天林山笠覆寺(名古屋市南区笠寺町) 名古屋二十一大師 十六番札所

 名古屋二十一大師、尾張四観音を始めとする非常に多くの霊場の札所に名を連ねる寺院。別称「笠寺観音」と呼ばれますが、こちらの方が名が通っているかも。松平竹千代と織田信広との人質交換の地として有名です。

寺院情報

寺院名天林山笠覆寺
所在地名古屋市南区笠寺町上新町八十三番地
御本尊十一面聖観世音菩薩
宗 派真言宗智山派
創 建天平五年(733年)
札 所名古屋二十一大師 十六番札所
大名古屋八十八 四十三番
尾張新四国霊場 一番札所
尾張四観音
尾張観音霊場 三番札所
尾張西国観音霊場 十五番札所
なごや七福神 / 恵比寿
御朱印
H P〇 / web

参拝日:2020年2月5日

由緒・沿革

 名古屋城築城の際、徳川家康は鬼門の守護として四ヶ寺を選定しています。この四ヶ寺を「尾張四観音」と呼びます。今回納経する「天林山笠覆寺」は、「笠寺観音」とも呼ばれ、尾張四観音の一つに数えられている名刹です。
 「愛知郡誌」によると、「天平年中(729-749年)、僧禅光の開基なり」と書かれています。注釈に、天平八年、又は五年、天平勝宝五年の説が上げられ、坂野という所に住む僧禅光が十一面聖観世音菩薩を刻み、現在の境内地より南に六町離れた場所に堂宇を建立したとあります。この時の寺名は「天林山小松寺」と称していたそうです。
 その後、百数十年の時を経て、堂宇は朽ち、観音像は雨露にさらされていたといいます。鳴海の長者「太郎威高」の家女(召使いの様な感じでしょうか?)の娘が雨に打たれた観音様を見て、自分の笠を外して観音様に被せています。鳴海の地に立ち寄った時にこの話を聞いた(見た?)「藤原兼平(875-935)」は、この娘を嫁として京の都に連れて行き、彼女は「玉照姫」と呼ばれる様になります。藤原兼平と玉照姫は、現在の境内地に結ばれるきっかけとなった小松寺を移転復興させます。この時、寺名を小松寺から「笠覆寺」に改称しています。御察しの通り、玉照姫が観音様に笠を被せた事に因んだ寺名であり、笠寺という地名の由来にもなります。

 「尾張名所図会」には、笠覆寺の寺名の由来となった、藤原兼平、玉照姫の出会いの場面が描かれています。

 藤原兼平より寺領数百歩の寄進を受け大いに栄えた笠覆寺(塔頭十二坊を有する巨刹だったとも言われています。)ですが、時は流れ鎌倉時代になると、寺領を失い再び荒廃してしまします。嘉禎四年(1238年)、住職阿願上人が笠寺周辺を治めていた「比丘尼念阿弥陀仏」から荒地となっていた土地と水田の寄進を受けています。しかし、この笠寺周辺の土地の管理は「熱田神宮」が行っていた為、同年十二月に寄進を受けた土地の使役の免除(不介入)を求めた「尾張国笠寺沙門阿願申状」を熱田神宮に対してたてまつり、これが熱田神宮より認められ、笠覆寺の再興へと繋がります。
 これ以降、笠覆寺は何度か堂宇の再建造営が行いながら徐々に往年の寺勢を取り戻しつつあったようです。そして、戦国時代、歴史上の出来事の舞台として笠覆寺は其の名を刻むことになります。

歴史探訪

 天文十八年(1549年)十一月九日~十日、笠寺「笠覆寺」において、織田家の人質である「松平竹千代」と今川家の人質である「織田信広」との人質交換が行われています。

松平竹千代

 天正十六年(1547年)、岡崎城主だった「松平広忠」は尾張の織田信秀の侵略に頭を悩ませていました。天文四年(1535年)、尾張国「守山城/紹介記事」を攻め込み包囲していた松平軍は、その陣中において主君「松平清康」が家臣の阿部正豊に殺害されてしまう「森山崩れ」により壊滅、岡崎城に向けて敗走します。突然の松平家惣領であった松平清康の死によって松平家は内部抗争状態に陥ってしまい急速にその勢力を衰えさせてしまいます。一時は織田家の後押しを受けていたとされる桜井松平家の「松平信定」が松平家本城となっていた岡崎城に入城していましたが、今川家の後押しを得た松平清康の嫡子「松平広忠」が岡崎城に近づくと、松平信定は岡崎城から出て自らの居城であった桜井城に移り、松平広忠が岡崎城に入城し、松平家惣領の立場につく事になります。しかし、この時、織田家または今川家の介入を招いたことで松平家は大幅に衰退してしまいます。

 天文九年(1540年)には、安祥城が織田信秀率いる織田弾正忠家によって陥落してしまいます。さらに、今川方であった水野信元が織田家側に寝返ってしまいます。(これにより広忠と「於大の方」が離縁する事になります。)そして、織田家は松平家への圧力を強めていく事になります。
 そして、最初に挙げた天文十六年(1547年)、松平広忠は今川家の支援を得る為に嫡子「松平竹千代(後の徳川家康)」を人質として駿府に送る事を決意します。これは、これ以上の支援が欲しければ嫡子竹千代を人質として差し出せという今川家の要求に従ったものです。

 松平竹千代は現在の蒲郡市竹谷町にある「犬飼湊/紹介記事」より航路にて駿府を目指すことになっていたようですが、この時同行、船頭役だった田原城主戸田康光が突如裏切り、竹千代を織田方に届けてしまいます。一説には銭千貫文で織田信秀に売り払われたとか。
 戸田康光は、今川義元によって田原城を攻め落とされ、討ち取られてしまっています。なぜ今川家を裏切り織田家に竹千代を売り払ったのかは不明ですが、これにより、松平竹千代は織田家の人質となり、再三再四、松平家に対し織田家に従属を求める旨の要求が行われたと想像に難くないです。

織田信広

 織田信秀の長子として生まれた「織田信広」ですが、庶子であったため、信長の兄というより織田信秀の一族という立場だったといわれています。しかし、信長よりある程度は年が離れていたと言われ、織田信秀の信頼も厚く、織田軍の中でもかなり重要な地位にいたと思われます。
 その証拠に、織田信広は、父信秀が天文九年に攻め落とした「安祥城」の城主に任ぜられ、対松平家・今川家の最前線を任されています。
 そして、天正十六年、今川義元の元に向かうはずであった「松平竹千代」を織田信秀が奪取した事から、一気に岡崎城、安祥城の間は緊張に包まれていきます。再三、松平広忠に対し従属の要求を行っていた織田信秀はついに天正十七年(1548年)、岡崎城を攻め落とす為、安祥城主「織田信広」を先陣とした総勢4000~5000の軍勢にて矢作川を渡河し上和田の地に着陣します。これを迎え撃つのは松平軍と「太原雪斎」を大将、「朝比奈泰能」を副将とした今川軍総勢10,000の軍勢になります。この戦いを「小豆坂の戦い」といいます。結論から申しますと、この戦いで織田軍は破れ、安祥城に敗走しています。松平家は今川家の援軍を得てこの戦いに勝利していますが、今まで以上に今川家による介入が大きくなっていきます。
 そんな小豆坂の戦いの翌年の天文十八年(1549年)、松平家の「松平広忠」は家臣の岩松八弥に殺害されてしまいます。(広忠の死因については所説あり、病死、一気による殺害などが上げられています。)
 今川義元と立場で見てみると、対外的には独立勢力とみられる松平家ですが、実際の所は今川家の指揮下にあり、いわば属国の様な存在だと見る事が出来ます。しかし、指揮下にあるとはいえ松平家の当主である松平広忠が死亡し、無城主状態となってしまう岡崎城をそのまま今川家の指揮下の下においておくとなると、次期松平家当主となる「松平竹千代」が織田家の人質として健在である状況では、今川家としては岡崎城を自らの庇護下においておくという大義名分を失ってしまう事になります。
 そこで、今川義元と大源雪斎は松平竹千代を奪還すべく、軍勢を安祥城に向けて出陣させます。この戦いを「安祥合戦」と言います。そして、今川軍は安祥城を攻め落とし「織田信広」を生け捕りにすることに成功します。そう、この戦いは安祥城を攻め落とすとともに城主である「織田信広」を生け捕りにする事が主たる目的だったと言われています。

人質交換

 「織田信広」を人質とした今川義元は、織田信秀に対し、奪われた「松平竹千代」との人質交換を申し入れます。(この時、父信秀から人質交換の話を聞いた織田信長は「織田信広を見捨てろ」と言ったとか。)信秀は義元の申し入れを受け入れ、人質交換に同意します。
 そいて、天文十八年(1549年)十一月九日または十日に、笠覆寺の境内において、松平竹千代と織田信広の人質交換が行われます。これにより約二年ぶりに岡崎城に戻る事が出来た竹千代でしたが、今川義元は岡崎城に竹千代を置く事はよしとぜず、数日後には駿府城に竹千代を移しています。
 竹千代が元服し、松平元康となり岡崎城に帰還するのは、永禄三年(1560年)におきた桶狭間の合戦後になります。織田家、今川家に振り回された十三年にも及ぶ人質人生だった訳です。
 織田信広は一度は稲葉山城の「斉藤義龍」と手を組み、織田信長に対し謀反を企てますが失敗しますが許され、信長に仕えたとされます。しかし、天正二年(1574年)長嶋一向一揆の制圧の際討ち死にしています。

 その後、江戸幕府が開幕し、徳川家康の天下普請により「名古屋城」が築城されることになります。名古屋城を中心にして鬼門の方向にある寺院を鬼門鎮護寺とした「尾張四観音」に名を連ねる事となります。江戸時代を通じて非常に栄えた寺院だったのでしょう。

 「尾張名所図会」には、江戸時代の笠覆寺の境内の様子が描かれています。元々の境内地であるとされる「観音塚」も描かれています。

名古屋二十一大師を行く

 十五番札所「海底山地蔵院/紹介記事」を納経後、更に旧東海道沿を進み、名鉄本線の踏切を渡り、名古屋市環状線の交差点を超えると前方に今回納経する「天林山笠覆寺」が見えてきます。毎月六の付く日に行われている「六の市」が非常に有名ですね。

 十七番札所である「増益山大喜寺/紹介記事」から二十番札所である「普照庵龍福寺/紹介記事」までは名古屋二十一大師霊場遍路の旅初日に納経をさせて頂いていますので、ここ笠覆寺を納経したら、残すは二十一番札所「八事山興正寺」を残すのみとなります。あと一札所だけになるのですが、残念ながら興正寺まで行く時間は残っておらず、後日納経することになります。

参拝記

 旧東海道沿いに建っている「天林山笠覆寺」になります。江戸時代、東海道を行き交う人達の多くが参拝していったのでしょうね。駐車場は少しわかりにくいのですが、境内の西側と東側に用意されています。(2019-20年にかけて笠覆寺では造営工事が行われていて、西側の駐車場が使用不可になっているので注意してください。)

山門

 南入りの位置にある仁王門の山門と「尾張四観音之一 天林山笠覆寺」と彫られた寺号標が据えられている境内入口になります。

 山門から本堂に向かって真っすぐに参道が伸びています。山門越しに真っ直ぐと伸びる参道の先に本堂が建つ光景は何とも言えぬ趣きを感じてしまいます。

手水舎・水盤

 今まで紹介してきた手水舎の中でも一番の規模ではないかと思います。入母屋造銅葺の屋根に支柱を含めて十六本の柱を有し、二面には壁が填めらえた形の手水舎になります。名古屋市の「登録地域建造物資産」に選定されています。

本堂

 入母屋造瓦葺平入の向拝の設けられた本堂になります。階段を上り本堂内に上がらせて頂く造りなのですが、階段の一部を常設のスロープが設けられている造りになっています。バリアフリーの一環もあると思いますが、参拝者が多い寺院ではこういったスロープがあった方がスムーズに参拝者の入れ替えが行われている様に思えます。

 外陣の天井部分には数多くの千羽鶴が掲げられていました。ここまでの千羽鶴が掲げられているのは他では中々見ないですね。

 弘法大師像は本堂の横にある護摩堂に奉安されているそうなのですが、参拝当時は護摩堂が建て替え工事の為、たぶん、弘法大師像も本堂に奉安されていたんだと思います。

「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」・・・

 本堂の大棟部分の瓦に笠の柄の化粧瓦が填められていました。この笠の柄が笠覆寺の寺紋のようですね。(2020年4月現在、本堂の改修工事の為足場が組まれており、瓦も総葺き替えされるようです。

名古屋十名所の碑

 本堂の前には、「名古屋十名所」と彫られた石碑が建てられていました。中日新聞の前身である「新愛知新聞」が大正十三年に投票によって選出した名古屋市の十名所の一つに選ばれた事を示す石碑になります。
 側面には、十名所の一覧が載っています。

熱田神宮名古屋城笠寺観音
闇ノ森榎ノ権現櫻田勝景
圓頓寺久屋金刀比羅 山田元大将之社
天理教々務支庁

 ハガキによる投票で上位十選を選んだと言われています。何でしょうかね・・・組織票のにおいがしてきます・・・・。

玉照堂

 笠覆寺の寺名そして笠寺の地名の由来となった玉照姫と藤原兼平公のお二人の位牌と木造が奉安されている御堂になります。明治維新の時、廃仏毀釈の運動中で旧玉照堂は失われてしまいましたが、およそ100年ぶりに再建されています。
 お二人が出会った経緯から、出会い・縁結び参りの参拝者が後を絶たないんだとか。

西門

 地蔵院から旧東海道を東に向かって進んでいくと、最初、笠覆寺の西門に行き当たります。旧東海道は西門から右手に曲がって笠覆寺の境内に沿うように東に向います。こちらの西門の前には尾張四観音が彫られた石柱と共に「尾張西国観音十五番札所」である札所案内石柱が据えられています。

地図で所在地を確認

寺院名天林山笠覆寺
所在地名古屋市南区笠寺町上新町八十三番地
最寄駅名古屋鉄道 名鉄本線「本笠寺駅」徒歩5分

次の目的地は?

 笠覆寺の塔頭だった「天林山再方院」を参拝します。こちら西方院は大名古屋八十八ヶ所四十五番札所になっています。

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