三河観音三十三ヶ所 岡崎三十六地蔵 岡崎市 岡崎西国観音

佛現山善徳院隨念寺(愛知県岡崎市門前町) 三河観音霊場二番札所、岡崎三十六地蔵六番札所

2021年10月9日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

寺院情報

寺院名佛現山善徳院隨念寺
所在地愛知県岡崎市門前町91-1
御本尊阿弥陀如来坐像
宗 派浄土宗
創 建永禄五年(1562年)
札 所三河観音霊場 二番札所
岡崎西国観音 六番札所
岡崎三十六地蔵 六番札所
法然三河霊場 三番札所
御朱印
H P

参拝日:2020年3月18日
再拝日:2020年11月15日

沿革・由緒

 当サイトでは以前より松平清康の「森山(守山)崩れ」について色々と取り上げてきました。この守山崩れにより不慮の死を迎える事になった「松平清康」の遺骸を森山の地から織田軍の追撃を搔い潜り岡崎の丸山の地まで運び、この地で荼毘に付したと紹介してきていました。この丸山の荼毘所に、桶狭間の戦いの後今川家より独立を果たした「徳川家康」が祖父「松平清康」の菩提を弔うために建立した寺院が佛現山隨念寺になります。

 昭和四年発刊の岡崎市史によると、

開山は大樹寺十五世黁譽魯聞上人にして、永禄五年(1562年)七月徳川家康の創立である。始め家康の祖父清康、尾州を略せんとして軍を出し、天文五年(1536年)十二月五日、同国森山の陣中に変死した。年僅かに二十五。岡崎の軍士悄々として軍を引き、密に其遺骸を此地(菅生丸山)に荼毘し、遺骨を埋めて墓を建てた。善徳院殿墓碑即ち是である。
諸国御菩提所覚書には、善徳院殿年叟道甫大居士世良田二郎三郎清康公天文四乙未十二月五日尾州森山にて御逝去。當寺に御火葬爲し奉り、御遺骨を大樹寺に収め奉る。當寺にも御骨を分ち奉りぬと記している。

昭和四年発刊岡崎市史より

と記されていて、隨念寺が建つ地は菅生丸山と呼ばれていた場所で、清康の遺骸を荼毘に付し、埋葬して墓を建立した場所であると書かれています。

 そして、永禄四年には松平清康の妹「久子」が岡崎城内にて没し、遺言により兄清康が埋葬されている菅生丸山にて荼毘に付し、清康の墓所の隣に埋葬したと伝えています。法名を隨念院殿とした。

 久子が没すると、最初に帰したように大樹寺十五世黁譽魯聞を開山として、清康並びに久子の菩提を弔うために寺院を建立した。寺号は清康と久子の法名にちなんで「佛現山善徳院隨念寺」と号した。

 隨念寺の絵図になります。本堂の裏手にある一段高くなっている所に、松平清康・久子の墓所がすえられています。隨念寺は岡崎空襲の戦災から逃れる事ができていて、岡崎市の中心に立つ寺院の中で以前からの建造物が残っている数少ない寺院の一つになっていて、今の隨念寺の伽藍配置とこの絵図の伽藍配置が非常に似通っている事に参拝していると気が付くかと思います。

 山門は江戸幕府二代将軍「徳川秀忠」が元和五年(1620年)に寄進したものが現存しているそうです。

霊場を行く

 おかまいり岡崎三十六地蔵霊場スタンプラリー五番札所である「春谷寺」の参拝を終え、再び大門通り(どうやら三河別院以西は石屋町通りと呼ぶみたいです。)を西に向かって歩を進めていくと、岡崎市門前町に入ります。この門前町という地名は隨念寺の門前に広がった町(門前町)から名付けられた町名のようですね。大門通り(石屋通り)を横切る様に南北に「門前通り」が走り、この通りの北側の突き当りが今回参拝する「佛現山善徳院隨念寺」の境内入口となっています。

 この記事を書いている時点でスタンプラリーに使うスタンプ台などが設置されているのかは不明ですが、現在でも「おかまいり」の公式サイトが稼働している(H3.4.29現在)ので、まだスタンプラリーは実施されているのかも?。巡ってみたいと思った方は、まだスタンプラリーがやっているかどうかを岡崎市観光協会に問い合わせる事をお勧めします。

浄土宗のスタンプは赤地に白抜き!

参拝記

 石屋通りと門前通りの交差点(以前だと辻と呼んでいたのかな?)から北を望むと、門前通りの突き当りになる場所に隨念寺の山門がたっているのが見えます。

境内入口

 門前通りを隨念寺方面に進んできました。
 山門脇、そしてその先の参道脇に続く白塗りの土塀が非常に目を引きます。太平洋戦争の岡崎空襲によりこうした白い土塀も多大な被害を受けていて、隨念寺の土塀が残ったのもある意味奇跡的なんだなと思わざるを得ないほど戦災を受けた寺院では白い土塀も消失してしまっていたりします。

 江戸時代からの眺めを今に残す徳川家庇護の寺院であると言えます。

山門

 薬医門による山門になります。
 前述していますが、元和五年(1620年)の造営工事に際して二代将軍「徳川秀忠」より寄進されたという山門になります。この山門のすぐ前まで岡崎空襲を起因とする火災が迫ったそうです。

寺号標

 山号である「佛現山」、院号である「善徳院」を合わせて彫られた隨念寺の社号標になります。

 山門からその先に建つ楼門を望みます。
 この眺めは歴代の岡崎藩主も見ていた風景になるんですかね。

楼門

 石段を登った先に建てられている一間一戸鐘楼門になります。立っている場所が石段を登り切ってすぐの場所に建っている為、石段を登るとき、鐘楼門を見上げる形になるのですが、その存在感は非常に大きく、横の石垣と白い土塀もあって圧迫感を感じます。

手水舎

 木造瓦葺支柱がある四本柱タイプの手水舎になります。手水舎の形状も非常に変わっていて、水道の蛇口が設置されたまるで手洗い場の様な造りとなっています。

 隨念寺の手水舎の視覚から得る「安心感」は今まで紹介してきた手水舎の中でも有数な造りになっています。支柱のあるなしでここまで自分の中で安心感が変わってくるだなと改めて写真をみて思った次第です。

本堂

 入母屋造瓦葺平入の向拝と高覧のある濡れ縁が設けられた本堂になります。この本堂も元和五年(1620年)の大造営工事に際して再建されたそうです。となると築四〇〇年という事になるんですかね。

 おかまいり岡崎三十六地蔵スタンプラリーのスタンプ入れは本堂の正面濡れ縁に設置されています。テーブルが用意されていて非常にスタンプが押しやすく助かります。

庫裏

 明治政府による神仏分離令、そしてその余波ともいえる「廃仏毀釈」の流れの中、徳川家所縁の寺院という事もあり廃寺になる可能性があった為、庫裏と書院を当時の額田県に提供する事で廃寺を逃れたとも言われています。この庫裏と書院は岡崎市初期の学校教育で使用されたといい、その後隨念寺が買い戻したそうです。

清康・久子墓所

 本堂の奥に中々急な造りの石段と石垣が築かれた高台があり、石段を登った先に門と塀が築かれたなにやら意味深げな場所があります。

 門の先には更に石垣と石段が築かれ門と塀で囲まれた場所がありました。この場所に松平清康と久子の墓石が建っているようです。そして一段下がった場所には墓石の形状から見て歴代住職の墓石が並んでいます。

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やはり、旅先の情報はネット検索もいいですが、るるぶなどの旅行ガイド雑誌が一番ではないかなと思います。ネット情報はどうしてもディープになりがちで、いざ旅行に行こうと思っても、俯瞰的な情報が不足しがちな気がします。
やっぱり、"るるぶ"を見ながら、旅の予定表を作っていくのも、旅行の醍醐味ですよね。

所在地を地図で確認

寺院名佛現山善徳院隨念寺
所在地愛知県岡崎市門前町91-1
最寄駅名鉄バス「天馬バス停」徒歩5分

寺院・霊場巡りの際のバイブルに

元々、当サイトは神社巡りを通じて、皆様の住んでいる所にある"村の鎮守の神様"と呼ばれる神社を紹介してくサイトを目指していたんです。むしろ寺院については、縁遠いものとおもっていたんですよね。しかし、ちょっとした御縁で弘法大師霊場に出会い、そして愛知県では一番活動が盛んな"知多四国霊場"を巡礼、結願する事になりました。でも、神社の事はある程度知識があっても、寺院については未知の世界だったので、少しでも巡礼の時に役に立てばと思い、こちらの本を読ませて頂いております。

少しでも巡礼の時にお役に立てる事もあるかと思います。是非一度読んでみてくださいませ。

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