城郭情報
城名 | 安祥城 |
所在地 | 愛知県安城市安城町赤塚、城堀地内 |
築城年 | 伝:永享年間(1429-41年)か? |
築城主 | 伝:和田遠江守親平 |
城形式 | 平山城 |
遺構 | 曲輪、土塁、櫓跡、堀 |
規模 | 200m×120m |
備考 | 安城市指定史跡 |
訪問日:2020年6月23日
沿革・詳細
今回訪問する「安祥城」は、伝承では永享年間(1429-41年)に「和田遠江守新平」が築城したとつたられる城郭ですが、歴史の舞台に登場するのは、松平宗家三代「松平信光」が和田氏が守る安祥城を一説には計略を用いて無血にて落城させてからとなります。岩津城を本城とする松平家から見たら安祥城は矢作川の対岸に位置し、碧海郡にひろがっていた「志貴荘」の支配の拠点となる城とも言えます。そんな安祥城の城主として松平信光の三男「松平親忠」が命じられます。この安祥城を本城とし後に「徳川家康」を輩出する家系を「安祥松平家」をいい、十八松平家の一つに名を連ねています。
安祥城は、安祥松平初代「親忠」の代から四代「清康」の代まで安祥松平家の本城として使用されています。(清康の代になり、大草(岡崎)松平家が治めていた「岡崎」に岡崎城を改築し移っています。) 清康が岡崎城に移った後は、叔祖父にあたる「松平長家」に安祥城主を任せていたようです。
松平家惣領の立場にあった「安祥松平家」の本城から支城なった事で歴史の表舞台から消えるかと思いきや、むしろ逆で「森山崩れ」にて松平清康が死亡すると、松平家は内部抗争も合わさって急激のその勢力を失っていきます。そして、これが尾張の勝幡城、那古野城など、現在の名古屋市辺りを基盤としていた「織田信秀」の三河侵攻に繋がり、安祥城は織田家と松平家の勢力争いの最前線の城となっていきます。
まず、前述したように森山崩れにて清康が死亡すると、一説には僅か七日後には織田信秀が進軍し井田野周辺に布陣したとも言われています。しかしこの時は松平勢が撃退した様です。その後、織田家と通じていた「桜井城/紹介記事」主松平信定が岡崎城にいた清康嫡男「松平広忠」を放逐し岡崎城を占拠し、一時的ですが惣領のあった間は、織田家による三河侵攻は行われていないようです。しかしその後、今川家の後援を得た松平広忠が再び三河国に入国すると信定は岡崎城から自らの居城である桜井城に移り、信定の松平家支配の野望はついえる事になります。(その後も、信定またはその子孫の桜井松平家は松平惣領に幾度となく反旗を翻しますが、悉く鎮圧され、最後は三河一向一揆の時に家康側に敗れた後は惣領家に恭順するようになっていきます。)
しかし、信定が岡崎城を去り、松平家全体が今川側に与するようになると、再び織田信秀による三河侵攻が再開されます。
・天文九年(1540年)六月六日・・・安祥城落城、城主松平長家討ち死に
この時、安祥城の落城の危機に駆け付けた東条(青野)松平家の松平家忠が討ち死にした場所に「東条塚」が築かれたとされていますが、松平家忠は東条松平家三代にその名を見る事ができますが、生まれた年は弘治二年(1556年)とされおり、年代が合わないので、東条松平ではない松平家忠の事ではないのかなと思います。
安祥城を手に入れた織田信秀は長子である「織田信広」を城主として入城させ、さらに安祥城の北東に位置する場所に「山崎城」を築き、松平広忠と敵対する事になった三ツ木城主だった松平信孝を織田家陣営に加え、山崎城主として据えています。この一連の織田家の三河侵攻には前述の様に元々織田信秀との血縁関係であった桜井松平氏も織田家側になっており、織田親忠以降、安祥松平家が築いてきた矢作川右岸側の松平家の領地はほぼ失ってしまった状況になってしまいました。
天文十三年(1544年)、安祥松平家二代「松平長親」が隠居先の大樹寺にて死去。
天文十四年(1545年)、同盟を結んでいた「水野信元」が織田家と同盟を結んだ為、松平広忠は正室「於大の方」と離縁する。そして、この年、織田信秀が美濃攻めを行い敗退したという報を受けた松平勢は安祥城を奪還する為に出陣しますが、織田側の援軍もあり敗退、広忠も危うい場面もあったが、本多忠豊が広忠の馬印を持って戦い、広忠を逃がすも討ち死にしたといいます。(討ち死にしたという場所に「本多忠豊の碑」が建立されています。)
この頃の松平家は非常に苦境に立たされており、織田勢は矢作川の渡河に成功していたようで「上和田砦」を築いており、この砦を岡崎制圧の橋頭保としていた様です。さらに岡崎市岡町や大平町にも砦を築き、岡崎城の孤立化と今川家への連絡網の遮断を進めています。(こういった状況であるため、一説には織田家は岡崎城を落城させ、和議の条件として竹千代(後の徳川家康)を人質として差し出すよう要求した。と言います。)広忠も反撃に出て、上野上村城を攻め落とすなど今川家の援軍を得ながらなんとか松平家内部の意思統一を図りつつ織田家との戦いを行っていましたが、天文十八年(1549年)三月六日、松平広忠死去。(長らく暗殺説が唱えられていましたが、近年では病死とする説がかなり有力とみられているようです。)
広忠が死去してしまう事で非常に難しい立場に置かれてしまうのが「今川家」となります。松平広忠率いる松平勢を前衛とすることで西三河の支配下を進めてきた訳ですが、当主である松平広忠が死去し、その跡継ぎである「竹千代(後の徳川家康)」は織田信秀の人質として尾張国にいる状況となり、今川方としては松平領に駐屯する大義を失い、織田方とすれば竹千代を利用して松平領に進出する事ができる訳です。
今川家当主「今川義元」は三河の地を失いかねない状況を打破する為に、即座に行動に移します。まずは軍勢を派兵し岡崎城を接取し、三月十九日には安祥城に攻め込んだと言います。この時は尾張国から「平手政秀」の軍勢が援軍として送られ、安祥城の主郭まで攻め込んだものの落城までは行かなかったようです。しかし、九月になり太原雪斎を総大将とする今川軍が再び安祥城に総攻撃を行い、安祥城主だった「織田信広」を生け捕りにすることに成功します。太原雪斎は再び援軍として送られていた「平手政秀」との間で停戦協議を行い、①安祥城を明け渡す。②捕らえた織田信広を尾張国に返す代わりに、人質となっている「竹千代(後の徳川家康)」を今川方に引き渡す。という条件にて和議が成立し、人質交換は尾張国笠寺にある「天林山笠覆寺/紹介記事」にて行われています。
今川方の城となった安祥城には城代として今川家武将「天野景貫」、「井伊直盛」が入城し、今川義元が永禄三年(1560年)桶狭間の戦いで討死するまで今川家の支配が続いていたとされます。しかし、徳川家康が今川家から独立し永禄五年(1562年)織田家との間で清須同盟が結ばれると、対織田家の前線砦としての意味合いが強くなっていた「安祥城」はその存在意義を失い廃城となったとされます。
安祥城を巡る年表
永享年間(1429-41年) | 和田遠江守親平により築城 |
文明三年(1471年)前後 | 松平信光、安祥城を計略により奪取する。 「右京亮親忠」を安祥城主とし「安祥松平家」が起こる |
文明五年(1473年) | 松平親忠嫡子「松平長親」生誕 |
長享二年(1488年) | 松平宗家三代「松平信光」死去 |
明応二年(1493年) | 第二次井田野合戦 |
延徳元年(1489年) | 親忠、安祥城の鬼門除けとして「了雲院」を創建 |
延徳二年(1490年) | 松平長親嫡子「松平信忠」生誕 |
明応五年(1496年) | 親忠隠居し、家督を次男「松平長親」に譲る |
文亀元年(1501年) | 親忠死去 戒名「松安院殿太胤西忠大居士」 |
文亀三年(1503年) | 長親隠居し、家督を嫡子「松平信忠」に譲る |
永正三年(1506年)又は 永正六年(1509年) | 第三次井田野合戦 今川氏親、伊勢新九郎を総大将として井田野に布陣 (この時、岩津城は落城し松平宗家は滅亡か?) |
永正八年(1511年) | 松平信忠嫡子「松平清康」生誕 |
大永三年(1523年) | 信忠隠居し、家督を嫡子「松平清康」に譲る |
大永四年(1524年)又は 大永六年(1526年) | 清康、岡崎松平家「西郷信貞」を屈服させ、岡崎城を奪取する。 |
大永六年(1526年) | 松平清康嫡子「松平広忠」生誕 |
大永六年~八年 | 松平清康、安祥松平家の本城を「岡崎城」に移す。 安祥城主として「松平家長」入城 |
享禄四年(1531年) | 信忠死去 戒名「安栖院殿泰考祐泉」 |
天文四年(1535年) | 森山崩れにより「松平清康」討死 戒名「善徳院殿年叟道甫大居士」 |
天文六年(1537年) | 清康嫡男「広忠」が岡崎城に入城し家督を継ぐ。 |
天文九年(1540年) | 織田信秀、安祥城を攻め落とし、「織田信広」を城主とする。 |
天文十一年(1542年) | 第一次小豆坂合戦 松平広忠嫡子「徳川家康」生誕 |
天文十三年(1544年) | 長親死去 戒名「悼舟院殿一閑道閲」 |
天文十四年(1545年) | 水野信元が松平家との同盟を破棄し織田家と同盟を結ぶ。 松平広忠、安祥城に攻め込むが敗退。本多忠豊討死 |
天文十七年(1548年) | 第二次小豆坂合戦 |
天文十八年(1549年) | 広忠死去 戒名「応政道幹大居士」 今川義元、安祥城を攻め落とし、織田信広を生け捕りする。 人質交換が行われ、竹千代(徳川家康)が今川家への人質となる。 |
永禄三年(1560年) | 桶狭間の戦いで「今川義元」討死 安祥城は今川家から独立した徳川家康が奪取する。 |
永禄五年(1562年) | 清州同盟が結ばれ、安祥城は廃城となる。 |
寛政四年(1792年) | 了雲院、安祥城本丸跡に移転し、「安祥山大乗寺」として中興開山 |
歴史探訪
図らずも松平家の惣領の地位につくことになった「安祥松平家」の本城とも言うべき「安祥城」を訪れます。安祥城自体は永禄五年(1562年)ごろには廃城となったとされ、450年以上が経過し、遺構も周囲が開発されている事もありさほど残っていないのが現状です。
本丸とされる曲輪跡は現在浄土宗の「安祥山大乗寺」の境内となっていて、二の丸とされる曲輪跡は「八幡社」の境内となっています。そしてその周囲は安祥城址公園として整備され、安城市歴史博物館・安城市民ギャラリーなどが建っています。
安城市では安祥城周辺の散策MAPを用意しており、由緒でも書いていますが、安祥城を巡る戦いの爪痕を見て回る事が出来ます。MAPは安城市歴史博物館に用意されているので、安祥城を散策する前に歴史博物館に立ち寄っては如何でしょうか。
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訪問記
県道78号安城幸田線の歴史博物館前交差点の所に今回の目的地である「安祥城跡」があります。現在は、本丸跡、二の丸跡を中心として安祥城址公園として整備されていて、交差点名にもあるように、安城歴史博物館が建てられるなど安城の歴史学習の中心となっています。
上記の航空写真は昭和50年(1975年)に撮影された安祥城址周辺のものです。この写真を見る限り、本丸、二の丸跡に鎮座する大乗寺、八幡社以外は田園の様に見えますね。この当時に安祥城巡りをしても碑はあっても安祥城の全体像が分かりにくかったでしょうね。
本丸跡に建つという大乗寺の境内脇に愛知県が建てた「安祥城址」の石碑があります。
本丸跡
周囲と比べると本丸跡はかなり高くなっています。元々堀址とされる場所から本丸方面を見るとより一層高く見えます。大乗寺の楼門が城門の様に見えてきますね。
この楼門の脇に
安城市教育委員会による安祥城の説明板が設置されています。安祥城の歴史だけでなく、松平家の系図、安祥城の縄張りが書かれて非常に分かりやすい説明板だと思います。
「諸国古城之図」に書かれている安祥城の縄張りになっています。この絵図をみると八幡宮の建つ場所は縄張りから外れている事がわかりますね。安祥城の縄張り図には二種類あって、八幡社が鎮座する場所を縄張りに加えるか加えないかに分かれる様です。
安城市の見解では、本丸の南側に堀を挟んで二の丸とする場所があったとしています。その跡地に現在八幡社が鎮座しています。上記の説明板によると、一度は廃城となった安祥城ですが、徳川家康が豊臣秀吉と激突した「小牧・長久手の戦い」の際に安祥城を復城させさらに改修したといいます。もしかしたら、この改修の際に二の丸を設けたのかもしれませんね。
二の丸跡
二の丸跡に鎮座する八幡社になります。境内が一段高くなっていて神社の造営工事によって石垣造となっています。
上記写真の右側の森が本丸跡、左側の森が二の丸跡となります。この本丸と二の丸の間は障子堀といういくつかの堀が複合された曲輪だったようです。
善恵坊の碑
天正十三年(1544年)に起こった安祥城攻防戦において一人で敵陣に突入し奮戦した法師善恵坊を供養した碑だといいます。
姫塚
安祥城攻防戦において亡くなった女性を弔うために築かれた塚と言われています。
地図で所在地を確認
城郭名 | 安祥城 |
所在地 | 愛知県安城市安城町赤塚、城堀地内 |
最寄駅 | あんくるバス1号安祥線「歴史博物館バス停」徒歩すぐ |