日出神社(名古屋市中区大須)

神社紹介

神社名日出神社
鎮座地愛知県名古屋市中区大須二丁目三番十七番地
御祭神軻具突知命、天照大御神、月夜見尊、宗像三前大神、猿田彦命、稚日女命
旧社格村社
創 建不詳
神名帳
境内社
例祭日十月十五日
御朱印
H P

参拝日:2019年12月11日

御由緒

 「日出神社」は、明治四十二年に現在の神社名に改称しており、それ以前の神社名は「愛宕社」としていました。愛宕社は、元々「清州」に鎮座(春日井郡清州朝日村)していた神社で、慶長十六年(1611年)の「清州越し」によって現在の地に遷座した神社になります。江戸時代までの祭神は「愛宕大権現」を祀り、明治政府による神仏分離令により、祭神を「軻具突知命」としています。

 「愛宕大権現」は愛宕山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神号であると言われ、「本地仏を地蔵菩薩」とし、「垂迹神を伊邪那美(イザナミ)」としています。愛宕本山は「愛宕山白雲寺」であり、勧請に応じて愛宕大権現を分祀し、全国の愛宕社で祀られていました。明治政府による神仏分離令が発令されると全国の愛宕社の大半は神社への組織変更を選択し、祭神を「軻具突知命」として存続しています。 そして、本山とされていた「白雲寺」は廃寺となっています。

 前述していますが、元々は清州の朝日村に鎮座し、別当として「地蔵院」が社務を執行していた様です。時代が流れ、地蔵院が廃寺となってしまったのかは不明ですが、愛宕社、地蔵院跡を修験者である「大圓坊良清」が松平忠吉より受領し、愛宕社の別当となります。慶長十五年「清州越し」により愛宕社と共に現在の地に移動しています。その後、元和二年 (1616年)に「良濟」が後を継ぎ、寛永十六年(1639年)には尾張藩主徳川義直より修験の林蔵坊が別途を勤めていたが不祥事が継き追放された「浅間社(現在の富士浅間神社)と屋敷」を拝領しています。この時の浅間社の別当寺は「宝寿院」と称していた様です。愛宕社と浅間社の両社の別当は兼任できないという事なのか、「良濟」は浅間社の別当「宝寿院良濟」として、修験道当山派と本山派の両派を統括する寺院となっていきます。寛文六年(1666年)に宝寿院は「清寿院」と改名しています。(この清寿院については、「富士浅間社」の記事を参照してください。)

 愛宕社の別当は、良濟の舎弟である「大圓坊良深」が継ぐことになります。大圓坊はその後、「大乗院」と寺号を改称して明治維新を迎えていますが、廃仏毀釈、神仏分離令などの他に修験道の禁止を命じた明治政府により、愛宕社と大乗院の関係は終了され、大乗院は廃寺となってします。

愛知県神社庁が発刊している「愛知県神社名鑑」によると、

 元清州町朝日に鎮座愛宕大権現と称し、慶長十六年(1611年)清州越えの際今の社地に遷座。
 明治五年に村社に列格し、同四十二年社殿を修造と共に境内神社の宗像社、白髭社香良洲社と日出町三十八番の村社神明社(朝日天道社と称し清州町朝日に鎮座のところ慶長遷府に際し移る)を合祀合併し、同年九月九日、日出神社と改称した。昭和二十年三月空襲で被災、同三十四年九月本殿を、同四十五年拝殿を造営復興した。

 と書かれていて、別当寺である大乗院については全く述べられていませんね。

江戸時代の愛宕社、大乗院の様子

 江戸時代には、大乗院の境内にて相撲が行われていたようで、尾張名所図会にも土俵が描かれています。境内の山の様なものが描かれていますが、この頂に祀られているのが愛宕社でしょうか。

ちなみに、現在でも清須市朝日愛宕の地に「愛宕社」が鎮座しています。こちらの愛宕社の社務も大乗院が別当として執り行ってきたのでしょうかね。

名古屋二十一大師霊場を行く-寄り道遍-

 「久野山清安寺」の参拝を終え、旧日出町の鎮守社である「日出神社」に参拝していこうと思います。日出神社に改称する前の愛宕社が清州に鎮座していた場所が「朝日」と呼ばれる場所でした。この清州朝日という場所は、名古屋二十一大師二番札所である「稲園山長福寺(七寺)」があった清州時代に建っていた場所でもあります。で、長福寺が清州越しによって現在の地に移動すると、その跡地に薬師如来を本尊としたに「真福寺」を建立しています。

 Googleマップなどで清須市朝日という地名があるあたりを見ていると、確かに「真福寺」という寺院があります。「西春日井郡誌」によると、稲園山長福寺の末寺で、薬師如来を本尊とするとありました。なるほど、ここが長福寺(七寺)があった場所なのかと納得していると、その真福寺の境内の裏手「愛宕神社」が鎮座しているのき気が付きました。まさかと思い、この愛宕神社も「西春日井郡誌」で調べてみると・・・。愛宕神社の境内地には「大乗院」という修験堂があったが、清州越しによってこの地に大智院が建立され「愛宕大権現」が勧請されたと書かれています。
 「あれ、少し思っていたのと違うな」・・・。
 てっきり、愛宕社と別当である大乗院が名古屋に移る際、愛宕大権現を分祀して、清州の地に愛宕社をこの地に残したと思ったんですが・・・。愛宕社の跡地に再び愛宕大権現を勧請するとは・・。

 清州越しでは、神社寺院が三社百十寺が移動されたとされています。そう思うと清州城下は寺院が多かったんだなとわかりますね。

参拝記

 若宮大通に面している場所に日出神社は鎮座しています。テレビ愛知の近くと言った方が分かりやすいのか、もしくは、若宮通の反対車線側は、名古屋市科学館、名古屋市美術館がある「白河公園」になっていると伝えた方が分かりやすいのか・・・。

境内入口

 日出神社の境内入口は二カ所設けられていて、こちらが社殿正面側の入口になります。社号標、幟立石&ポール、狛犬、瑞垣が据えられていて、近年由緒書きもこちらに据えられたようです。

こちらが、若宮大通側の境内入口になります。社号標、鳥居、瑞垣が据えられています。社殿配置から考えるとこちら側は通用口に近いのかなと思われます。

社号標

旧社格が彫られた社号標になります。実は、神社名改称前の愛宕社と合祀した神明社の社号標が境内にあるのですが、後ほど紹介いたします。

狛犬

 生年月を調べ忘れてしまいましたが、なんとも素朴な感じがする狛犬一対になります。時代が下るにつれ、どんどんゴテゴテになっていくのは仕方ない事なんでしょうかね。

手水舎・水盤

木造銅葺四本柱タイプの手水舎になります。柱の間隔が狭いわりに太い柱が使われているので、どっしりとした感じがします。

社殿

 社殿全体瑞垣で囲み、正面側の門の手前に二の鳥居が据えられています。その鳥居の前には、覆い屋根が設けられた御賽銭箱が据えられています。まるで遥拝所の様な感じがしますね。

 社殿全体が小高い丘の上に鎮座しています。
 実は、日出神社の社殿は「日出神社古墳」と名付けられている円墳、もしくは前方後円墳の円墳部分に鎮座しているそうなんです。ここ日出神社古墳を含めて大須エリアには「大須古墳群」と呼ばれ、現在でも数か所古墳が確認する事が出来ます。
 神社が鎮座していうこともあり、学術調査が行われておらず、詳細は不明ですが、周囲からの出土品から5世紀ごろの古墳だとされている様です。

この社殿を囲む瑞垣に設けられた鉄製の神門がありますが、その門柱を注目して頂きたいのです。

向かって左側に「村社愛宕神社」向かって右側に「村社神明社」の社号標が据えられています。神社の変遷も分かる、なかなか粋な社号標の活用方法ですね。

参拝を終えて

 「国威宣揚」と彫られた掲揚塔の立石になります。
 昭和十年代に日本全国にこの「国威宣揚」と彫られた様々な石造物が据えられています。ある意味戦争遺跡ともいえるこの石造物なのですが、やはり、戦後75年ともなると、その数はかなり減ってきている様です。昭和十五年の皇紀二千六百年の頃が一番作られたんじゃないかなあ。

 ちなみに、令和二年の今年は、皇紀二千六百八十年です。

 国威宣揚という言葉は戦争に結び付くものではないのですが、どうしても戦前の国家体制を今の感覚で見てしまうと、ある種のプロパガンダであると思われても仕方ない事なのかなと。この国威宣揚という言葉は、明治三年、明治天皇が臣下国民に対して述べられた「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」の中からとられています。是非この「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」を読んでみてください。当時の西欧諸国との力の差をまざまざと見せつけられ、危機感を感じている天皇を始めとする国家首脳陣の焦りがみえてきます。

鎮座地を地図で確認

神社名日出神社
鎮座地愛知県名古屋市中区大須二丁目三番地十七
最寄駅名古屋市営地下鉄 鶴舞線「大須観音駅」二番出口徒歩七分

次の目的地は?

 当然、私としては、清州時代の鎮座地が判明分かったので、清州市朝日愛宕に鎮座する「愛宕神社」を参拝していきたい所なのですが、岡崎から清州は遠いです・・・。清州越しで移動させられた三社百十寺を調べて、愛宕神社や長福寺の様に、元々の境内地が分かれば、清州城に遠征したい所ですね。

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