城跡巡り

饗庭城址(西尾市吉良町饗庭)

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

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城郭詳細

城 名:饗庭城
所在地:愛知県西尾市吉良町饗庭
築城年:不明
築城主:饗庭(石川)妙鶴丸
城形式:平山城
遺 構:-
規 模:ー

訪問日:2018年9月13日

沿革・詳細

別名「饗庭城ヶ峰古城」と呼ぶ。
加賀の石川妙鶴丸、永徳三年三月後小松院の勅宣によりて饗庭七郷を賜り、此に移りて饗庭妙鶴丸と称す。松平信光を滅さんととし、事洩れて文明七年自殺す。後松井左近将監、信光よりこの城を興へらる。

「幡豆郡横須賀村誌」より

後小松天皇(天授三年六月二十七日(1377年8月1日) - 永享五年十月二十日(1433年12月1日))
即位期間は、弘和二年四月十一日(1382年5月24日) -応永十九年八月二十九日( 1412年10月5日)の天皇です。南北朝時代を集結して南北統一の天皇であり第百代の天皇でもあります。時代としては、室町幕府「足利義満」の時代ですね。
永徳三年とは、北朝の暦であり、西暦1383年になります。
松平信光は、松平宗家第三代にあたる人物で、松平郷から岩津城、安祥城に進出した武将であり、自らの息子を各地に配置して松平氏の三河統一への足掛かりを作った人物でもあります。生誕年は不明ですが、長享二年(1488年)か長享三年(1489年)に死亡したと言われています。
文明七年とは、西暦1475年になります。


この饗庭周辺の寺院などの由緒や、横須賀村誌などを読んでいると、饗庭妙鶴丸が後小松天皇の時代にここ饗庭郷にやってきたとされていて、更に松平信光を呪い殺そうとしたことがばれたため自害したと書かれていますが、永徳三年に饗庭七郷を賜り、文明七年に自害したとしてもこの間93年の時間が経過しています。
時系列を考えても、同一人物というより、息子もしくは孫にあたる人物と考えた方が妥当かなと思っています。
更に言えば、足利尊氏の寵臣に「饗庭命鶴丸」という自分物が居たことが知られています。この饗庭命鶴丸がこの饗庭郷出身ではないかと考えられているんだとか。もし仮にそうだとしたら、饗庭氏は足利尊氏の時代以前からこの地にいたことになりますね。

訪問記

饗庭城があった場所なんですが、上記地図で「城山」の地名が出ていると思います。この丁度「城山」の文字の辺りに昭和初期のころまで饗庭城の遺構が残っていたという話があります。

この道路にせり出すような部分に以前廃寺があったが、いつの頃からかミカン畑になり、ミカン畑が遺棄されて、現在では竹林になってしまい、中に入ることが困難になり、遺構も残っていないんだとか。

白山公園の一角にある八幡社の社になります。
饗庭城の鎮守社として勧請された八幡社の流れを汲む社なんだとか。

 

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