今回紹介する浅間神社は国の指定史跡となっている「姫小川古墳/紹介記事」の後円部の墳丘上に鎮座している神社となっています。姫小川町、桜井町を中心とした地域には古来から人々が住み着き、姫小川古墳が含まれる「桜井古墳群」が形成されるなど比較的力をもった集落が形成されていた事が想像されます。

 大和の都にて中大兄皇子、中臣鎌足らによる政権クーデターが起き、当時政治の中心となっていた蘇我入鹿、蝦夷が打倒されます。このクーデターにて皇位についてのが「孝徳天皇」です。孝徳天皇が即位して数日後に日本初の元号である「大化」が用いられた為、政権クーデターとその後の変革を「大化の改新」と呼ぶようになります。
 この孝徳天皇の皇女とされる「綾姫」が大和もしくは孝徳天皇が都としていた難波より船に乗り三河湾または矢作川に面しているこの地にたどり着きます。紀伊半島沖など外洋を超えてくる訳ですから、想像以上につらい船旅ではなかったかと思います。
 この地にたどり着いた「綾姫」はそのままこの地に留まり、五十二歳で亡くなったとされます。伝説では、「現在は廃寺となっている「蓮華寺」にて葬儀が行われ、「豊玉姫神社の森」と呼ばれる場所にご遺体を埋葬し、その後「御陵」を築き、御陵周辺を「皇塚の森」ということにした。」と伝えらています。この「豊玉姫神社の森」が姫小川古墳の周辺ではないかとも言われ、浅間神社の由緒には「孝徳天皇の皇女の古墳の墳丘上に鎮座する」と記されています。また、姫小川古墳のすぐ北にある「姫塚古墳/紹介記事」の墳丘上には「姫塚墓」と彫られた宝篋印塔が設けられ、「綾姫」の御陵であると言われています。
 姫小川の地名の由来となったのも綾姫に因んでいるとされています。

桜井町の色々な史跡を巡っていく中、一覧みたいな記事を書こうかなと思って勝手に「桜井町誌」を作成してみました。「綾姫伝説」についてもまとめていく予定ですので、是非ご覧ください。

上記にも出てきますが、元々は海沿いまたは矢作川沿いの集落だったので、海に所縁のあるという「豊玉姫」を祀る神社があったと言われていますが、この村で難産がつづいた為、甲嬰国の浅間神社から「木花咲耶姫命」を勧請し、姫小川古墳の墳丘上に社を建てたといいます。それ以来、難産のために死ぬ者はなくなったといい、安産の神として崇敬厚い神社です。

 浅間神社の境内には由緒が書かれた石板が据えられています。この由緒にも、境内には姫小川古墳となっていて孝徳天皇の陵墓であると書かれていますが、綾姫伝説についてはしっかり記載されていないので、中々これだけでは理解できないのではないかなと思う訳ですが。

往古この地を萱口と称し、此処より海路を土呂(今の岡崎市福岡町)に通じ重要港として繁栄の地であった。孝徳天皇の皇女綾姫(地方民は姫宮と称していた。)は多数の従者を伴われ此の萱口に御上陸なされ永住され、白鳳十年六月二十四日御歳五十二歳を以て亡くなり。この地に葬り奉る御陵墓を皇塚と称し、地名を姫之郷と改むに後世に至り難産続出し此の難に苦しむ者多く神夢のお告げにより産神木花咲耶姫命を甲斐国より勧請し安産の守護神として鎮斎す。妊婦は神饌撤下の御洗米を拝受すれば安産なりと言い今尚妊婦の方の守り神として親しまれて産土神として崇敬の念厚い。境内地たる御陵墓は前方後円墳にして後円墳の頂上地上十米の高台に社殿を建立林樹鬱蒼として繁茂り孤陽静寂荘厳極まりなく自らにして崇敬の念を生ずる神域である。
昭和二年十月二十二日内務省より神社境内地を史蹟名勝天然記念物として指定さる。

境内由緒板より

歴史探訪

 安城市桜井町周辺には数多くの古墳が存在し「桜井古墳群」を形成しています。その古墳群に属する「姫小川古墳/紹介記事」の墳丘上に鎮座している神社が今回参拝する「浅間神社」になります。同じく桜井古墳群に属している「二子古墳/紹介記事」と共に昭和二年に国の指定史跡にもなっている「前方後円墳」です。

 既に紹介している「獅子塚古墳/紹介記事」、「姫塚古墳」と共に姫小川に伝わる「綾姫伝説」に所縁のある場所になります。姫小川町の町名の由来とも言われる「綾姫」とこの地を切り開き領主となっていて、綾姫がこの地に訪れた時に保護したとされる小川氏から「姫小川」という地名が生まれたと言われているようですね。

参拝記

 姫小川の集落から田園地域に抜ける東西に走る市道沿いに国の指定史跡である「姫小川古墳」があります。古墳を含む周囲が浅間神社の境内として整備されており、浅間神社の鳥居の奥に古墳とその墳丘上に鎮座する浅間神社の社殿があります。

境内入口

 境内入口からはかなり奥まった場所に据えられている明神鳥居になります。社号標も鳥居同様にかなり奥まった場所にありますね。昭和十年代に境内を拡張したそうなので、もしかしたら、現在の境内入口部分から社号標が立っている辺りまでを境内地として拡張した場所なのかもしれませんね。

社号標

 旧社格である村社が併記された浅間神社の社号標です。

鳥居

 扁額のない明神鳥居になります。鳥居周囲から石段に向けて参道が設けられていますね。

参道

 姫小川古墳の後円部の斜面に石段の参道が設けられ、登り切った墳丘上に鎮座する「浅間神社」に社殿が建っています。こうやって見上げると、よく人力でこれだけの盛土が出来たなと思ってしまいます。

狛犬

 生年月日を調べ忘れてしまいましたが、玉乗り子乗りの狛犬一対です。彫刻の具合から戦後生まれの様な気がします。

社殿

 

 入母屋造瓦葺妻入りの拝殿になります。拝殿ー幣殿ー本殿と一体化された社殿となっています。昭和二十年に起きた三河地震により倒壊してしまった為、その後再建されています。

浅間山溶岩

 どうゆう由来なのか浅間山の溶岩が奉納されていました。

本地仏 薬師堂

 元々は浅間神社の社殿の中に奉安されていたと伝わる本地仏「薬師如来像」が安置されている「薬師堂」になります。江戸時代になり姫小川古墳の前方部に薬師堂を造営して薬師如如来像を浅間神社の本殿内から薬師堂に遷座奉安していましたが、さすがに現代となると薬師堂が老朽化した為、現在の地に薬師堂を再建し再び遷座したそうです。
 本地仏が奉安されていたという事は、ここ浅間神社は別当となる神宮寺があったという事なんでしょうか。神宮寺が廃寺となった時に、前方部に薬師堂を設けて薬師如来像を移したのかもしれません。

地図で鎮座地を確認

神社名浅間神社
鎮座地愛知県安城市姫小川町姫四十番地
最寄駅名古屋鉄道西尾線「桜井駅」徒歩12分

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