神社紹介
神社名 | 白山神社 |
鎮座地 | 愛知県岡崎市康生町三四五番地一 |
御祭神 | 白山姫命、新田義重 |
旧社格 | 神饌幣帛料供進指定村社 |
創 建 | 永禄九年(1566年) |
神名帳 | ー |
境内社 | 秋葉社 |
例祭日 | 十月第三日曜日 |
御朱印 | ー |
H P | ー |
参拝日:2021年1月13日
御由緒
白山神社を建立したとされる永禄九年(1566年)に、三河国をほぼ統一した松平家康は「三河守」の叙任を受ける為に朝廷への工作を行い、「従五位下三河守」を任官しています。そしてこの前後に「徳川」へ改姓をしており、「徳川家康」と称しています。
徳川という姓の源流は源氏ー新田氏ー世良田氏の中で登場してくる「得川」から取られたというのはよく知られている話です。松平氏は源氏の流れをくむ世良田氏の末裔であると自称しており、源氏の傍流としています。
家康としては、「新田氏支流世良田氏末裔」であるいう事を既成事実とする為に、岡崎城内に新田氏所縁の地である上総国新田荘より白山神を勧請、社殿を建立し祀ったと思います。
しかし、実際徳川家康が三河守を任官し時は、源氏の末裔という血統ではなく、藤原氏の血統であると朝廷に申請し、従五位下三河守に叙任されています。これは当初は世良田氏の末裔で叙任申請していたが「新田氏支流世良田氏がこれまでに三河守を任官した事がない。」という理由で拒否され、急遽藤原氏の末裔として再び叙任申請を行ったと言われています。松平氏初代「松平親氏」が婿入りした「在原氏」が藤原氏の流れを組む一族だった事から藤原氏の末裔であるとしたのでしょう。
藤原氏の末裔であるして官位を得た徳川家康がいつ頃再び源氏の末裔を自称する様になったのかはよくわかりませんが、少なくとも三河地方の弱小領主から脱してある程度領地を広げ、朝廷も強く言えなくなった頃に再び源氏末裔を自称するようになったのだろうとは思います。「征夷大将軍を任官するには源氏の末裔である必要があるから家系図を書き換えた」という話も聞いた記憶があるので、藤原氏末裔から源氏末裔に切り替えたのは案外関ヶ原の戦いの後なのかもしれませんね。
元々白山信仰は修験道から生まれた信仰であり、神社色よりも仏教色が強かったといえるかと思います。江戸時代までの神仏習合時代の白山信仰の総本山は「白山寺白山本宮」は明治政府により強制的に「白山比咩神社」に改組、白山寺は廃寺とされ、一気に仏教色を排除し神社化された歴史を持っています。
この事を考慮すると、家康が白山権現を勧請した当初は、白山社と共に建立されたという「大雲山極楽寺」の鎮守社といった位置付けだった可能性もあるのかなと思います。極楽寺の開山「慶安周賀」がその後岡崎城内より極楽寺を現在の境内地に移設しますが、この時白山社は極楽寺の旧境内地に残したと伝えられています。江戸時代を通じて白山社は極楽寺が別当を勤めている事からも極楽寺と白山社の関係の強さを窺う知る事ができます。
明治政府による神仏分離令により、白山社は極楽寺の別当から離れ、御祭神を白山権現から菊理姫命に変え神社化して現在に至っています。
「参河国聞書」によれば、永禄9年(1566)に、家康公が厄除開運祈願と祈祷のために、源氏である新田氏ゆかりの地「上野国新田」(現・群馬県新田郡)から勧請したと伝えられています。元は岡崎城内白山曲輪にあって、代々の城主の産土神として崇敬されていました。
「おかまいり 新田白山神社紹介」より
家康公が25歳の厄除祈願の時、石鳥居(自然石鳥居)をくぐったところ、かかっていた疱瘡が完治しことから、毎年6月30日の夏越の神事では厄除祈願の茅輪くぐりとともに石鳥居くぐりが行われるようになりました。家康公ゆかりの厄除祈願と立志開運の神社として信仰を集めています。
永禄九寅年(1566年)六月十六日、上総国新田郷より徳川家康が新田白山権現を勧請し創建する。新田白山宮と称して社領五石を寄進し、岡崎城主が城内の守護神として代々社殿を修築し明治に到る。明治五年十月十二日村社に列し、同四十年十月二十六日神饌幣帛料供進指定を受けた。
愛知県神社庁発刊「愛知県神社名鑑」より
参拝記
岡崎三十六地蔵霊場二十七番札所「龍城地蔵堂/紹介記事」から伊賀川沿いに70m程南に進むと、堤防から西にかるく下り坂の非常に細い路地が繋がっていてその先に今回参拝する白山神社の境内入口にぶつかる様な形になっています。この辺りは戦後の開発で区画整理されているとおもうので元々白山神社の参道だったのかどうかはよくわかりません。(古地図を見てると、どうも元々の参道は境内地から南に向かって伸びていた様です。ただ、明治になって伊賀川の付け替え工事の際にこの辺りの地勢は大きく変わっているのでこの時参道がきりかわったのかもしれません。)
参道入口
路地を下っていくとそのまま白山神社の境内地に進むことが出来ます。道路的にはT字交差点となっていて丁度ぶつかる処に境内入口ある感じです。
比較的狭い感じの境内入口になっていますが、社号標、石鳥居、そして「徳川家康公御氏神」と彫られた石碑が据えられています。
手水舎
木造銅板葺四本柱タイプの手水舎になります。個人的にはバランスがとれている手水舎だなと思いますが。
狛犬
昭和三年生まれの擬宝珠がついている狛犬一対です。
白山神社にはもう一対、狛犬がいて、こちらは昭和十一年生まれの狛犬一対になります、
社殿
石造基壇上に建つ入母屋造瓦葺平入の拝殿を有する社殿になります。
境内社
狛犬が据えられた入母屋造妻入りの祠の秋葉神社になります。
この秋葉神社の横に見えている巨木は岡崎市天然記念物に指定されている大楠になります。この大楠の根元には。。。
石をくり抜いて作られた鳥居が据えられています。この鳥居、なにやら徳川家康が疱瘡にかかったときにくぐり祈願すると治癒したと伝えられているそうです。
西観社
西国三十三観音霊場のうち二十三ヶ所の札所本尊の御分霊を合祀している西国二十三ヶ所観世音菩薩が奉安しているという観音堂になります。脇に据えられている説明板をみると宝暦十年の年号が見える辺り、江戸時代に造られた観音像のようです。という事は戦後、この辺りに据えられていた観音堂を白山神社の境内に移したのかもしれませんね。
境内地を地図で確認
神社名 | 白山神社 |
鎮座地 | 愛知県岡崎市康生町三四五番地一 |
最寄駅 | 名鉄バス「龍城橋西バス停」徒歩3分 |
ご自宅にお札は祀られていますか?
実家には神棚はあっても、今お住いの所には神棚がない方も多いかと思います。神棚には、日本の氏神である"天照大御神"とご自身がお住いの氏神様のお札を掲げると御神徳が宿るとされています。
賃貸住宅などに住まわれて簡単に神棚を掲げられないという方もお勧めなのが、
南向き、もしくは東向きになる様に、そして目線の高さより上になる様に、棚などの上において頂くとよいかと思います。是非、皆様もご自宅に神棚をご用意いただき、御札を納めてほしいなと思います。
徳川家康は白山権現を厚く信仰していたようで、三河三白山とも呼ばれる「白山神社/紹介記事」「白山媛神社/紹介記事」「桜井神社/紹介記事」も庇護していますね。