知多半島全部盛り紀行

知多半島遍路・巡礼・参拝・探訪全部盛り 1日目その2

2020年10月2日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

 知多半島に存在する弘法大師霊場を遍路して、観音霊場などを巡礼して、神社を参拝して、史跡を探訪していくという「知多半島一周全部盛り」企画の1日目後半戦の紹介になります。

 2020年8月26日(水曜日)気温35℃以上の酷暑の中、名鉄鳴海駅をスタート地点として鳴海の界隈を巡り「鳴海城址」まで紹介をしてきました。後半戦は、成海城址からゴールとなるJR東海の大高駅に向かって巡っていこうと思います。

知多半島一周全部盛り 一日目行程

鳴海駅]・・・【史跡】中島砦跡・・・・【直伝一番】龍蟠山瑞泉寺・・・・【史跡】善照寺砦跡・・・・【史跡】鳴海球場跡・・・・【神社】成海神社・・・・【史跡】丹下砦址(一国山光明寺)・・・・【史跡】鳴海城跡・・・・【史跡】東福院・・・【直伝三番】頭護山如意寺・・・【直伝二番】来迎山誓願寺・・・【寺院】庚申山圓道寺・・・【史跡】鳴海神社旧境内地・・・【神社】鳴海八幡宮・・・【直伝四番】孝養山明忠院・・・【史跡】鷲津砦・・・【知多八十七番】鷲頭山長寿寺・・・[大高駅

 「鳴海城址公園」から鳴海城の城門に使われた梁を再利用したという山門がある「東福院」を目指して、細い路地を進んでいきます。歩いて思ったのはバイクを置いて歩いてきて正解だったという事ですかね。

 間違いなく車はすれ違う事が出来ない細い路地が続きます。この先に目的地である「東福院」があります。

東福院

愛知県名古屋市緑区鳴海町花井町三番地 GoogleMap

 創建年代は不詳ですが、元々は現在の境内地より北にある「赤堀」と呼ばれる地区にあったと伝えられています。寛永年中(1614~1644年)に、中興の祖「盛弁法印」が廃城になった鳴海城の廃材を使い、現在地に東福院を再興し、現在の山門である薬医門は当時の物がそのまま伝えられているといいます。このため、薬医門に梁に使われている木材は鳴海城の城門の遺物であるといいます。
 御本尊は大日如来、脇に不動尊が奉安されています。

 鳴海城に使われていた「梁」であると言われてじっくり見てみると、山門自体は改修工事が行われている様に見えるのですが、梁だけはかなり年代物の木材が使われています。まあ、これだけ見て鳴海城の遺物だなんてわかる訳ないのですが、「梁一本だけが現代に残った鳴海城の遺産」と考えると浪漫がありますね。

 東福院を参拝したとは、そのまま西に向かい旧東海道との交差点を左折して鳴海宿だった場所を歩いていこうと思います。このまま旧東海道を進んでいくと左に大きく孤を描くように曲がって西に進路を変えるのですが、この曲がっている場所に四国直伝弘法三番札所「頭護山如意寺」がありますので、納経していこうと思います。

 如意寺では鳴海保育園を経営しているようで、旧東海道から境内に向かう参道脇は保育園の駐車場となっているようです。送り迎えの時間はかなり混雑しそうな予感がするので、この時間はさけて参拝、納経した方がよさそうです。

頭護山如意寺

愛知県名古屋市緑区鳴海町作町八十五番地 GoogleMap

 元々は現在の鳴海町上ノ山辺りに創建された寺院であったようです。創建当初は青鬼山地蔵寺と称し真言宗の寺院であったそうですが、東区の「霊鷲山長母寺」の開祖である無住国師が弘安五年(1282年)現在地に移し再興させたと伝えられています。応永二十年(1413年)に曹洞宗に改宗し、寺名を現在の「頭護山如意寺」と改称し中興開山しています。御本尊は如意輪観世音菩薩。地蔵堂に奉安されている地蔵菩薩は寺伝によると「定朝」作なんだとか。定朝をよく存じないのですが平安時代の仏師なんだそうです。この地蔵菩薩は昔正月に漁師たちが蛤を放上していた事にちなみ、「蛤地蔵」とも呼ばれているそうです。

 四国直伝弘法三番札所、尾張六地蔵四番札所

 山門となる薬医門の脇にある地蔵堂は「せき地蔵」と呼ばれて咳封じに御利益があると知られているそうです。こちらの地蔵堂には、四国直伝弘法の札所本尊となる弘法大師像が奉安されています。さらに閻魔大王を始めとする十王像も奉安されていますね。

 如意寺には納経所が設けられておらず、朱印は庫裏の脇に入れ物に入れられて置かれています。通称「セルフ朱印」と言われる自分で朱印を押す札所の様です。この朱印が入っている入れ物が少しわかりにくい場所に置かれているのでゆっくり探してください。

 如意寺での納経を終え、引き続き旧東海道を歩いていきます。如意寺あたりから東海道は東に向かていきます。まさに鳴海宿の中心あたりをあるいていくと・・・

 山車が格納されていると思われる倉庫の脇に「鳴海宿本陣跡」の立て看板が設置されています。鳴海宿の中心ともいえる本陣がこの辺りに置かれていたみたいです。まあ、都市部の本陣跡と同じく全くその遺構は残っていないようですが。

 本陣跡から更に東に向かって歩いていくと、旧東海道と鳴海街道が交差する「本町」の交差点に出る事ができます。この交差点で旧東海道とはお別れして、鳴海街道を北に進んでいきます。鳴海街道は本町の交差点から鳴海城址当たりまでにかけて上り坂となっていて、この坂を「庚申坂」と呼ぶみたいですね。この本町の交差点から北に30m程歩いた先に次の目的地である四国直伝弘法二番札所「来迎山誓願寺」があります。

 本町交差点から北を望むと、緩やかな上り坂か左にカーブしながら続いているがみえます。この坂が「庚申坂」と呼ばれる坂道なんだそうで、坂の途中にある「庚申山圓道寺」に因んで名付けれたっぽいですね。で、次に参拝する「来迎山誓願寺」はこの庚申坂の鳴海街道の西側に位置し、上記ストリートビューでも坂道左手に白い切妻屋根の建物が見えるかと思いますが、この建物が誓願寺になります。

来迎山誓願寺

名古屋市緑区鳴海町根古屋十六番地 GoogleMap

 天正元年(1573年)に僧「俊空」により創建開山された西山浄土宗の寺院です。誓願寺の山門は大檀那である「千代倉家」の屋敷から移築された高麗門が今も残っています。鳴海六歌仙の一人である「下里知足」は千代倉家二代目当主だったといいます。
 誓願寺の直伝弘法三番札所は誓願寺の境外に建っている観音堂になります。山門を潜り本堂を参拝した後に、一度山門から境外にでて寺塀沿いに坂道を上ると「聖観世音菩薩」と彫られた石碑が据えられた入母屋造の観音堂が見えてきます。この観音堂の向かって左側に札所本尊である弘法大師像が奉安されています。

四国直伝弘法二番札所、鳴海宿十一ヶ寺六番札所

 ここ誓願寺には、「松尾芭蕉最古の供養塔」と「芭蕉堂」がある事でその名を知られています。何やら鳴海六歌仙と呼ばれる芭蕉の弟子であり芭蕉の後援者でもある人達がいて、芭蕉も何度も鳴海宿を訪れている様で、なかなか鳴海宿と松尾芭蕉はなかなかの関係があった様ですね。元々供養塔は下里知足らによって芭蕉が亡くなった元禄七年(1694年)十月十二日の翌月の忌日(命日)に如意寺に建立されますが、その後下里知足の菩提寺である誓願寺に移されました。

 誓願寺での御朱印は、山門のすぐ右手に建っている庫裏にて頂くことが出来ます。

 誓願寺のすぐ北側に「庚申山圓道寺」が境内を接する様に建っています。山号からわかる様に庚申信仰の影響が非常に強い寺院であるようです。当サイトではわざわざ庚申信仰の寺院などを巡るまでは行きませんが、色々巡っていく中で庚申信仰に関する物を見つけた時は積極的に紹介してきているので、当然、庚申山圓道寺も参拝させて頂きます。

庚申山圓道寺

名古屋市緑区鳴海町根古屋十八番地 GoogleMap

文禄年間(1592~95年)に「龍蟠山瑞泉寺」瑞泉寺十一世仁甫和尚による開山により創建。当時の寺名は「庚申山猿堂寺」と称していたそうなのですが、宝暦七年(1757年)に有松村に移転し、この時「大幽山祇園寺」と改称し、現在も有松駅の近くの旧東海道沿いにあります。
 猿堂寺が移転した跡地には地蔵堂だけが残ったようですが、安永三年(1774年)に庚申堂と改称し、さらにその後寺格を有し「庚申山圓道寺」と改称したといいます。山号、そして改称する前の庚申堂からわかる様に庚申信仰の寺院であり、本尊は「青面金剛明王(青面金剛童子)」になります。

 山門には三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)が彫られた扁額が掲げられ、本堂の向拝の屋根には三猿の姿を模した瓦が載っています。
 さらに、圓道寺の本堂脇の一角に秋葉堂があり、その隣には弘法堂が据えられていました。自分が知っている限りでは円道寺が札所となっている弘法大師霊場が見当たらない為、どういった所縁の弘法大師像なのかはよく解りませんが、是非皆様もお時間があれば納経してみて下さい。

 円道寺の参拝を終えた後に、少し北にある横断歩道を利用し県道を横断すると目の前に、天神社の社が鎮座しているのが分かるかと思います。庚申坂を上りきるあたりになります。

 この社が鎮座している境内地が成海神社が創祀された場所になります。そしてこの境内地の一角に前回の記事の中の鳴海城址の項で紹介した「成海城址」の石碑がたっています。

天神社

 愛知県安城市緑区鳴海町城地内 GoogleMap

 天神社と書いて「あまつかみしゃ」と読みます。応永三年(1396年)足利義満の家臣である「安原備中守宗範」は鳴海一帯の領主となり、鎌倉街道から近く、伊勢湾にも面している丘陵に目を付け、子の丘陵上に鎮座する「成海神社」を北にある乙子山に遷座させ「鳴海城」を築城しています。そして鳴海城の守護神として「天神社」が勧請されています。鳴海城が廃城となると、鳴海城下の人々たちの鎮守社として奉安されてきたそうです。現在では成海神社の境外社として成海神社が管理しているようです。成海神社の例祭では、天神社が御旅所となるんだとか。

 天神社の御祭神がいまいちわかりません。勧請された経緯などから考えると、成海神社の御祭神ではないかと思われるのですが・・・。

 ここ天神社の参拝を終え、鳴海城址公園に留めてあるバイクの場所に戻り、次の目的地に出発します。目指す目的地は「成海八幡宮」になります。ここからJR東海の「大高駅」方面に向かって進んでいく事になります。

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