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深溝城(額田郡幸田町深溝) 深溝松平氏本城

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城郭詳細

城 名:深溝城
鎮座地:額田郡幸田町深溝字丸ノ内
築城年:正慶元年(1332年)
築城主:大庭氏
城形式:丘城
遺 構:なし
規 模:

訪問日:2018年6月2日

沿革・詳細

大庭次郎左衛門朝泰が正慶元年(1332年)に築城したのがこの深溝城と伝えられています。この大庭氏は大場氏とも言い、源義朝との間に主従関係を持っていた大庭氏の流れを汲む一族だと思われます。鎌倉幕府成立後、徐々に鎌倉での力を失った大庭氏は地方に流れていったとされています。そして朝泰がこの地にやってきて、深溝城を築城、大庭氏の菩提寺として”長満寺”を建立しました。

深溝の地勢を見ていると、東西から山が迫ってくるまさに溝のような場所になっているのがわかりますね。岡崎から蒲郡方面に陸路で抜けるにはここを通る必要がある為、まさに交通の要所であることがわかります。

1465年に発生したこの辺りの豪族が起こした”額田郡一揆”と呼ばれる騒動では、大庭氏は一揆が主要人物として登場してきます。が、最後は松平氏三代目当主である松平信光によって当時の当主であった次郎左衛門尉が討ち取られています。

この額田郡一揆の討伐の論功行賞で松平氏は複数の領地を得たとされており、深溝もその中に入っていたとされているのですが、深溝城を松平氏が落としたとされる年は寛正六年(1465年)、永正二年(1505年)、大永三年(1524年)と諸説存在します。

論功行賞で幕府から深溝の地を受領したが、深溝城の大庭氏は開城せず交戦を続けていたんでしょう。そして信光の息子である松平忠景を五井に配備。そして大永三年に忠景の息子”松平元心”、”松平忠定”兄弟が深溝城を攻め落とします。松平忠定が深溝城を受領し、深溝松平氏が始まります。

訪問記

深溝城址に遺構は残っていないのですが、写真の様に”深溝城址”の石碑が建っています。

さまざまな城址紹介のHPでも深溝城は取り上げられていますが、入り組んだ場所に石碑が建っている為、注意深く進まないと見落としていまうかも。

現地に掲げられた案内板。
案内板も松平氏が大庭氏を破ったのは大永年間とされていますね。

深溝松平氏が深溝城を離れてからこの地を納めていたのは、深溝松平氏に仕えていた板倉氏になります。板倉好重は善明堤の戦いの際、松平好景と共に吉良氏の罠から脱出し中島砦を目指して敗走していましたが、主君”松平好景”討死後、敗軍をまとめて更に中島砦に向かいますが、砦まであとわずかな場所で吉良氏に追いつかれ討ち死にしてしまいます。

板倉好重の息子が京都所司代を務めた”板倉勝重”です。京都所司代として対豊臣の最前線を務め、大阪冬の陣の発端となった”方広寺鐘銘事件”では強硬策を上奏しています。朝廷の監視役をも務めた板倉宗家始祖になります。そして、勝重の次男”重昌”の家系が深溝に陣屋を構え明治維新まで続いていく事になります。

深溝陣屋に使われていた門が幸田町の民家に払い下げされ移設されているというのですが、2018.7.5現在訪問していない為、不明です。


深溝城址の石碑から西側に進むと、兵九下という地名があり、その由来の案内板が建っていました。大庭氏を裏切り松平氏を城内に引き込んだことで深溝城が落城したのでしょう。それがこの辺りだったのかな?

この兵九下の案内板からは、大庭氏菩提寺の長満寺を望むことができます。

投稿者プロフィール

成瀬晃ドクターレザーおかざき 店主
愛知県岡崎市で「かばん・くつ✚革の病院ドクターレザーおかざき」を営んでいる成瀬と申します。
史跡、神社などを巡った事をなどをつぶやきつつ、お店のブログではつぶやけないような事も書いていこうかと思っています。

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