古墳巡り 岡崎市

和志取古墳(愛知県岡崎市西本郷町) 五十狭城入彦皇子陵墓

2020年8月9日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

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和志取古墳の概要

史跡名和志取古墳
所在地愛知県岡崎市西本郷町和志山地内
形状前方後円墳
規模全長60-80m(推定)、高さ5m
指定・種別昭和十六年(1941年)
宮内庁治定「五十狭城入彦皇子墓」

訪問日:2020年8月5日

和志取古墳の沿革

 和志取古墳は、出土された埴輪などから四世紀~五世紀に作られたと考えられています。また古墳の形状は「前方後円墳」となっています。三河土着の豪族たちの古墳は円墳又は方墳が主流であり、特に権力を握っていたとされる者の古墳の形状は前方後方墳であるとされています。前方後円墳は大和朝廷の息がかかった人物の古墳であるとされ、土着の豪族の古墳と大和朝廷側の人物の古墳が存在しているのでは?と考えれている様です。この考え方からいくと、和志取古墳は前方後円墳であり、大和朝廷所縁の人物の古墳であると言えますね。

 明治二十八年(1895年)、当時の宮内省(現:宮内庁)により、碧海郡本郷村にある「和志取古墳(大正五年発刊の碧海郡誌では「鷲取卿墓」と記載」が「陵墓伝説地(被葬候補者:気入彦命)」に治定されます。
 それまでは、元々は現在の東大友町又は西大友町にあったがこの和志取古墳の東隣に遷座してきたとも言われている「芙蓉山蓮華寺」がこの和志取古墳も境内としていたのか、古墳の丘陵上に薬師堂や石塔が建てられていたそうですが、明治二十九年(1896年)撤去されています。
 そして昭和十六年(1941年)、宮内省より「五十狭城入彦皇子墓」としての治定を受け、宮内省(現在は宮内庁)の管理下に置かれる事になります。その為、本格的な発掘調査などは行う事が出来ず、学術調査による埋葬者が誰なのかは不明となっています。

 旧事記(古事記ではないですよ。)によると、「五十狭城入彦皇子は応神天皇の勅命により、三河の地の逆臣、君主に背く者の討伐をしこの地を治めた。」と書かれています。この内容から、三河の有力氏族であり三河国造とも言われた「長谷部氏」の祖が「五十狭城入彦皇子」なのではないか?とする説があり、「和志取古墳(五十狭城入彦皇子陵墓)」と桜井古墳群の「二子古墳/紹介記事」などとは特徴がよく似ている事から、桜井周辺まで長谷部氏が支配していたのではないかと考えられているようです。
 そして、「桜井神社/紹介記事」が創建当初から古墳の丘陵上に遷座を繰り返していた事から桜井神社は、碧海郡桜井周辺を支配するようになった「長谷部氏」が建立されたのでは?とする説もあるようです。

歴史探訪

 和志取古墳は宮内庁より「五十狭城入彦皇子陵墓」として治定されている事は既に述べています。では、この「五十狭城入彦皇子」とは一体どんな人物なんでしょうか。

 五十狭城入彦皇子は日本書記に登場し、第十二代「景行天皇」と後皇后である「八坂入媛命」の間に生まれた七男六女の十番目に生まれた皇子となります。因みに、この十三兄弟の長子が第十三代「成務天皇」になります。また、異母兄には、日本武尊がいたりします。

五十狭城入彦皇子をめぐる系図

前皇后)播磨稲日大郎姫    
    ├───────┬大碓皇子(猿投神社祭神)
第十二代景行天皇    └小碓尊(日本武尊)─第十四代仲哀天皇
    ├───────┬第十三代成務天皇
後皇后)八坂入媛命   ├五百城入彦皇子
            ├忍之別皇子
            ├稚倭根子皇子
            ├大酢別皇子
            ├渟熨斗皇女(渟熨斗姫命)
            ├渟名城皇女
            ├五百城入姫皇女
            ├麛依姫皇女
            ├五十狭城入彦皇子
            ├吉備兄彦皇子
            ├高城入姫皇女
            └弟姫皇女

 五十狭城入彦皇子の同母兄に「五百城入彦皇子」という人物がいます。実は、上記で紹介した旧事記の逸話では、「気入彦命」と書かれており、この気入彦命は記紀に登場しない名前であることから、五百城入彦皇子、五十狭城入彦皇子のどちらかではないかと言われています。
 宮内庁が和志取古墳が五十狭城入彦皇子陵墓と治定したという事から、旧事記で登場する「気入彦命」は五十狭城入彦皇子と同一人物という説のが強いのかな?と思います。

訪問記

 結構細い道が入り組んでいる場所に今回訪問する「和志取古墳」があります。また、駐車場が無い為、邪魔にならない場所に車を停めて訪問する必要があるので、古墳東隣に建っている「芙蓉山蓮華寺」を参拝した上で和志取古墳に徒歩で向かった方がよろしいかと思います。

なんか、斜めになってしまっていますが、和志取古墳へ通じる石段になっています。この辺りから、今まで紹介してきた古墳とは雰囲気が違っていますね。

石段を登った先は、瑞垣が設けられていてその先に鳥居が据えられています。ここに立つと和志取古墳というより「五十狭城入彦皇子陵墓」といった雰囲気です。宮内庁が管理している古墳(陵墓)は基本こういった様式になっているだと思います。

 奈良や大阪には宮内庁管轄の天皇家の陵墓などが数多く存在していますが、愛知県では何ヶ所存在しているんでしょうか・・・。西三河の歴史を彩る「五十狭城入彦皇子陵墓」を是非訪れてみて下さい。

地図で所在地を確認

古墳名和志取古墳(五十狭城入彦皇子陵墓)
所在地愛知県岡崎市西本郷町和志山地内
最寄駅名古屋鉄道名古屋本線「宇頭駅」徒歩10分

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