あいちを巡る生活って版「碧海郡桜井町誌」

 矢作川に架かる「美矢井橋」から「米津橋」手前の矢作川右岸側に広がる地域が碧海郡桜井町になります。
 現在の安城市「川島町、村高町、桜井町、堀内町、東町、姫小川街、小川町、野寺町、寺領町、木戸町、藤井町」の11町の跨る場所が碧海郡桜井町だった場所です。
 地形上から言えば、碧海台地の東南端に位置しており、矢作川流域の沖積層との地形の分かれ目がハッキリしていて、集落は碧海台地に集中している事がわかります。

 この地域には、貝塚が発見され、また桜井古墳群が存在し、太古より人が住み集落が形成されていた事がわかっています。

碧海台地とは?

 ほぼ旧碧海郡に相当する豊田市南部から刈谷市、知立市、安城市、高浜市、碧南市に渡って広がる台地状となっている地形を指します。高浜、碧南側の碧南台地西側と安城市の矢作川沿いの碧南台地東側は低層地との段差を見る事が出来る場所が散見できるようです。

 少しわかりずらいかなと思いますが、緑色が強い部分が一段高くなっている碧海部分になります。
 古墳時代の頃は、現在の矢作川が流れている周囲は海が入り込んでいたと言われていますので、桜井周囲も昔は海沿いだったということです。

堀内貝塚

名鉄「堀内公園駅」の脇を東西に通る市道沿いで「堀内公園」の南側に「堀内貝塚」の石碑が建っています。変わった保存方法で、コンクリートで擁壁を作って一部中が見える様に加工されていて貝塚の様子を見る事ができます。

桜井古墳群

 貝塚が残るほど人々が集まると徐々に集落を支配していく支配者層が登場し始め、徐々に古墳が作られるようになっていきます。特に桜井古墳群と呼ばれる桜井を中心に点在する古墳は矢作川流域に存在する他の古墳に比べても規模も大きく往時の繁栄ぶりを物語っていると思います。

 古墳群は碧海台地の東端に沿うように南北に20基以上存在しています。二子古墳は墳丘長68mを測る愛知県最大の前方後方墳であり、矢作川流域最古級の古墳とされ、同じく国史跡の姫小川古墳は墳丘長65m以上の矢作川流域最古級の前方後円墳で、二子古墳とほぼ同時期に築造されたと言われています。その他の古墳にも、これら前方後方墳と前方後円墳と考えられる古墳が何基か存在し、近畿地方で多数作られた前方後円墳と三河地方で多く作られていた前方後方墳が混在しており、この古墳群が作られた年代には大和朝廷がこの地域まで進出してきたことを物語っているのかもしれませんね。

志貴荘と桜井の城郭

 碧海郡全体は元々地元豪族が点在する地域でしたが、徐々に大和朝廷の支配が広がっていき、郡郷が整備されていく事になります。そして奈良時代になると、現在の安城市寺領町に東西100m、南北180mの規模を持ち、東大寺式の伽藍配置の寺院が建立されます。(「寺領廃寺」と言われています。)西三河最古の寺院と言われている「北野廃寺」の建立からあまり時を置かずに建立されたと考えられえているそうです。飛鳥京から平城京にかけて当時の大和朝廷による寺院の伽藍配置を踏襲している事から、北野廃寺も寺領廃寺も、大和朝廷による建立だと考えられそうですが、同時期に作られたであろう国分寺と何が違うのかよくわかりません。

 そして、奈良時代に発令された「墾田永年私財法」もあり、この碧海郡は「志貴荘」と呼ばれ、徐々に開墾が進められ荘園が設けられ、色々支配者の変遷があったようですが、最終的には藤原関白家の荘園となった様ですが、鎌倉時代までは、どうやら藤原家の荘園として存在していたようです。
 しかし、承久の乱後三河守護に任ぜられた「足利義氏」は居城を西条城(現在の西尾城)としています。実は義氏以前の三河守護の拠点は東三河(現在の豊川市)の国府に置かれていましたが、義氏は始めて西三河に守護職の拠点を置くことになります。

 額田郡、幡豆郡、そして碧海郡の地頭職を得た足利義氏は、額田郡、幡豆郡に足利一門を配置し、吉良家、今川家、一色家、細川家、仁木家などが起こっていきます。碧海郡の地頭職を得たはずなのに、碧海郡は前述の通り藤原家の荘園が広がっており一族を配置できていない様です。しかし、鎌倉時代から室町時代と時代が進むにつれ藤原家の支配も徐々に衰退していきます。矢作川を挟んで対岸に位置する場所を拠点とする吉良家の圧力も徐々に強まり、徐々に碧海郡に幕府側の地頭職が送り込まれるようになっていたのでしょう。

加藤家

鎌倉時代に「加藤正成」が築いたとされています。子孫に「加藤嘉明」がいるとされています。

小浦家

「小浦喜平次忠重」が築いたとされています。安祥城を松平信光が落とすと松平家に従っています。

内藤家

松平家家臣「内藤清長」が築いています。三河一向一揆の際、清長は一揆側に与し、家康と対立しています。

石川家

浄土真宗の蓮如と共に三河国に来た石川政康により築城。小浦家、加藤家とほぼ同時期に松平家に臣従しています。

桜井と浄土真宗

 「小川城/紹介記事」を築城する「石川政康」は、一説には「三河国守護であった一色氏被官として土着していた」と説もありますが、一般的には京都から関東に下り布教活動を行っていた「本願寺蓮如」に下野で会い、『三河は我が郷党なり。武士の大将をして一方を指揮すべき者なし。願わくば、三河国に来たりて、我が門徒を進退すべし』との蓮如の誘いに応じて、蓮如と共に三河国に赴いたとされています。
 石川政康は、額田郡土呂の地に、三河本願寺教団の中心地となる一家衆寺院「本宗寺」をまずは石川家一族の寺院として建立した後、蓮如に寄進し、三河国における大檀那的な立場だった様に思われます。ただの寺院ではなく、三河国の本願寺派の総本山ともいうべき寺院になり、当然その境内はかなり広かったことが用意に想像できます。それだけ大きな寺院を建立し蓮如に寄進する事ができる石川政康が蓮如と共に三河国に来たのではなく、それ以前から石川家は三河国に地盤、領地を持っていた一族であったと考える事が妥当ではないかとおもうのですが。

 桜井には、前述の様に真宗本願寺派(現在は真宗大谷派)の大檀那である「石川家」の居城があり、さらに真宗本願寺派(真宗大谷派)の三河三ヶ寺と称された寺院の一つ「雲龍山本証寺」があり事から、非常に真宗の侵攻が篤い地域で、桜井地区にある十三ヶ寺の内十二ヶ寺は真宗大谷派の寺院となっています。このため、三河一向一揆では一揆方の中心地のひとつとなっています。この時、桜井を治めていた桜井松平家も一揆方に与しています。

松平家の支配

 少し時代は前後しますが、文明三年(1471年)、岩津城の松平信光が矢作川と渡河し安祥城を攻め落とします。落とした安祥城には三男「松平親忠」を据え、安祥松平家が発祥します。親忠は安祥城から碧海郡を南に向かって勢力を伸ばし、桜井城の小浦家、小川城の石川家、岩根城の加藤家を臣従させていきます。そして、自らの息子「親房」を桜井城主とし、家臣である成瀬直庸木戸城を築かせています。親忠の嫡子「長親」は嫡子のいなかった桜井城主「親房」に「信定」を養子として継がせ、さらに五男「利長」に藤井の地を与え藤井城を本城とする藤井松平家を起こさせています。
 織田信秀による三河進出が本格化し始めると、上野下村城主だった「内藤清長」を碧海郡姫小川郷に移し「姫城」を築城させています。しかし、織田信秀が安祥城を攻め落とすと、桜井松平家の「松平清定」は織田家に臣従し、松平家惣領である「松平広忠」と敵対する事になりますが、今川・松平連合軍により安祥城が奪還され西三河南部から織田家が一掃されると、清定は降伏し松平家に帰順しています。

しかし、後に起こる三河一向一揆にて桜井松平家三代目「松平家次」と四代目「忠正」は一揆側に与し、さらに姫城主「内藤清長」も真宗門徒であったところから一揆勢に加担して姫城、その隣に建つ「小松山誓願寺」にて家康側と戦ったそうです。桜井松平家の家次は三河一向一揆の最中に死亡したようで、忠正は一揆終結後帰順がゆるされています。内容清長は一揆終結後、萩城(現在の幸田町萩地区)に蟄居中に死亡しています。

綾姫伝説

姫小川町」の地名の由来であると言われている伝承が姫小川町に伝わる「綾姫」伝説になります。

 孝徳天皇には「綾姫」がおり、大化の改新のその後の政変などで都を乳母と共に逃げ落ち、この桜小川の地にたどり着き、住み着いた。」という伝承が残っています。その後、乳母が亡くなり埋葬されたのが「獅子塚古墳」であり、綾姫が亡くなると「姫塚古墳」が造られ埋葬されたといいます。
 この綾姫につなみ、この地を「姫小川」と称するようになったといいます。

三河四名井

 桜井、藤井、古井、浅井の地名の由来となった四井戸を「三河四名井」を称します。桜井には、「桜井戸」と「藤井戸」があったといいます。安城市にある三井戸は現在史跡として石柱などが建てられているのですが、西尾市の浅井戸については詳細不明です。

碧海郡桜井町の神社

 昭和十三年発刊された「愛知県碧海郡神社写真帳」には桜井町に十四社の神社が鎮座していると紹介しています。戦前までの社格制度の内訳は「懸社一社、郷社一社、村社七社、無格社五社」となっています。

懸社

郷社

神明社・小河天神社合殿

村社

天神社

春日神社

熊野神社

八柱神社

天神社

素戔嗚神社

無格社

熱田社

素戔嗚社

荒神社

稲荷社

八幡社

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