寺院情報
寺院名 | 桑子山妙源寺 |
所在地 | 岡崎市大和町字沓市場六十五番地 |
御本尊 | 阿弥陀如来 |
宗 派 | 真宗高田派 |
創 建 | 伝:正嘉二年(1258年) |
札 所 | ー |
御朱印 | ー |
H P | ー |
参拝日:2020年7月12日
沿革・由緒
妙源寺の創建や由緒等は岡崎市史によると、浄土真宗内の宗派的対立や寺院の粉飾などにより解りにくい状況となっているのが実状の様です。そんな中、寺伝として妙源寺を創建開山したのは「念信房蓮慶」であると伝えられています。念信の俗名は「安藤薩摩守信平」と伝えられ妙源寺境内の西隣に「桑子城(桑子館)」の城主であったといいます。
安藤家は年代は不詳ですが河内国安部野から三河国桑子に移住したとされ、その時に「桑子城(桑子館)」を築いたのでしょう。そしてその敷地内に、一族が信奉していた「聖徳太子」を祀る太子堂を建立したと伝えられています。この太子堂を「柳堂」とも称しています。この柳堂は真宗三河教団としてはとても重要な場所である事はまちがいなく、嘉禎元年(1235年)関東から京都に向かう途中の浄土真宗開祖である親鸞聖人がこの柳堂にて説法を行ったと伝えられている場所であると伝承されています。
柳堂伝承の説明の中で述べていますが、顕智が関東下向の途中、足掛け三年に渡り三河の地にて浄土真宗の布教を行っています。この三河布教を支えたのが「権守殿」と言われる「円善(俗名:安藤綱房)」であると言われています。顕智に帰依した綱房は出家し円善と称し、「和田門徒」と呼ばれる浄土真宗三河教団を作り上げていく事になります。この円善の子であるとさえる「安藤薩摩守信平」も父と共に出家し法名を「念信房蓮慶」が自らの屋敷の隣に堂宇を建立し、「平田荘桑子道場(平田道場)」を創建したと言います。この平田道場が発展し、「明眼寺」と寺格を有するまでになっていきます。
室町時代となり、「蓮如」が三河入りするなど、真宗本願寺派の三河布教が行われ、上記で述べた「円善」所縁の真宗寺院である「明法寺、勝髪寺、本證寺、上宮寺」などが真宗本願寺派に改派していく事になり、三河の浄土真宗は高田派と本願寺派に分かれていく事になります。明眼寺は高田派に留まります。そして、三河一向一揆では、家康側につき、一揆側の上宮寺への前線基地の役割を持つことになっていきます。そして一揆平定後、家康より「源」の一字を与えられ「妙源寺」と改称したといいます。
歴史探訪
三河国の真宗高田派の中心寺院として発展してきた「桑子山妙源寺」には高田派門徒であっただろう武将の墓碑が建てられています。特に松平家、徳川家に仕えていた武将の墓も多く、三河武士などに興味のあるか方の多くが一度は参拝した事のある寺院であるといえるのではないでしょうか。
その他にも、「鉄の神様」と称された本多光太郎氏の墓もこちら妙源寺に建立されています。
安藤直次墓碑
妙源寺は紀州徳川家附家老で紀州田辺城主であった「安藤家」の菩提寺となっています。特に、石碑が据えられている「安藤直次」は徳川家康に従い、江戸幕府初期の幕政に参加し、その後紀州徳川家祖「徳川頼信」附家老として紀州藩田辺城三万八千石を与えられた武将になります。その後日光東照宮に奉納された「徳川二十八神将」にもその名をあげられています。
この安藤直次は、妙源寺を創建したと伝えられる「安藤信平」の後裔であると言われている武将であり、安藤直次以降の子孫達も紀州藩附家老でありながら、妙源寺を菩提寺としているようです。
安藤直次の五輪塔に並ぶ様に何基もの五輪塔が、さらに少し離れた場所にも似たような五輪塔が何基も据えられています。もしかしたら、この五輪塔は安藤一族の墓碑なのかもしれません。
平岩親吉墓碑
一番上部の宝珠型が外れて脇にすえられている五輪塔が「平岩親吉」の墓碑となります。徳川十六将にも名を連ねる武将であり、徳川家康の側近だったと言われています。その信頼から尾張徳川家祖「徳川義直」の付家老として犬山城十一万三千石を与えられたと言われています。藩主ではなくあくまでも尾張藩の家老として十一万石余りの石高が与えられるという事は、義直だけでなく徳川家康の信頼がいかに厚かったかが分かります。平岩一族の菩提寺もここ妙源寺であったそうで、親吉の先祖の墓碑もあるようです。
平岩親吉といえば、「毒まんじゅう」の話が有名ですかね。
慶長十六年(1611年)三月、京都二条城にて行われた徳川家康と豊臣秀頼の会見後、護衛を勤めた加藤清正が所領である肥後国に戻る船上にて急死してしまします。余りにも急な死であることから、「毒まんじゅう暗殺説」が囁かれ後に歌舞伎の題材にもなっています。
この毒まんじゅうの毒見役だったのが「平岩親吉」になります。家康と秀頼の会見後、秀頼の暗殺を謀った家康側から出された「毒饅頭」を平岩親吉自ら毒見した後に秀頼にすすめるが、清正が毒饅頭だと察して食べて秀頼を護ったという内容になります。そして平岩親吉、加藤清正は毒饅頭を食べたため死亡したといいます。
何時の時代も、人々は陰謀説が大好きだということなんですかね。
高木清秀墓碑
当ブログでは「日長神社/紹介記事」、「高木城(館)/紹介記事」にて紹介をしている徳川家康に仕え、徳川十六将に名を連ねる「高木清秀」の墓碑です。
清秀は、緒川城主である「水野家」に仕え、三河一向一揆の際、徳川家康への援軍として出陣し武功をあげ、水野家の家臣の立場でありながら、徳川家康から碧海郡高木郷の地を与えられるなど浅からぬ縁があり、本能寺の変の後は徳川家康に仕えています。子である高木正次は加増され「河内国丹南藩」主となり明治維新まで存続しています。
本多忠豊、忠高墓碑
徳川四天王「本多忠勝」の父「忠高」、祖父「忠豊」の墓碑になります。
「本多忠豊」は松平清康、広忠に仕えるが、天文十四年(1545年)九月、広忠が安祥城を奪還する為出陣し、織田軍と清(勢井)縄手において激突しますが、松平軍は織田軍の尾張から援軍と安祥城の城兵に挟み撃ちに遭い破れ、松平広忠を守る為、本多忠豊は織田軍に突撃し、討死してしまいます。後年、討ち死にしたという場所に石碑が設けられ、その石碑には妙源寺の墓から分骨された遺骨が埋められていると言います。
「本多忠高」は父忠豊と同じく、松平広忠に仕えますが、天文十八年(1549年)三月に広忠が病死または暗殺にて死去すると、今川義元は岡崎城を接収し、大原雪斎を主将とする軍勢を派遣し安祥城を攻め込みます。松平軍の主将として戦に参加していた「忠高」ですが、守る織田信広の側の兵のはなった弓矢に当り討死してしまいました。主将を失った松平勢の動揺は激しく、この時は大原雪斎は撤退を決め岡崎城に兵を引いています。
安祥城の本丸跡にある「安祥山大乗寺」の墓所に本多忠高討死した場所に石碑が設けられ、前述した本多忠豊の墓碑と同じく妙源寺の墓から分骨された忠高の遺骨が埋められているといいます。
長坂信政墓碑
長坂信政は松平清康・広忠・家康に代々仕えた武将で、戦では常に槍が血に染まっていたことから清康から「血鑓九郎」の異名を与えられ「皆朱の槍」を許されたといいます。生涯に敵の首九十三級を得たといいます。元亀三年(1572年)死去
この墓碑は、向かって左側に信政の法名、向かって右側は信政の父「信重」の法名が刻まれています。信重側には天文四年(1535年)と彫られています。元々長坂家は足利将軍家に仕えていたようなのですが、どういった経緯で信政が松平家に仕えるようになったのかは不明です。
参拝記
岡崎市立矢作南小学校の西側に今回参拝する「桑子山妙源寺」はあります。小学校から細い路地を入っていくと正面に妙源寺の山門である薬医門が正面に見えてくるはずっです。非常にひっそりと建っているので、本当にここに国の重要文化財に指定されている「柳堂」があるのかな?とおもってしまうほどです。
山門
薬医門の山門になります。門の側面に倒壊防止用の鉄製の支え柱が設けられています。見る限りでは支え柱がなくても大丈夫っぽくみえるのですが、近い将来やってくる東海地震or南海トラフ地震対策としては必需品の耐震アイテムとなっているのか、支え柱が設けられている神社仏閣が非常に多いですね。当サイトでも今まで紹介してきた神社、寺院で同様の倒壊防止の支え柱が設置されている所を何ヶ所も紹介してきていますね。
楼門
山門を潜り、妙源寺本堂の正面側に建立された楼門がたっているのですが、倒壊防止のための支え柱がこれでもかといった感じで設置されています。特にここ妙源寺の楼門の一階部分には壁がもうけられておらず、柱となる八脚と門柱のみの構成となっていて、見るからに「頭でっかち」の構造となっていますね。ただこういった造りでもこれ前何度も襲ってきているであろう地震や台風などには耐えている所を見ると、思いのほか耐震性は高いのかな?と思わざるを得ないのですが、それでも視覚的に少し怖さを感じてしまうのは仕方ない所かなと思います。
四脚門
薬医門を真っ直ぐ進むと、国の重要文化財である「柳堂」の正面に建てられている銅葺の四脚門が建てられています。寺院のこういった門で瓦葺ではなく銅葺の門って珍しいのかなと感じています。今まで紹介してきた寺院の中に銅葺の門のある寺院ってあったかなあ・・・。
手水舎
木造瓦葺六本脚タイプの手水舎になります。それぞれの柱に転びが設けられていて、上で紹介している楼門と異なり非常にどっしりとした安定感のある様に感じさせる手水舎です。
本堂
入母屋造瓦葺平入の向拝が設けられ高覧のある濡れ縁がある本堂になります。真宗高田派の寺院は始めて参拝させて頂くのですが、本堂を見て浄土真宗の本堂っぽいなと感じてしまうあたり、浄土真宗の本堂だぞと感じさせるなんらかの不文律があるのやもしれません。
柳堂
やはり妙源寺と言えば何と言ってもこの「柳堂」になります。棟札などから建てられたのは正和三年(1314年)であるとされています。鎌倉時代の末期といってもいい時期になります。由緒の所で紹介している安藤信平が出家し「念信房蓮慶」と称するようになり聖徳太子像を奉安する為に建立した御堂は何らかの原因で消失(焼失?)してしまい、正和三年に再建された柳堂が現在まで続いているとされています。再建といっても建立されて700年が経過している非常に重要な鎌倉建築の建物と言えます。
鎌倉建築の御堂といえば、西尾市吉良町饗庭にある「青龍山金蓮寺」の境内にある国宝「弥陀堂」を思い浮かべます。弥陀堂は昭和28年の解体修理を経て昭和30年に国宝指定となっているのですが、修理前の写真を見ると瓦葺の御堂となっていたようで、それを修理によって本来の姿である茅葺に戻したとされています。
弥陀堂の様に瓦葺から茅葺に戻すなど構造変更を伴った修理を行っても「国宝」にしていされるとするなら、ほぼ同じような年代に建立された妙源寺の柳堂も十分国宝に指定される可能性があるのではないでしょうか。
その証拠に既に「国宝柳堂」と彫られた石柱が用意されています・・・・。文化財指定の基準が変わった為、戦前は国宝でも戦後は重要文化財となっている文化財は数多くあり、ここ妙源寺柳堂も石碑を見る限り戦前は国宝だったようですね。
そして、妙源寺門前には、親鸞聖人説法奮趾柳堂と彫られた石碑が据えられていまっす。真宗三河教団の発祥地と言っても過言ではない柳堂の後裔を称する為、または真宗本願寺派との布教争いの為、史実を変えて親鸞聖人がこの地で説法をしたという「柳堂伝承」を創作してしまう訳ですが、文化庁や愛知県の柳堂の説明を読むと現代でも「柳堂伝承」が生きている事がわかってきます。そしてこれからも「柳堂伝承」が伝えられていくのではないでしょうか。
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やはり、旅先の情報はネット検索もいいですが、るるぶなどの旅行ガイド雑誌が一番ではないかなと思います。ネット情報はどうしてもディープになりがちで、いざ旅行に行こうと思っても、俯瞰的な情報が不足しがちな気がします。
やっぱり、"るるぶ"を見ながら、旅の予定表を作っていくのも、旅行の醍醐味ですよね。
所在地を地図で確認
寺院名 | 桑子山妙源寺 |
所在地 | 岡崎市大和町字沓市場六十五番地 |
最寄駅 | JR東海 東海道本線「西岡崎駅」徒歩4分 |
寺院・霊場巡りの際のバイブルに
元々、当サイトは神社巡りを通じて、皆様の住んでいる所にある"村の鎮守の神様"と呼ばれる神社を紹介してくサイトを目指していたんです。むしろ寺院については、縁遠いものとおもっていたんですよね。しかし、ちょっとした御縁で弘法大師霊場に出会い、そして愛知県では一番活動が盛んな"知多四国霊場"を巡礼、結願する事になりました。でも、神社の事はある程度知識があっても、寺院については未知の世界だったので、少しでも巡礼の時に役に立てばと思い、こちらの本を読ませて頂いております。
少しでも巡礼の時にお役に立てる事もあるかと思います。是非一度読んでみてくださいませ。