松平城(愛知県豊田市松平町) 松平親氏築城

城郭情報

城名松平城
所在地愛知県豊田市松平町
築城年応永年中(1394-1427年)
築城主松平親氏
城形式山城
遺構曲輪、堀、櫓跡
規模東西200m、南北120m
備考国指定史跡

訪問日:2021年2月24日

沿革・詳細

 応永年中(1394-1424年)に在原信重より松平郷の所領を引き継いだ「松平親氏」によって築かれた松平郷の詰城になります。

 高月院の寺伝によると応安元年/正平二十三年(1368年)に松平郷に入郷した「徳翁斎信武」はこの地の領主「在原信重」の次女「水女」を娶り、入婿として在原信重の跡を継いでいくことになります。この頃の在原氏、親氏の居館は現在「松平東照宮/紹介記事」が鎮座している場所にあった松平氏館になります。周囲の集落も支配下に加えていき、一層松平郷が発展してくると、野盗などから自衛手段が必要となってくることから、応永年中に松平郷の入口に近い場所に松平城を築城します。

 この頃は室町幕府の支配が全国に及んでおり、幕府の命によって私戦は禁じられており、武力による領地拡大に対しては幕府軍が派遣される事もあったと言います。しかし、こういった幕府の命令も野盗などには無力であり、それぞれの集落が何らかの自衛手段を講じていたはずです。

 三河物語などの江戸時代に書かれた歴史書などでは、松平親氏が中山七名と呼ばれる近隣の豪族を攻め落としたと書かれていますが、領地拡大の私戦は固く禁じられていますし、さらに三河国は足利将軍家のお膝元といっても過言ではない足利一党が支配している場所であり、そんなところで私戦を起こせばあっという間に幕府軍によって討伐されてしまう事は間違いない所で、実際の所は親氏は九久平を中心に三州街道(足助街道)の物流を抑える事で莫大な収入があったとされ、その収入を元に周囲の土地を買収し、その勢力を広げていったと言われてます。

 ちなみに、松平郷で伝承されている松平親氏の没年が明徳四年(1393年)頃であるとしています。親氏の没年がこの伝承通りであるとした場合、松平城が完成した時には親氏は既に没しているという事になってしまいます。これは伝承が間違っているのか、親氏が松平城の築城を始めて完成する前に急死してしまい、親氏の弟「松平泰親」によって完成したという事なのか。

 こういった古地図にありがちな点ですが縮尺が結構いい加減だったりしますが、松平城と松平氏館とさらに高月院の相関図が何となくみえますね。
 松平郷への入口に松平城が築城されており、有事の際には郷内に敵を入れないようにしていたのでああろうという事が見えてきます。

 廃城は文禄年中と言われていますが、1590年に徳川家康は豊臣秀吉の命により関東移封となっており、松平郷は岡崎城主田中吉政の管轄下に入っています。松平一族の中でも松平郷を所領としていた松平太郎左衛門家(松平郷松平家)は唯一関東に移ることなく、松平氏発祥地である松平郷に残って松平郷を守っていましたが、城郭だけは田中吉政により破却されてしまったのではないかと思うのですが。

 郷牧城と称する。応永(1394-1427年)のころ松平(徳川)氏の始祖親氏の築城と伝わる。松平氏館跡の南東500m、お城山と呼ばれている標高298mの山頂に位置し、本丸は約6a、西北部山腹に二の丸、西部の地には総じて急峻な斜面で本丸跡の下方約15mの山腹に南、東、北の三方にわたり幅3-5mの空堀が約200m残っていて、不時の敵襲に対する室町時代の典型的な山城である。文禄(1592-95年)のころに破却といわれているが明らかではない。
昭和六十二年三月

松平親氏公顕彰会

訪問記

 国道301号線沿いにある共同駐車場に車を止めて、標識に沿って5分程歩くと松平城址入口が見えてきます。まさにザ・山城って感じです。しかし、城址に繁る木々を見ると大半が杉で、明治時代から昭和初期にかけて植林したものなんだろうなと思う訳です。当時は指定史跡とかになっていなかったから可能だったんだろうと思いますが、現在は国の指定史跡となっているので、これから植林された木々はどうなっていくんですかね。

 ここ松平城跡と高月院、松平氏館跡(松平東照宮)、大給城の四ヶ所を合わせて「松平氏遺跡」として国の指定史跡となっています。この中で大給城だけは親氏が関わっていない訳ですが、松平一族の大給松平家の居城となっていた城になります。

 二の曲輪から主郭方面を見てみます。以前来た時はもっと鬱蒼とした杉林だった記憶があるのですが、かなり伐採されたおかげかかなり見通しが良くなっています。

 花粉症の人が見たら、すべて伐採して!と願わずにはいられない光景でしょうね。

 主郭部分は一段高くなっている様で、中々の急坂となっています。ここも伐採されたおかげでかなり登りやすくなっています。

 登りきると主郭部分に到着します。こんなに開けた場所だったかなあ・・・。ただ、周囲の木々に視界が遮られて全く眺望はありません。
 この主郭部分には何ヶ所か大きな岩が転がっていて、その岩の上に愛知県が設置した松平城の標石が据えられています。

 松平城では主郭部分にちょろっと転がっているだけですが、大給城や天下峯などまさに自然の巨石文化といった感じで巨石がゴロゴロしている場所が多い様な気がします。巨石って何か神秘的な感じがしますよね。

 主郭から北側をみると、ふもとまで一気に切り立った崖が広がっています。右側に見える木々が伐採されている所が二の曲輪です。どれくらい急なのかは写真ではうまく伝わらないのと、シダが生い茂っていてなんか緩やかに見えてしまいます。この切り立った崖の下に松平城の井戸跡があるようです。

 主郭部を後にして二の曲輪を超えて三の曲輪まできました。この曲輪跡には、十一面観音像が奉安されている観音堂が設けられています。残念ながらどういった由緒がある観音堂なのかは全くわかりませんでした。

 観音堂が建つ場所から西を向くと、真っ直ぐ伸びた先に櫓跡があります。写真ではよくわからないですが、確かに櫓跡となっている場所だけ周囲と比べると一段高くなっています。あそこからなら九久平方面から松平郷に向かってくる敵兵も遠くから発見する事ができたんでしょうね。ただその先には、大給城があるので松平信光が大給城を奪取してからは外敵からの侵入の可能性はかなり低くなったんだろうなと思います。

 めっちゃ白飛びしてしまってなんて書いてあるか全くわかりませんが、ここが松平城の井戸があった場所になり、石碑には井戸跡と書かれています。これが井戸跡かな云った感じの窪みはあるのですが、当然井戸は埋まってしまっていますね。

地図で所在地を確認

城郭名松平城
所在地愛知県豊田市松平町三斗蒔地内
最寄駅豊田おいでんバス「松平郷バス停」徒歩7分
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