「和志取古墳/紹介記事」の南東に位置する場所に鎮座する「和志取神社」の紹介となります。五十狭城入彦皇子の陵墓と治定された「和志取古墳」と五十狭城入彦皇子を祭神としている「和志取神社」・・・古くから一体で祭祀が行われてきたんだと思います。
神社紹介
神社名 | 和志取神社 |
鎮座地 | 愛知県岡崎市西本郷町観立四番地 |
御祭神 | 五十狭城入彦命、気入彦命 |
旧社格 | 県社 |
創 建 | 不詳 |
神名帳 | 延喜式:碧海郡六座和志取神社(論社) 三河国:正五位下 鷲取天神 坐 碧海郡 |
境内社 | 御鍬社・天王社・稲荷社・神宮社・社口社 |
例祭日 | 十月十二日 |
御朱印 | ー |
H P | ー |
参拝日:2020年7月16日
御由緒
創建年代は不詳ですが、元々は「蝉神社」、「瀬部明神」、「本郷大明神」と称しており、明治になり「長谷部神社」と改称したといいます。明治七年に神祇院より延喜式内社「和志取神社」に治定され、社名を「和志取神社」と改称しますが、同じく式内社和志取神社を称していた現在の安城市柿崎町に鎮座する「和志取神社」より異議があり、明治八年、式内社比定が取り消され、社名を「長谷部神社」に戻されています。しかし西本郷町の住民からの要請もあり式内未定社として「和志取神社」への改称が許され社名を改称して現在に至っています。
結局、延喜式式内社「和志取神社」を比定されること無く、今でも、岡崎市西本郷町と安城市柿崎町に和志取神社が鎮座している状況になっています。
※長谷部神社を式内社和志取神社と比定された時、柿崎町に鎮座している和志取神社は社名を改称するように指示があったそうです。
昭和二十一年一月十日、県社昇格内規を満たし県社に該当すると認めると神祇院から愛知県へ内翰があったとされています。之を持って県社に列した事になるのかどうかがよくわからないのですが、しかし、平成二十一年二月二日付でGHQより国家神道の廃止が行われ旧社格制度も併せて廃止されています。
それに先立つ昭和二十年十二月二十五日にGHQより神道指令が発令され、国家が神社を管理する為の機関である「神祇院」が廃止される事になっている訳で、そんなごたごたの中、わざわざ社格を昇格させるような通達を出す神祇院も中々のつわものの様な気がします。
社伝に、長谷部神社又本郷大明社とも称す。継体天皇即位の年に始めて祀るという。「旧事記」に五十狭城入彦命は継体天皇の皇子で三河の長谷部直の祖なり。皇子の墓は和志山に治定あり御立という。皇子裔孫三河に栄え、御使連、御使朝臣、長谷部直に別れた。正保五年(1648年)の検地帳に御立とのる。幾多の検証により「延喜式神名帳」碧海郡六座の内、和志取神社と昭和二十一年一月十日を持って当神社由緒顕著にして従来の県社昇格内規に徹して県社に該当するものと認む。と神祇院考証課長鳥羽正雄より内翰があった。之より前大正三年十二月二十八日郷社に列格し、内務省官人岸上安敬も延喜式内社なり認められた。
愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」より
歴史探訪
和志取神社の北西には、前回紹介した、宮内庁より「五十狭城入彦皇子の陵墓」であると治定された「和志取古墳/紹介記事」があります。その「五十狭城入彦皇子」を御祭神しているのが今回紹介している岡崎市西本郷町に鎮座する「和志取神社」になります。「和志取古墳」の記事の中でも紹介しているのですが、江戸時代までは古墳のすぐ東隣にある「芙蓉山蓮華寺」が江戸時代まで境内の一部として墳丘上に薬師堂などが建立されていたようです。
そして和志取古墳近くに鷲取権現を祭神としていた「天王社」の祠が鎮座していたとされ、この天王社を和志取神社へ改称する前の「長谷部神社」の境内に遷座させたといいます。この鷲取権現は「気入彦命」であるとし、気入彦命は五十狭城入彦皇子と同一視されるという事から、長谷部神社に合祀するように愛知県から御沙汰があった様です。その為か、同一視しているといいつつ、五十狭城入彦命と気入彦命の両柱が御祭神として現在でも祀られています。
宮内省や愛知県では、当時延喜式内社「和志取神社」は鷲取権現が最有力であると見ていた感じがします。ただ、明治政府により神仏分離令や一村一社制などの神社を取り巻く環境が大きく変わっていく中、私的に祀られていたり、街角などで祀られいた神社や祠は破却されており、鷲取権現を祭神とする天王社も破却対象であったそうです。歴史的な観点から破却を免れる為、長谷部神社の境内社として遷座させたそうです。
参拝記
愛知県道47号線「安城街道」を安城方面から東に向かっていくと、岡崎市と安城市の市境を超えたあたりから県道左手に鎮守の森が見えてきます。「東本郷交差点」手前(西側)にある歩道橋の所の路地を北に進むと、今回参拝する「和志取神社」の境内入口が見えてきます。境内に駐車場がないので、神社とは道を挟んで反対側に建っている大日堂に車を停めさせて頂くのがいいのかなと思います。
境内入口
社号標と由緒板が据えられてる境内入口になっています。境内脇に市道が敷設された為、和志取神社の境内の形が簡単に言えば三角形の様な形になっている為、境内入口は非常に狭い感じがしますね。
社号標
式内未定社となっているはずなのですが、新しく据えられた社号標には思いっきり「式内社」と彫られていますね。実際、神祇院が解体されてしまい後継となる神社本庁では式内社の比定する事はまずないかと思うので、よほど大きな発見が無い限りは、論社は論社のままなんでしょうね。
参道
境内入口から真っ直ぐ参道が伸びていて、その先に鳥居が据えられているのがわかります。
鳥居
石造の両部鳥居になります。よく見ると、鳥居の柱は転びがついていますが、左右それぞれに設けられた支柱には転びがついていないんですね。この辺はあまり気にしてみたことがなかったのですが、確かに支柱迄転びがついていたら、何のための支柱だとなりそうですね。
祓戸
基壇の上に瑞垣を設けた様式の祓戸になります。垣内に植えられた榊がかなり大きくなってきた為か、基壇や瑞垣が変形しはじめています。
手水舎・水盤
木造銅葺四本柱タイプの手水舎になります。柱が太い物を使用しているので、視覚的にも安定感のある手水舎になっていると思います。
狛犬
大正八年生まれの狛犬一対です。タテガミ?の造形がだいぶ立派になってくる頃の狛犬ですね。
社殿
入母屋造瓦葺平入の拝殿を有する社殿になります。何時ごろ造営された拝殿なのかは不明ですが、比較的低床化された造りになっています。これが更に進むと、近年建直しされる拝殿でよく見かける床というより土間化された拝殿になっていきます。
大日堂
江戸時代までは、ここ和志取神社の境内に大日如来像が奉安される大日堂があったといいます。明治期になり神仏分離が行われ、大日堂に奉安されていた仏像は市道を挟んだ東側に移されたそうです。そして、上記写真の宝形型の御堂らしき建物がその大日堂だった建物だと思われます。現在は倉庫として使われている様ですが、中をよく見ると須弥壇が設けられているのが確認できるので、ここに仏像が奉安されていたのは間違いないかと思います。
和志取神社の東隣にあるこちらの建物が現在大日如来像が奉安されている大日堂になるようです。寺格はないようで、地元の方達が維持管理されているようです。大日如来像とどうやら一緒に奉安されている観音像は岡崎市の指定文化財となっているようです。
境内社
神宮社と社口社は参道途中に鎮座し、御鍬社と稲荷社は境内向かって右手奥に鎮座しています。
稲荷社は小高い丘の上に鎮座しているのですが、この丘がどうやら「宮地古墳」と呼ばれる直径10m程の円墳だそうです。
宝物庫跡
本殿の裏側には小高く土が盛られた場所があります。元々この墳丘上には宝形造の屋根をもつ宝物庫が建っていましたが、現在では壊されて「宝物庫跡」と彫られた石碑が設置されています。
地図で鎮座地を確認
神社名 | 和志取神社 |
鎮座地 | 愛知県岡崎市西本郷町御立四番地 |
最寄駅 | 名鉄バス岡崎安城線「本郷バス停」徒歩4分 |
ご自宅にお札は祀られていますか?
実家には神棚はあっても、今お住いの所には神棚がない方も多いかと思います。神棚には、日本の氏神である"天照大御神"とご自身がお住いの氏神様のお札を掲げると御神徳が宿るとされています。
賃貸住宅などに住まわれて簡単に神棚を掲げられないという方もお勧めなのが、
南向き、もしくは東向きになる様に、そして目線の高さより上になる様に、棚などの上において頂くとよいかと思います。是非、皆様もご自宅に神棚をご用意いただき、御札を納めてほしいなと思います。