神社情報
神社名 | 赤日子神社 |
鎮座地 | 愛知県蒲郡市神ノ郷町森五十八番地 |
御祭神 | 彦火火出見尊、豊玉彦命、豊玉姫命 |
旧社格 | 懸社 |
創 建 | 不明 |
神名帳 | 「延喜式神名帳」宝飯郡六座の内、赤日子神社 |
境内社 | 稲荷社、八幡社、金刀比羅社、高松神社、山御堂神社、社口神社、聖山神社、養蚕祖神碑 |
例祭日 | 十月第一日曜日 |
御朱印 | - |
H P | - |
参拝日:2018年9月11日
追記:2018年11月22日
御由緒
總國風土記参河國寶飯赤孫郷赤日子 神社圭田三十束三毛田
天智天皇甲戌九月始奉圭田加神禮有神家巫戸等 (一千二百六十七年前)
延喜式神名帳ニ参河國寶飯郡六座並小赤日子神社
文徳実録ニ仁壽元年冬十月乙巳授参河國赤孫神社 従五位下(一千〇七十六年前)
三代実録ニ清和天皇貞観七年十二月二十六日癸酉授三河國 従五位下赤孫神従五位上(一千〇六十二年前)
國内神名帳ニ正二位赤孫大明神式内座寶飯郡
早クヨリ朝廷ノ御崇敬厚ク國司領主地頭等尊敬モ 厚ク寄進状十数通アリ
明治五年郷社ニ列セラル
明治十二年七月改メテ十有五ヶ村(三谷 牧山 五井 平田 小江 府相 新井形 竹谷 鹿島 拾石 西迫 柏原 清田 水竹 坂本)ノ郷社トシテ崇敬セラレタリ
往昔當社ヨリ年々伊勢大御神ノ神衣ヲ織奉ル 赤引ノ絲ノ調物ヲ奉献リシニヨリ其名著シ
當社ハ雨乞ニ霊験顕著ナリトテ伊勢ノ多度神社ト 併称セラレ又養蠶ノ守護神トシテ其名高シ
明治四十年十月神饌幣帛料供進指定神社ニ 列セラレタリ
大正五年三月十四日縣社ニ昇格ス
昭和七年一月久邇宮邦英王殿下ヨリ神社號御染筆ノ 額御賜進アラセラル
境内「御由緒書標」より
創建は明らかではないが、「日本総国風土記」によると天智天皇の御代の天智天皇甲戌(674年)に、宝飯郡赤日子郷赤日子神社より寄進があったと記載されています。
また、延喜式神名帳に記載されており、参拝記で紹介しますが社号標に社名と共に"式内"と彫られています。
式内社とは?
延喜式の巻九、巻十に記載れた神名帳に記載されていた神社の事を式内社と呼びます。
律令制度では「律・令・格・式」で運用されていました。
律=刑法
令=行政法
格=追加法令
式=施行細則
根本となる律令が制定され、行政上必要な追加法令や細則を定めたのが格式と言います。
ここで出てくる延喜式とは、延喜五年(905年)に編纂を始め、延長五年(927年)制定された五十巻からなる格式となります。ちなみに、五十巻中巻一から巻十までの十巻には、神社についての事が記されています。
いかに、古代日本では神社という物が国の行政にも大きな影響を与えていたのか分かりますね。
歴史探訪
上ノ郷城主、鵜殿氏の菩提寺だった「久古山 正行院」を後にし、再び上ノ郷城方面に戻り、鵜殿氏の祈願所だったという赤日子神社を目指します。
場所的にも、上ノ郷城に並び立つ形で、東南の方向に鎮座しています。
地図にはランドマークが表示されていませんが、赤日子神社の北西側の丸い等高線が上ノ郷城址になります。
参拝記
以前紹介した"上ノ郷城址"に訪問するために、駐車場をお借りした赤日子神社を紹介します。
戦前に制定されていた社格制度では懸社に列格しており、蒲郡市でも有数の歴史、規模を持つ神社である事がわかります。実際、由緒を見ても、天智天皇の御代には神社があったことが判明しており、少なくとも1350年近くの歴史があるわけです。神社の成り立ちを考えると、奥の院と言われている聖山山頂にあり通称"お皿様"と呼ばれている磐座周辺が神が坐する場所として祀られていたはずです。
実際に、
「霊峰聖山に坐して伊勢三河遠州灘を守り海上安全航海守護と為し給ひ」
と明治政府が全国の神社の由緒を取りまとめた「神社明細帳」に記載されています。
この聖山山頂の磐座については、まだ参拝していないので、参拝した時に追記していきたいと思います。
2018年11月22日、聖山の磐座の記事をUPしました。
是非一度ご覧ください。
参道入口
赤日子神社の境内入口からまっすぐ南に延びる参道を突き当りまで約200mほど行った場所に、上記のような社号標、石灯篭、鳥居、幟立石が設けられた参道入口があります。
社号標
こちらは、大正五年に懸社昇格した後に作られた社号標になります。
非常にインパクトのある書体で彫られて、印象深い社号標の一つです。
そしてこちらが、郷社時代の社号標になります。
延喜式内、郷社、正二位赤日子神社とあります。
この正二位とは何を指すのか?
綿密に言うと、明治政府の社格制度が制定されそれ以前の官位等は廃棄されているはずなのですが、今でも昔の官位を用いている所はありますね。
一の鳥居
扁額のある明神鳥居がそびえ建っています。
写真を見てもかなり大きな鳥居であるのはわかっていただけると思います。
参道脇の祠
一の鳥居を潜り参道を進んでいくと、民家の軒先に上記のような祠が祀られていました。
詳細は不明ながら、非常に大切に祀られているのがわかる祠ですね。
境内入口
参道を進んでいくと、石灯篭が正面に据えられた特徴的な境内入口が現れます。
境内入口にも、石灯篭一対、社号標、鳥居が据えられています。
二の鳥居
二の鳥居は扁額のある台輪付き明神鳥居になります。
また、その脇にある社号標は、社格など彫られていないシンプルな様式です。
手水舎
四本柱タイプの木造瓦葺の手水舎になります。
手水舎、水盤共に他の神社に比べても大きい部類に入ると思います。
水盤には神紋が彫られていますね。
狛犬
生年月日を調べ忘れてしまいましたが、かなり凛々しい顔つきの狛犬一対です。
社殿
高覧付きの廻縁が設けられた入母屋造妻入り木造の拝殿になります。
通常だと横幅より奥行きのが長い?場合、妻入りとなり、短い場合は平入になるケースが多いのですが、この赤日子神社の拝殿が特徴的なのが、奥行きのが短いんですが、屋根は妻入り。
そのおかげなのか、非常に屋根自体が大きく設けられていて、重厚感のある拝殿になっていると思います。
東郷平八郎元帥によって書かれた扁額が掲げられています。
前述の様に、海運の安全を祈願していた神社なので、海軍元帥によって書かれたのかな。
境内社
社殿向かって左側に据えられている"三河養蚕祖神"です。
昔からこの地方では養蚕の伝統があるそうで、赤日子神社は養蚕の祖神をまつる代表的な神社なんだそう。
西尾市には綿の神である"新波陀神"を祀っている天竹神社があり、ここ赤日子神社は養蚕の祖神と、三河湾は風土的に綿や桑の栽培に適した場所だったんでしょうかね。
社殿向かって右側に鎮座する稲荷社と詳細不明な祠になります。
寄棟造の祠となるとなんとなく神道系ではなく、仏教系の祠な感じがしてしまいます。
さらにその脇には、護国神社が鎮座しています。
社殿むかって左側に鎮座する、金刀比羅社、八幡社、高松社、山御堂神社、社口神社の相殿になります。
この社殿に掲げられた扁額を見てもらうとわかって頂けると思いますが、弓道の射場がこの赤日子神社にはある様で、例祭なんかでの神事の際に的に的中した時に納める扁額数多く奉納されていますね。
こちらがその射場になります。
最近作り直されたらしく、非常に立派な射場ですね。
もしかしたら奉安殿?
社務所と境内社の相殿との間に建つレンガ造りの謎の建物。
神社には不釣り合いな建物で、どこからか移設されてきたものかもしれませんね。
これが戦前に建てられたとして、こういった耐火構造の小さな建物で想像するのが、"奉安殿"なんですよね・・・。戦後、GHQによって奉安殿は解体させられているので、戦後建てられた建物だったら奉安殿な訳ないのですが。
大日本帝国において、天皇と皇后の写真(御真影)と教育勅語を納めていた建物になります。
教育勅語が収められているという点からもわかる通り、小学校などの教育機関に作られていました。それが戦後GHQによって解体命令が下され、全国の奉安殿は廃棄されていますが、現在でも移築されたり、戦前の校舎を使っていたりして少数ながら現存しています。
鬼瓦・懸魚
鰭付きの蕪懸魚になります。五七桐の神紋がこれでもかと押されています。
参拝を終えて
上ノ郷城の東南側に位置する赤日子神社になります。
祭神からわかる通り、海神を祀っている神社になり、古代から三河湾の海運の安全を祈願してきた神社になります。現在では干拓などで海岸線から離れた内陸に鎮座していますが、その昔は海岸線に近い場所に鎮座していたんでしょうね。
次の目的地は
赤日子神社の参拝を終え、蒲郡市立蒲郡西部小学校のすぐ北側に鎮座している若宮神社を目指します。