城跡巡り

深溝城(額田郡幸田町深溝) 深溝松平氏本城

2018年7月5日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

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城郭詳細

城郭名深溝城
所在地愛知県額田郡幸田町深溝字丸ノ内
築城年正慶元年(1332年)
築城主大庭次郎左衛門朝泰
城形式丘城
遺構
規模不明

訪問日:2018年6月2日

沿革・詳細

 一説には鎌倉幕府を開幕した「源頼朝」の有力御家人だった「大場氏」の流れを汲む一族と言われる「大庭次郎左衛門朝泰」がこの地に正慶元年(1332年)に築城したのが深溝城したと伝えれています。そして、菩提寺として「長満寺」を建立しています。
 時は流れ、 寛正六年(1465年)に「額田郡一揆」と呼ばれる土豪による武力蜂起が起き、「井ノ口砦/紹介記事」を築き、域内の主要な道を封鎖して京都への租税等官物を奪うなどの狼藉を働いていたといいます。井ノ口砦は時の三河守護「細川成之」によって制圧されますが、なぜか首謀者全員が逃げ延びてしまいます。この額田郡一揆の首謀者の中に深溝城主「大庭次郎左衛門尉」の名も確認されています。井ノ口砦と松平家の本城である岩津城は目と鼻の先にあったにもかかわらず、松平家は一揆側の制圧に積極的に動こうとはしていなかったようで、「政所執事伊勢氏」からの書状が届いてやっと一揆側の制圧に動いたようです。
 大庭次郎左衛門尉は、松平信光勢によって討ち取られ、その弟は駿河国丸子にて駿河守護今川義忠によって討ち取られています

 松平家が深溝城を手に入れる時期は所説あり、寛正六年(1465年)額田郡一揆の鎮圧の論功行賞によって深溝城を手に入れたという説、永正二年(1505年)、大永三年(1524年)のいずれかに、武力によって制圧し手に入れたという説があります。
 深溝城、本光寺などの現地での案内板を見ていると、大永三年(1524年)に、五井松平家「松平忠景」次男「松平忠定」が深溝城を攻め落とし、その褒賞として深溝城を与えられ「深溝松平家」を起こしたとあります。
 深溝松平家四代目当主「松平家忠」の時に徳川家康の関東移封に伴い深溝の地から離れる事になります。関ケ原の合戦までの間、旧徳川領は豊臣家臣の武将達が納めているはずなのですが、その当時の史料がでてこないので、深溝城がどうなっていたのかは不明です。
 関ケ原の合戦後、再び深溝城主に深溝松平家が一万石の所領を得て戻ってきますが、その後加増され吉田藩に移封されます。その後一旦は天領となりますが、。寛永元年(1624年)、京都所司代を勤めた「板倉勝重」の次男「板倉重昌」が元々の所領に深溝の地を加増され一万五千石の大名として深溝藩を起こします。しかし、重昌の嫡子「板倉重矩」は藩庁を中島屋敷に移動させて再び深溝藩は廃藩となりますが、重矩は弟である「板倉重直」に深溝を含む五千石を分け、分家となる旗本板倉家が起きます。深溝城は深溝陣屋となり、板倉家知行所として明治維新まで続いています。

深溝の地勢を見ていると、東西から山が迫ってくるまさに溝のような場所になっているのがわかりますね。岡崎から蒲郡方面に陸路で抜けるにはここを通る必要がある為、まさに交通の要所であることがわかります。

訪問記

深溝城址に遺構は残っていないのですが、写真の様に"深溝城址"の石碑が建っています。

さまざまな城址紹介のHPでも深溝城は取り上げられていますが、入り組んだ場所に石碑が建っている為、注意深く進まないと見落としていまうかも。

現地に掲げられた案内板。
案内板も松平氏が大庭氏を破ったのは大永年間とされていますね。

深溝松平氏が深溝城を離れてからこの地を納めていたのは、深溝松平氏に仕えていた板倉氏になります。板倉好重は善明堤の戦いの際、松平好景と共に吉良氏の罠から脱出し中島砦を目指して敗走していましたが、主君"松平好景"討死後、敗軍をまとめて更に中島砦に向かいますが、砦まであとわずかな場所で吉良氏に追いつかれ討ち死にしてしまいます。

板倉好重の息子が京都所司代を務めた"板倉勝重"です。京都所司代として対豊臣の最前線を務め、大阪冬の陣の発端となった"方広寺鐘銘事件"では強硬策を上奏しています。朝廷の監視役をも務めた板倉宗家始祖になります。そして、勝重の次男"重昌"の家系が深溝に陣屋を構え明治維新まで続いていく事になります。

深溝陣屋に使われていた門が幸田町の民家に払い下げされ移設されているというのですが、2018.7.5現在いまいち場所が分からず訪問していないので、不明です。

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深溝城址の石碑から西側に進むと、兵九下という地名があり、その由来の案内板が建っていました。大庭氏を裏切り松平氏を城内に引き込んだことで深溝城が落城したのでしょう。それがこの辺りだったのかな?

この兵九下の案内板からは、大庭氏菩提寺の長満寺を望むことができます。

所在地を地図で確認

城郭名深溝城
所在地 愛知県額田郡幸田町深溝字丸ノ内
最寄駅JR東海 東海道本線「三ヶ根駅」徒歩8分

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