湯殿跡とは?
「ここに一ふりの太刀ありせばかかる遅れはとらぬものを」
"源義朝"が"長田忠致"によって法山寺の湯殿にて入浴中に謀殺された時に言い残した言葉だと言われています。
時は宝治元年十二月二十七日、京にて清盛軍に敗れてしまった義朝は、東国を目指して東海道を下っていきます。平清盛の義朝追討令により、東海道沿いは義朝包囲網がひかれており、このまま陸路では危ないという事で、義朝は美濃国より川を下りそのまま海路で野間の地にたどり着きます。
この野間を治めていたのが、義朝の家臣である"鎌田政清"の妻の親(舅)である"長田忠致"になります。この時、まさに年の瀬である十二月三十日か三十一日と言われています。
前述しましたが、義朝追討令は当然長田氏の元にも届いていたと考えられ、忠致は息子の"景致"と協議したと言われています。「娘婿の主である義朝を助けるか。」または「ここで義朝を討ち、清盛に首を届けることで恩賞に授かるか。」
ここで長田氏親子が出した結論は・・・・・
宝治二年一月三日、長田忠致は義朝に法山寺にある湯殿での入浴を勧めます。義朝は政清と別れ、一人湯殿にて入浴をしていたと言われています。(入浴と言っても、当時の風呂は現代のお風呂の様なものではなく、どちらかというとサウナの様なものだったとされています。)そして、入浴の為裸になっていた義朝は長田氏の家臣によって抵抗むなしく討たれてしまいます。この時の事を「平治物語」には「政清は候はぬか。金王丸はなきか。義朝ただ今うたるるぞ」と叫んだ書かれています。
義頼は湯殿で憤死してしまいましたが、家臣たちはどうしたのか。
鎌田政清は、酒を盛られた上で長田景致の騙し討ちにより殺されたとされます。そして、湯殿にて義朝が殺されたという情報を聞いた"渋谷金王丸"や"鷲栖玄光"らが湯殿に向かっていると現在の「乱橋」辺りで長田氏の家臣と遭遇し乱戦になったと伝えられています。
源義朝を討った長田親子は義朝の首を平清盛の元に届けます。
義頼を討った恩賞として、忠致は「壱岐守」に、景致は「左衛門尉」に任ぜられるのですが、この恩賞に不服だった長田氏は「最低でも尾張守もしくは美濃守に任ぜられるべきである。」と申し立てた為、清盛の怒りを買い、恩賞ははく奪された上で更に処罰を受けそうになったため、野間に逃げ帰ったとされています。これには、当時、「相伝の主と現在の婿を討つという行為は汚らわしい物」とされていたが、朝敵としていた義朝を討ったことで特別に恩賞を授けたのに、不服を申し立てられたという平氏の考えがあったと言われています。
その後、義朝の息子である「源頼朝」が挙兵すると、長田親子は頼朝の元に加わり、軍功を建てていきますが、建久元年に頼朝が父親が眠る大御堂寺にて法要を営んだ際、大御堂寺からほど近い場所で磔にされ処刑されたと言われています。
知多四国霊場を行く
知多四国霊場五十五番札所「曇華山 法山寺」のすぐ東側に湯殿跡があります。最初訪れた時は、法山寺の境内に湯殿跡があるのかな?と思っていたのですが、境内ではなく、法山寺をぐるっと回り込んだ東側に湯殿跡がありました。
訪問記
湯殿跡
知多四国霊場五十五番札所「曇華山 法山寺」からほど近い場所に湯殿跡があります。ほど近いというか、現在でも法山寺の境内になるそうなんですが。
実際、法山寺の境内である事を示す様に・・・
知多四国霊場札所と湯殿跡の案内が彫られた石柱が据えられています。ただ、元々ここに建てられていた訳ではなさそうで、他の場所から移動してきたのかなと思われるのですが。
湯殿跡といっても何か遺構が残っているわけではないようです。
写真左手には池の様な物が設けられています。これが湯殿跡?と見えてしまいますが、ここ一体を整備した時に作られた物の様な気がするんですけどねえ・・・。
源義朝像・・・もう少し顔つきなんとかならなかったのかなあ~。
すっごい釣り目ですな・・・。
乱橋
県道と法山寺の間には、義朝の家臣と長田氏の家臣が戦ったとされる乱橋跡の案内板があります。現在では周囲は田園風景が広がっていて橋があった面影は残っていませんが、源氏の棟梁が殺されたとあって、義朝の家臣はさぞ無念だった事でしょう。この乱橋での乱戦がどうなったのかは不明です。
次の目的地は?
偶然野間の町中で「南無大師遍照金剛」の幟を見かけたので、知多新四国霊場ではないですが、「喬正院」を参拝します。