三河国准四国霊場 岡崎市

拾玉山大林寺(愛知県岡崎市魚町) 岡崎西国観音十九番

2021年4月27日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

寺院情報

寺院名拾玉山大林寺
所在地愛知県岡崎市魚町1丁目6番地
御本尊阿弥陀如来坐像
宗 派浄土宗西山深草派
創 建明応二年(1493年)
札 所三河国准四国 七十四番札所
岡崎西国観音 十九番札所
御朱印
H P

参拝日:2020年3月18日

沿革・由緒

 寺伝には明応二年(1493年)に岡崎城主「松平弾正左衛門尉信貞」が創建したと伝えられている浄土宗西山深草派の寺院になります。松平信貞は昌安とも称しており、史料などでは松平昌安と記されている方が多い感じです。Wikipediaを見ても、松平昌安として記事が書かれていますね。当サイトでは両記していく事にします。

 徳川家康が生まれた岡崎城は祖父である松平清康が松平昌安(信貞)より岡崎城を奪取した後に移築造営して築城した城になります。移築と書いている点からわかる様に、元々の岡崎城は現在の場所ではなく菅生川の対岸、明大寺(名鉄東岡崎駅周辺)にあり、区別する為に明大寺(旧)城とか平岩城とも呼ばれる事もある城になります。
 岡崎城を築城したのは仁木氏が三河守護出会った時の守護代であった「西郷頼嗣」になります。元々西郷氏はどのあたりに本拠を構えていたのかは不明ですが、加茂郡松平郷から額田郡岩津郷に進出してきた松平信光はさらに南進する勢いだったのでしょう。西郷頼嗣は信光の南下を抑える為に享徳元年(1452年)から康正元年(1455年)頃に菅生川南岸に砦を築きます。しかし、西郷頼嗣は松平信光に戦で敗れたのか圧力に屈服しのかは不明ですが、文正年中(1466-67年)に臣従する事になった様で、信光の五男「松平光重」を娘婿として受け入れ、更に光重を岡崎城主としています。この松平光重から始まる松平庶家を「大草(岡崎)松平家」と呼び、松平昌安(信貞)は三代目となります。

 大林寺の由緒では、明応二年(1493年)岡崎城主「松平昌安(信貞)」が創建であるとしていますが、大草松平家初代「松平光重」が没したのは永正五年(1508年)であると伝えられています。大草松平家二代「松平親貞」の没年は不明ですが、永正八年(1511年)に昌安(信貞)の発給文書が残っている事から永正年中に没していると考えらています。
 この事から、創建年が正しいとしたら、明応二年の頃には寺院が創建できるある程度の権限が昌安(信貞)にはあった事が伺えます。これを裏付けるような説があって、大草松平家二代「松平親貞」は無嗣子で死去した為、弟である昌安(信貞)が三代となって家を継いだというのが定説ですが、実は「松平昌安(信貞)は松平光重の子ではなく西郷頼嗣の子であり、西郷頼嗣は娘が嫁いだ大草松平家を断絶させぬように子である昌安(信貞)を養子入りさせて跡を継がせた。」といった物で、この説で考察すると明応二年の頃に既に元服しある程度の年齢になっていてもおかしくはなく、大林寺を創建する事も十分可能かなと思います。

ちょっとわかりにくいですが家系図を起こすとこんな感じかな。

松平      西郷
 信 光     頼 嗣  
  ┃     ┏━┻━┓
 光 重①┳  娘  昌 安③
     ┃      ┣━━━━┓   松平
    親 貞②   七 郎④ 春 姫 ┳ 清 康
                    ┃
                   広 忠

 上記の系図が史実だったとしたら、昌安(信貞)にしてみれば、自分の姉または妹の婿さんが松平の人だったというだけで、甥っ子が亡くなりお家断絶しそうになってしまったので請われて養子に入っただけで、いつまでも松平家の意向に従う必要はないと考えても不思議ではないのかなと思う訳です。
 松平親貞は永正三年(1506年)または永正六年(1509年)に今川親氏が伊勢新九郎長氏(北条早雲)を総大将とした三河侵攻においてどの戦いかは不明ですが討死してしまったと考えられています。この今川軍の三河侵攻によって松平宗家となる岩津松平家の居城「岩津城/紹介記事」は落城したのでは?とされ、安祥松平二代「松平長親」の活躍で何とか今川軍を撤退させた松平一族ですが、その被害は甚大だったことは想像に難くありません。
 岩津城の落城により岩津松平家が没落、断絶、惣領たる立場になったはずの安祥松平家も三代「松平信忠」が家臣や一門衆から隠居を迫られ、嫡子である清康に家督を継がせるという一種のクーデターが発生するなど、松平家全体として求心力が低下する時期が続いていて、松平家に臣従した国人衆の中には独自の動きを始めた者も現れ、大草松平家を継いだ「松平昌安」も姓を松平から西郷に変えたとも伝えられるように、松平家からは独立したような形になっていったと思われます。
 昌安(信貞)にとって誤算だったのは安祥松平家を継いだ「松平清康」が当代きっての麒麟児であったという事でしょう。大永三年(1523年)に弱冠十一歳で安祥松平家の当主となった清康は、その二年後の大永五年(1525年)には足助の真弓山城主「足助重政」を屈服させ、続いて西郷昌安に対し臣従を求める事になっていきます。清康の要求をはねのけた昌安(信貞)に対し、清康は軍事行動を起こします。大草松平家の詰城ともされ、鎌倉街道沿いに建つ「山中城」攻略に向けて出陣します。この山中城攻めでは家臣「大久保忠茂」の計略によって一夜にて落城させたと伝えられています。
 西郷昌安(信貞)は、拠点の一つである山中城が一夜にして落城した事で清康には敵わないと悟ったのか、自らの娘「春姫(於波留)」を清康の正室として嫁がせた上で、岡崎城を清康に明け渡し、自らは額田郡大草の地に隠居したと伝えられています。
 そして、岡崎城を譲られた清康は、先に述べたように安祥松平家の新たな本城とするべく岡崎城の移転造営を決行しています。大林寺も清康によって現在の境内地に移っていると伝えられている所から元々は明大寺にあったのだと思われます。

 天文四年(1535年)、尾張国守山城を攻める為守山城近くに陣をおいた松平清康がその陣中において家臣に切り殺されるという「森山崩れ」が発生し、破竹の勢いでその支配域を拡張してきた松平軍は一気に壊滅、織田軍に攻められながらも撤退を続け、なんとか清康の遺骸を岡崎城に戻しています。清康の遺骸は現在隨念寺が建つ丸山の地で荼毘に付され、当地に埋葬されたとされますが、大林寺の寺伝ではこれより先に出家して尼となっていた「春姫」は遺品を受け取り大林寺に埋葬したとされ、これが大林寺に清康の墓石がある理由なんだと伝えています。
 さらには、清康の嫡男「松平広忠」が天文十八年(1549年)に暗殺されたとも病死したとも伝えられていますが没すると、その遺骸を他勢力(織田家または今川家)に利用される事を避ける為に、密かに大林寺に運び込み、最終的には能見の地にて荼毘に付されたといいます。この荼毘に付されたという能見の地には徳川家康により広忠の菩提を弔うために松應寺が建立され、松平広忠霊廟も境内に造られています。最初遺体が運び込まれた大林寺には遺髪、爪などが埋葬されています。
 広忠が亡くなる前年には春姫が没して大林寺に埋葬されており、清康・春姫夫妻、そして嫡子の広忠の三名の霊廟が大林寺境内ある墓所の一角に設けられています。 

 現在の岡崎城の姿の大半は徳川家康の関東移封により新たに岡崎城主に任ぜられた田中吉政が築いたと言われています。当然豊臣恩顧の武将である田中吉政は徹底的に徳川色を排除した城下造りを行ったとされ、大林寺も例外ではなく境内の一部は田中堀となり、境内地の一部は没収されています。

大林寺は阜光院と曰ひ拾玉山と号す。魚町四十六番地に在り。境内千百三十六坪八合を有す。西山深草派誓願円福寺の末寺である。開山は天盁良倪上人にして明応二年岡崎城主松平弾正左衛門尉信貞の創立に係る。或云、始めは禅宗にして光林寺と称し、暦応元年の開創なりと。松平紀伊守光重の文章に曰く、光林寺屋敷為替地妙大寺本成就院之屋敷出置候者也、仍て為後日之戕如件、明応二年葵丑卯月十二日とある。

享禄四年八月、松平清康制札を下して当寺の正門に建つ。天文四年十二月五日清康尾州森山に變死するや、遺骸を菅生丸山に於て荼毘す。是より先、清康の夫人「春姫」遁世して元能と号し、当山にありしが、乃ち乞うて其遺物を当寺に納めた。同十七年二月十六日元能尼歿す。法名を花嶽院殿芳月清春大姉と号した。同十八年三月六日、清康の子広忠の歿するや、敵のその虚に乗するを憂ひ、密かに遺骸を大林寺に移し、光善寺、安養院等随侍護衛しのち能見の原に葬り、其肉髪爪及び肌付等を境内に納めた。是に依て清康広忠春姫の霊廟何れも当寺に存在するのである。

尚、境内墓地に西郷弾正左衛門頼嗣、同信貞、青山喜三郎忠世、河合勘解由左衛門家忠、中島興五郎政成、徳川四郎義氏、成瀬伊賀守国次等の墓がある。

霊場を行く

 大林寺は、三河国のほぼ全体を霊場とする「三河国准四国霊場」と岡崎市の城下を霊場とする「岡崎西国観音」の札所となっています。岡崎西国観音の札所については明治に再編された時に札所に選ばているようです。

参拝記

 岡崎市図書館交流プラザ「りぶら」の北側に今回紹介する「拾玉山大林寺」の境内があります。大林寺との関係はよく解らないのですが、昭和二十六年に「岡崎女子短期大学 付属嫩幼稚園」が大林寺の境内に移転してきています。昭和二十年の岡崎空襲でこの辺りは焼け野原になってしまったのと何か関係があるのでしょうか。

 載せたストリートビューと同じような視点ですが、こちらの方がもう少し境内の雰囲気が伝わるかと思います。妻入りの本堂の奥にピンク色の建物が写っていますが、この建物が紹介した「嫩幼稚園」の園舎になります。

 写真から見て分かる様に大林寺は山門ではなく境内入口には石柱門が据えらえています。駐車場は境内に止める感じのようで車は写真の左側の石柱門から境内に入る事ができます。

 こんな感じでスロープの様な造りになっていますね。

 本堂正面側の石柱門になります。たぶんですが、境内に停めた車が誤ってこちらの石柱門から出ようとすることを防ぐための鉄柱が並んでいます。もしかしたら・・・過去にここから車が出ようとして石段を滑り落ちた事があったのかもしれませんね・・・。

本堂

 瓦葺RC造妻入りの向拝と高覧のある濡れ縁が設けられてた本堂になります。太平洋戦争での岡崎空襲で伽藍が灰燼に帰してしまった為、戦後に再建された本堂になります。市街地ということもあり耐火建築も求められた事もあってRC造となったと思われます。

 境内には観音堂や弘法堂が見当たらなかったので、空襲の中逃げ延びれていれば本堂の中にそれぞれの札所本尊となる観音像や弘法大師像が奉安されているはずです。

名墓録

 由緒の中でも紹介していますが、ここ大林寺は大草松平家の菩提寺だった経緯があります。その後岡崎城を接収し、大草松平家と婚姻関係を持った安祥松平家とも非常に所縁のある寺院となった事から、大草松平家、安祥松平家の墓所にもなっています。また、岡崎城に近い事もあったのか、松平家の家臣の墓所ともなっているようです。

□大草松平家関係
 ・西郷頼嗣
 ・西郷昌安(信貞)
□安祥松平家関係
 ・松平清康
 ・清康室春姫
 ・松平広忠
□松平家家臣
 ・青山喜三郎忠世
 ・河合勘解由左衛門家忠
 ・中島興五郎政成
 ・徳川四郎義氏
 ・成瀬伊賀守国次
□赤穂浪士
 ・矢頭教兼

 このうち、太文字になっているの六名は境内に案内板が設置されている墓石になります。

 ※この中で「徳川四郎義氏」だけはどういった人物なのか資料が手元になくわかりません。「徳川」とあるので家康に近い人物なのか・・・。ただ、徳川義氏という武将の名前は全く聞いた事が無いので、一体誰?って感じなんですが。

西郷頼嗣の墓

 岩津城の松平信光の南下を抑える為に菅生川南岸の明大寺に砦を築いた西郷頼嗣の五輪塔になります。松平清康による岡崎城移築に伴って大林寺を現在の境内に移ったとされ、この時に西郷頼嗣の墓石も移されたんだと思います。

松平昌安(信貞)の墓

 だいぶ風化が進んでしまっていますが、大草松平家三代であり、西郷頼嗣の実子ではないかという説もある松平昌安(信貞)の五輪塔になります。大林寺の説明看板では松平姓ではなく西郷姓で紹介されています。娘である春姫を清康の室として嫁がせ清康嫡男広忠が生まれています。広忠の嫡男が徳川家康ですので松平昌安は家康の曾祖父になります。

矢頭教兼の墓

 忠臣蔵でおなじみの赤穂浪士。大石内蔵助以外の赤穂浪士の名前を正直存じていない訳ですが、吉良邸討入後矢頭教兼は当時岡崎藩主であった水野忠之の芝中屋敷にお預けとなり、その後水野家家臣「杉源助」の介錯で切腹したといいます。享年十八歳。時代が違うとはいえ、わずか十八歳で討入に成功しても切腹する事がわかっていても参加(しかも、赤穂藩主浅野内匠頭が切腹し赤穂城を明け渡した時は教兼は家督を継ぐ前であり部屋住みという待遇であり、赤穂藩取り潰しから吉良邸討入までの2年間程の間に父が死去しなければ、もしかしたら教兼は討入には参加していなかったかも?)という、当時の武士道というんですかね、そういった風潮が怖く感じてしまいます。
 大林寺の矢頭教兼の墓所は、介錯した杉源助が教兼の菩提と弔うために建立したものになります。

青山喜三郎忠世之墓

 特に案内板はでていなかったのですが、大林寺の墓所の一角に石灯篭を一対有する墓所がありました。もしかしたら、松平家に関係する武将の墓かもと思い、写真を撮影し調べてみると(旧)岡崎市史の大林寺の記事の中に「青山喜三郎忠世」の名前を発見しました。そしてこの墓石の前に据えられている灯篭には・・・

 「丹波篠山城主下野守従五位下藤原朝臣忠高」と彫られていました。丹波篠山城を調べてみると青山忠高が従五位下で下野守を称していた事がわかり、大林寺にある灯篭を寄進したのは青山忠高で間違いないと思う訳です。そうすると、全く縁もゆかりもない人に灯篭は寄進する事はないだろうと考えると、この墓所は青山忠高の先祖にあたる「青山喜三郎忠世」だと結論付けた訳です。
 Wikipediaによると、「青山忠世は大永六年(たぶん永正六年の誤記だと思います。)に今川親氏が伊勢新九郎長氏を総大将とした三河侵攻の際、井田野に布陣する今川軍に対し特攻した家臣の一人であり、松平信忠の後継を決める際、強硬に清康を押したとされ、森山崩れにおいて清康が亡くなると、総崩れとなる松平軍を指揮しつつ織田信秀の追撃軍との戦いの中討ち死にした。」と書かれています。

松平清康、春姫、広忠霊廟

 大林寺の一角に、ブロック塀という所がなんとも味気ないですが、瑞垣に囲まれている場所があります。ここが、松平清康、その室春姫、松平広忠の墓所が据えられている霊廟になります。

四枚目の写真は、徳川家康が八歳の時に父広忠の霊参の時に寄進したと伝わる獅子頭の石です。

 もっとしっかりと探してみると(旧)岡崎市史で書かれている武将の墓石も発見できるかもとは思うのですが、写真でもちょこちょこ写っていますが一般の檀家の方の墓が多くあるので、探しにくい雰囲気ではあるかとおもいます。

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やっぱり、"るるぶ"を見ながら、旅の予定表を作っていくのも、旅行の醍醐味ですよね。

所在地を地図で確認

寺院名拾玉山大林寺
所在地愛知県岡崎市魚町1丁目6番地
最寄駅名鉄バス「図書館交流プラザバス停」徒歩3分

寺院・霊場巡りの際のバイブルに

元々、当サイトは神社巡りを通じて、皆様の住んでいる所にある"村の鎮守の神様"と呼ばれる神社を紹介してくサイトを目指していたんです。むしろ寺院については、縁遠いものとおもっていたんですよね。しかし、ちょっとした御縁で弘法大師霊場に出会い、そして愛知県では一番活動が盛んな"知多四国霊場"を巡礼、結願する事になりました。でも、神社の事はある程度知識があっても、寺院については未知の世界だったので、少しでも巡礼の時に役に立てばと思い、こちらの本を読ませて頂いております。

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