真弓山城【足助城】(愛知県豊田市足助町)足助鈴木氏詰城か?

城郭情報

城名真弓山城(足助城)
所在地愛知県豊田市足助町須沢三十九番地二
築城年不明
築城主不明
城形式山城
遺構曲輪、堀
規模東西240m×南北100m
備考定本西三河の城より

訪問日:2018年6月27日

沿革・詳細

 1989年(平成元年)愛知県が開始した「愛知のふるさとづくり事業」と国のふるさと創生基金を合わせて城の復興が企画されたといいます。当初は足助氏の居城「飯盛山城」を復興させようとしたそうですが、飯盛山は愛知県の指定文化財となっているなど、復興が困難になることなどから断念し、足助鈴木氏の居城である「真弓山城」を復興させることに決定したといいます。
 現在では、主郭部分には高櫓と長屋、西の丸に物見矢倉、南の丸にも物見台や厨、さらに各所に板塀などが復元されています。旧足助町では真弓山城ではなく「足助城」という名で宣伝をしており、城址は「城跡公園足助城」となっています。ちなみに入城料は300円。

 足助庄から足助一族が去った後、寺部城や酒呑城などを支配していた鈴木氏が足助庄に進出してきます。足助鈴木氏の初代となる「鈴木忠親」は飯盛山周辺に平時の居館を構えたとも伝わり、詰城として元々は飯盛山城の支城である真弓山城を改修して戦時の本城としたようです。

 真弓山城が歴史に登場するのは、大永五年(1525年)に安祥松平家四代「松平清康」が二千余騎の軍勢を率いて足助に侵攻した時になります。対する真弓山城主は足助鈴木家二代「鈴木雅樂守重政」です。重政は清康と戦ったのかは不明ですが、重政は嫡子「鈴木重直」の室に清康の妹「久子(久子の方」を迎え入れ、松平清康に臣従していく事になります。
 が、その凡そ十年後の天文四年(1535年)、清康は織田信秀が支城である「守山城/紹介記事」を攻める為、守山城周辺に布陣しますが、その陣中で清康は家臣である阿部正豊により切り殺されていまします。世にいう「森山崩れ」です。この清康の急死を受けて、鈴木重直は久子と離縁し岡崎に返し、松平家との間の主従関係を断ち切っていきます。
 独立勢力となった鈴木重直ですが、今度は天文二十三年(1554年)に三河に進出した今川義元の家臣馬場幸家、堀越義久率いる三千五百とも言われる軍勢が足助に侵攻、重直は今川義元に臣従していくことになります。
 しかし、永禄三年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にすると、その影響力を急速に失った今川氏から再び独立するのですが、同じく今川義元から独立した松平家康(徳川家康)が三河南部を統一しつつ、足助に侵攻したのは永禄七年(1564年)三河一向一揆を制圧した年になります。鈴木重直は降伏(・・という事は家康と戦ったのか?)し、嫡子である鈴木信重を人質として家康に差出し、家康に臣従していきます。
 元亀二年(1571年)になると甲斐の武田信玄が後に西上作戦と呼ばれる遠江、三河への侵攻を開始します。信玄は二万とも二万三千とも言われる大群を率いて甲斐国を出立、駿河、遠江へ進み徳川領を切り取って行きながら一旦信濃国の高遠城に戻りますが、再び出陣、今度は三河国の足助から奥三河を経由して家康の東三河における拠点「吉田城」へ進行していきます。高遠城から三河国に侵攻した武田軍は足助に元亀二年四月十五日に到達したと言われています。この武田軍の侵攻に対し重直は武田信玄に降伏する道は選ばず、真弓山城から一族を引き連れて脱し、岡崎城に向かっています。
 元亀四年(1573年)になると、再び武田信玄は遠江、三河への進軍を開始します。そして三方ヶ原で徳川・織田連合軍を打ち破ると東三河の野田城を包囲します。その後吉田、岡崎方面に進軍していくと思いきや、野田城を攻略後、武田軍は長篠城を経由して信濃国に向けて撤退してしまいます。明確な戦利もないまま撤退した武田軍に対し、徳川家康・織田信長は密偵を放つなどして武田信玄が死亡したという情報を得たと考えられ、武田信玄により失地した領地の奪還戦を行っていく事になります。
 真弓山城には下条伊豆守信氏が城代として入城していたが、岡崎城主「松平信康」が足助奪還が三千の兵を引き連れ足助に進軍し真弓山城を奪還しています。そして、鈴木重直は徳川家康から足助庄を与えられ再び真弓山城に戻っています。それまでは、家康に臣従していたとはいえ真弓山城の城持ち国人衆だった鈴木氏でしたが、家康より真弓山城を与えられた事から鈴木氏は徳川家康の家臣となったと考えるのだ妥当なんだろうなと思います。

 天正十八年(1590年)の徳川家康関東移封の際、鈴木氏も従い関東に移っていき真弓山城は廃城となったとされています。 

訪問記

 旧国道153号線から分岐する形で足助中学校方面に坂を上っていく国道420号線を道なりに進むと「足助城←」と書かれた看板のあるT字交差点が現れるので看板に従って足助町の街からだと左折してさらに山を登っていく事になります。少し進むと、足助城と彫られた石碑が見えてきます。

 駐車場は無料の様ですね。駐車場から歩いていくと入城券を販売している事務所があります。入城料300円です。自分が真弓山城を訪れたのは2018年と3年前の事になるのですが、この時には無かった御朱印ならぬ登城印?が始まった様ですね。数年前から急激に御朱印を集める方が増え、TVなどでも取り上げらるほどのブーム?になっていますが、二匹目のどじょうではないでしょうけど、名城100選ののようなスタンプではなく朱印を用意する城址が増えてきている感じですね。

 入城料を払って、さて真弓山城(足助城)に突入しましょう。ちなみに、平日という事もあって自分が足助城にいる間は貸し切り状態でした。2020年からのコロナ禍でもこういった状態では安心?して見て回れるなといった感じですか。香嵐渓とは人の導線が全く繋がっていないので、香嵐渓を訪れた観光客をこちら真弓山城に送り込む事がまったくできていないようです。

 門から少し進むと足助公六百年祭記念と彫られた石碑が建てられていました。たぶん、足助公とは足助重範のことを指しているのかなとは思います。ここにこの石碑が建っているという事は・・・もしかして昭和十八年から始まったという「足助神社/紹介記事」の遷座先となる境内地はこの辺りだったのでしょうか。

 石碑の場所から主郭方面を望むと、ご覧の様な風景が広がっています。まさに傾斜の先には柵でかこまれた主郭が見えます。丁度訪れた時は主郭部分の建物の修繕工事が行われていて足場が組まれていて景観的にはちょっと残念な感じとなっていました。

ここから道順に沿って進んでいき、西の丸を経由して主郭に向かうことになります。

 今までの雰囲気とうって変わって一気に山城っぽい場所に突入していきます。現在は木々が生い茂っていますが、往時は切り立った城壁がそびえ立つ感じだったんだろうなと思います。

 訪れた日はまさに梅雨真っ只中。城内にはいたるところにアジサイの花が咲き誇っていました。

 アジサイを見つつ、山城を堪能しながら進んでいくと、西の丸に通じる石段が登場します。この先から西の丸、主郭という足助城の中枢部分になっていきます。

 西の丸の周囲には柵が再現され、物見台が再建されています。物見台のすぐ後ろに主郭部分の高櫓が見えますが、西の丸から直接本丸部分にはススっと迎える訳ではなく、なんか回り道しながら登って行った記憶があります。

 本丸部分の説明板になります。先ほども述べていますが訪れた時本丸部分の大半の建物で修繕工事が行われていて足場に囲まれていた為、外観の写真を殆ど撮影しておらず、本丸の雰囲気を伝える写真がありません・・・。

  唯一本丸にある建物で足場で囲まれていなかった高櫓になります。ただこの方向からしか足場を隠して撮影できなかったので、なんだかよく解らないアングルですね。

 足助市街地の足助陣屋跡方面を望みます。非常に眺望が開けた場所で、確かに足助庄を支配する城としては非常に適した場所にあるなといった感じです。

地図で所在地を確認

城郭名真弓山城
所在地愛知県豊田市足助町須沢三十九番地二
最寄駅名鉄バス足助線「一の谷前バス停」徒歩27分
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