ONE POINT
名古屋市天白区野並の東海通沿いに鎮座する日本武尊を主祭神とする八劔社の紹介です。伝承では熱田神宮の大宮司を歴代務めていた「千秋氏」がこの周辺を所領としていた事から、千秋氏所縁の神社になるそうです。
神社情報
神社名 | 八劔社 |
鎮座地 | 愛知県名古屋市天白区野並三丁目二三九番地(Googlemap) |
例大祭 | 十月十七日 |
創 建 | 不詳 |
御祭神 | 日本武尊 伊弉諾尊 伊弉冉尊 天照大御神 月読尊 蛭児尊 素盞嗚尊 宮簀媛命 建稲種命 |
旧社格 | 村社 |
神名帳 | ー |
境内社
境内社 | 山神社 田神社 神明社 秋葉社 次ノ上神明社 招魂社 詳細不明境内社一社 役行者堂 |
文化財
国 宝 | ○ |
国指定 | ○ |
県指定 | ○ |
市指定 町指定 村指定 | ○ |
参拝情報
御朱印 | ○ |
URL | https://www.nonamihakkensha.jp/ |
駐車場 | ○ |
参拝日 | 2022年4月6日 |
御由緒
この八劔社が鎮座する野並周辺は戦国時代以前から「千秋氏」が治めていた地であると伝えられています。この千秋氏は藤原南家の子孫であり熱田神宮の大宮司を歴代務めてきた一族となります。
熱田神宮の大宮司家は?
元々熱田神宮の大宮司はその所縁から尾張国造の末裔とする「尾張氏」が務めていたが、平安時代になり尾張国司の目代となった藤原南家の藤原季兼が尾張員職の娘「尾張職子」との間に藤原季範を設けた。永久二年(1114年)、熱田神宮大宮司であった尾張員職は霊夢の宣託として、藤原季範に大宮司職を譲っている。これ以降、熱田神宮大宮司職は藤原季範の子孫が歴代務め、尾張氏は権宮司となっていく。
藤原季範の娘のひとりは由良御前と呼ばれ、源義朝の正室となり、鎌倉幕府初代将軍となった「源頼朝」を産んでいる。この事から、藤原季範の一族は源氏に非常に影響力を持つ一族となっていきます。
その後、熱田神宮大宮司を務める藤原氏は、藤原憲朝の代の時、三河国設楽郡千秋を本貫とし、「千秋氏」と改称し現在まで続いております。令和四年現在、熱田神宮の宮司は千秋氏の末裔の方になっており、明治維新により全国の神社は国家管理となり江戸時代までの社家は建前上一掃されたのですが、国家神道が解体され、徐々に社家が復活してきている感じがします。長い年月をかけて築き上げてきた物を一時の支配者の都合で変化させても徐々に元に戻っていくということですかね。
平安時代から戦国時代へと時代が変遷していく中、藤原家の末裔という事もあり熱田神宮周辺以外にも領地を持ち京に居を構えていた千秋氏だったが、徐々にその所領を減らしていき戦国時代にはついに京を離れて所領が残った尾張国に移り住んだという。尾張国に移り住んだ千秋氏は熱田神宮の大宮司を務めながらも尾張国の国人衆の一つとして徐々に尾張国内で勢力を伸ばしてきた織田信秀に仕えていく事になります。その中で織田信秀に従軍していく中で当主が討ち死にしてしまい、その後、織田信長と今川義元が激突した「桶狭間の戦い」においても、織田信長が今川軍に突撃する前哨となる戦いでその時の当主であった「千秋季忠」が討ち死にしてしまいます。織田信長より、「これ以降千秋氏は熱田神宮の大宮司を務めるべし。」の沙汰があり国人衆から熱田神宮の大宮司家(社家)となっていきます。
たぶん、現在の感覚では中々理解する事が出来ないのですが、この野並周辺は大宮司家である千秋氏の所領が広がっており、熱田神宮の影響を非常に受けていた場所なのではないかと思います。それを示す様に、野並の地には「千秋家の墓所」があり、歴代当主の墓石が並んでいます。(江戸時代には神道の墓石を建てる事は禁止されていた為、明治時代になり整備されたようです。)
創建縁由は明らかではない。古くより古鳴海の八劔社として崇敬あつく、明治五年七月二十八日、村社に列格する。大正元年十二月五日、境内神社の内、六所神社と熱田社を合祀した。
愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」
御祭神
- 日本武尊
- 伊弉諾尊
- 伊弉冉尊
- 天照大御神
- 月読尊
- 蛭児尊
- 素盞嗚尊
- 宮簀媛命
- 建稲種命
大正元年に六所神社と熱田社を合祀した為、御祭神は九柱となっています。
主祭神は「日本武尊」になります。
今でこそ熱田神社とその別宮である八劔社の御祭神は「熱田大神」となっていますが、その昔はその由緒から「日本武尊」を主祭神としていた時代があり、たぶんその時代に勧請された為、主祭神が「日本武尊」となっていたのでしょう。
そこに同じ主祭神としていたはずの「熱田社」が合祀され、その配祀神として日本武尊と縁のある「宮簀媛命、建稲種命」も御祭神となったのでしょう。
名古屋市内に鎮座する六所神社の御祭神の大半が「伊弉諾尊、伊弉冉尊、天照大御神、月読尊、蛭児尊、素盞嗚尊」の六柱を御祭神としており、八劔社に合祀された六所神社も同じ六柱の御祭神だったようです。伊弉諾尊と伊弉冉尊、そしてその二神から生まれた、三貴神である天照大御神、月読尊、素盞嗚尊、そして二神の間に最初に生まれたが蛭子である事で萱で作った船で流したという蛭児尊の六柱を御祭神とする六所神社が名古屋市内に何社か鎮座しているのは、何らかの共通の由緒があるのかもしれませんね。
御朱印帳の保管に
数年前より非常に集める方が増えた「御朱印」ですが、皆様は御朱印帳はどうやって保管していますか?神社・仏閣を廻って御朱印を受けているとあっという間に御朱印帳の冊数が増えていきますが、そのまま棚などに置いている方が多いのでは?。せっかくお受けした御朱印ですので、日本では古くから着物を始めとして大切なものを保管する為に使われていた「桐箱」に入れて保管した方がよろしいかと思います。
ぜひ、皆様も桐箱に御朱印帳を保管されてみたらいかがですか?
参拝記
地下鉄桜通線が道路下を走っている「東海通」沿いに鎮座する八劔社になります。都会の神社や寺院ではありがちですが、参拝者用の駐車場が用意されていない様ですので、車などで参拝に向かう際は周囲のコインパーキングに車を停めて参拝する形になります。
境内入口
東海通沿いにある八劔社の境内入口になります。通りに対して社殿が鎮座する境内とは高低差が思いのほかあるようで、境内入口から石段が続いています。
こちらの境内入口には社号標、石灯籠一対、神明鳥居が据えられています。
境内入口から左右を望むと、中央分離帯のある片側二車線のかなり交通量の多い「東海通」が境内前を東西に横切っているのですが、周囲は雑居ビルが立ち並ぶ地域でまさに八劔社の社業の杜はまさに都会の緑のオアシスって感じです。
じつは東海通から一本奥に入った路地沿いもう一つの境内入口が設けられています。こちら側から境内に車を駐車できそうな雰囲気をこのアングルから見れば感じるかと思うのですが、この境内入口が面している路地が問題で、「歩行者専用道路(系車両を除く)」となっているのです。この道路に面して住んでいる方は通行許可証を得ていてこの路地を車で走る事が出来るかと思いますが、参拝に向かう場合、通行許可証が発行される事はないかと思うので、進入しない様に注意してください。
地下鉄桜通線の野並駅の出入口の脇から伸びる路地から上記写真の八劔社境内入口に向かう事が出来るのですが、道路脇に歩行者専用道路の標識が建てられています。道路の形状だけを見てると間違えて進入してしまいそうですが、何度も言いますが歩行者専用ですので進入しない様に注意してくださいね。
二の鳥居
木造銅板葺変則二本柱タイプの手水舎になります。基礎石部分が腰壁みたいな造りとなっていて、片側三本の柱が設けられています。変則二本柱タイプとしましたが、屋根の造りや大きさをみると、二本柱タイプと四本柱タイプのハイブリッドって感じがします。
社殿
切妻造瓦葺妻入に切妻破風の向拝が設けられた拝殿を有する尾張造の社殿になります。
祭文殿が設けられていないので純粋?な尾張造とは呼べないのかもしれませんね。ただ、名古屋市内の神社を参拝していると、ここ八劔社の社殿の様に、拝殿ー(渡殿)ー本殿という造り(渡殿はない神社もあります。)となっている神社が多い事が解ってくるかと思います。そして、それらの神社の多くは拝殿と本殿の間に瑞垣が設けられています。
ここ八劔社の社殿は、渡殿が設けらられている部分から本殿にかけて基壇が設けられています。さらに拝殿部分は造営する際にこの基壇に高さを合わせる様に基壇が設けられてた様で、社殿全体が境内より一段高くなるような造りになっています。
境内社
元々はそれぞれ別々の社が鎮座していたのですが、五社相殿に造営された境内社になります。
御朱印帳
ここ八劔社ではオリジナルの御朱印帳が用意されています。表紙には日本武尊の肖像画?が印刷されていますね。
鎮座地を神社で確認
神社名 | 八劔社 |
鎮座地 | 愛知県名古屋市天白区野並三丁目二三九番地(Googlemap) |
最寄駅 | 電車:名古屋市営地下鉄 桜通線「野並駅」徒歩2分 バス: |
ご自宅にお札は祀られていますか?
実家には神棚はあっても、今お住いの所には神棚がない方も多いかと思います。神棚には、日本の氏神である"天照大御神"とご自身がお住いの氏神様のお札を掲げると御神徳が宿るとされています。
賃貸住宅などに住まわれて簡単に神棚を掲げられないという方もお勧めなのが、
南向き、もしくは東向きになる様に、そして目線の高さより上になる様に、棚などの上において頂くとよいかと思います。是非、皆様もご自宅に神棚をご用意いただき、御札を納めてほしいなと思います。