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護念山 正龍寺(西尾市吉良町小山田) 三河海岸大師 二十五番札所

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寺院情報

寺院名 護念山 正龍寺
所在地 愛知県西尾市吉良町小山田字稠六十五番地
御本尊
宗 派 浄土宗西山深草派
創 建 永和二年
札 所 三河海岸大師 二十五番札所
三河海岸大師 二十八番札所
東条吉良観音 十三番札所
御朱印
H P

参拝日:2018年9月24日【再訪】

前回の参拝記事は

沿革・由緒

当山は九十九代天皇「後亀山天皇」永和二年三月得華和尚の創立する所にして元真言宗なり。其三月十四日入佛の際天龍来降の瑞ありて因て正龍寺と号す。清和源氏の裔松井四郎維義十二代の孫松井山城守忠勝、永享十二年小山田の郷に築城し、松井を以て姓とす。偶々当山三世祖慶を帰依して香花の寺とす。後又幡豆の郷寺部に城地を開く。特に、信光松井五郎左衛門に命じて饗庭の城を併領せしめ、松井左近将監をして其の三城の主とす。五代左近忠次東城に移り、幾度の軍功に依って天正三年家康より一字を賜り、松平周防守康親と改む。以来石州、泉州、陸奥等に移り六万七千石を領せり。又、当山五世融山の時霊夢に依って忠勝の念持佛千手観音を当山に奉安せられたり。また、九世存慶は浄正寺を建立し、廿世興室は文明年中松平周防守の許可を得て本堂、総門鐘楼等の再建をなす。後廿一世滿室の時偶々当時悲運に遭遇し、荒廃其極に達し寺鐘等悉く亡失す。時に祝室海蔵寺より来りて維持方を建てつつ住職とす。後霊光、光室を経て負債山を爲し、爲めに光室は神経に罹りて病死するに至る。光覚は其の弟子として明治二十七年を以て二十九代を承継し、同三十一年信徒と同心協力して負債を悉く償却し面して諸堂の修繕をなし、以て今日に至り。開祖以来二十九台に及ぶ

「幡豆郡吉田村誌」より

正龍寺の創建年とされる永和二年は西暦1376年になります。由緒を見ていると後亀山天皇の在位中の和暦の様に読めてしまいますが、後亀山天皇が即位していたのは西暦1383年~92年になりますので、永和二年を正しいとするなら、九十八代「長慶天皇」の御代の時代の和暦という事になります。
※この吉田村史が書かれた大正四年時点では長慶天皇は歴史的資料の乏しさから九十八代天皇として認められておらず、後亀山天皇がすでに即位していたと考えられていたのかもしれませんが・・・そうなると後亀山天皇は九十八代と書かれているはずなんじゃないのか?という疑問は残る訳ですが・・・。
由緒の中に出てくる”・・・信光松井五郎左衛門に命じて饗庭の城を併領せしめ、・・・”の中に出てくる「信光」は松平信光の事を指すと思われます。
当サイトですでに取り上げています「青龍山金蓮寺」「饗庭神社」「饗庭城址」などの記事の中で紹介していますが、饗庭妙鶴丸による新興勢力である松平信光を呪い殺さんと金蓮寺の不動明王に祈願していたが、松平氏側に情報が漏洩し、饗庭妙鶴丸は饗庭城にて自害したという事件が起き、松平信光の命に依り饗庭城は松井氏に治められることになり、饗庭城主の饗庭氏は滅亡してしまうという一連の流れが書かれています。
一つ疑問なのが、松井氏は当時東条吉良氏に属する武将であり、直接松平氏との主従関係はないと思われるのですが、どういった経緯で松平信光から饗庭城を領する様に命令がでたんでしょうね。

その後、昭和三十七年、九世存慶が建立した浄正寺が廃寺となり、正龍寺に合併されます。合併に伴い、三河海岸大師二十八番の札所も浄正寺から正龍寺に移動しています。

正龍寺 所在地

参拝記

小山田地区の一番奥?に位置する場所にあるのが正龍寺になります。松井氏の居城だった波城を一望できる場所にあり、松井忠次より以前の松井氏の香華所(菩提寺)になっています。

山門

平成二十九年に改築された袖壁が設けられている薬医門の山門になります。改築とされているので、一から作り直していない為なのか、倒壊防止の鉄製の支柱が設けられています。薬医門を新築で作ろうとすると前面に支柱がいるのかもしれませんが・・・。でも、支柱で支えられている薬医門も少ないんですけど・・・。この辺りの耐震基準はどうなっているんですかね。

寺号標

平成二十九年山門改築記念で建立された寺号標になります。
石の表面の質感からも新しいぞ!と主張している感じがします。

始め参拝した時には、三河海岸大師という弘法大師霊場の存在を知らず、この霊場札所案内の石柱にも全く目が行きませんでした。それが、三河海岸大師霊場に存在に気付き、色々な霊場の札所を巡る様になると、今度は自然に石柱に目が行ってしまう自分がいて、なんとも不思議な感覚を感じています。

写真の左側の二十八番札所と彫られている石柱が、廃寺となった浄正寺から移築された石柱になります。こうやって横並びで建っていると、移動してきた二十八番札所のが目立ってしまっていますね。

手水舎・水盤

瓦葺木造四本柱タイプの手水舎になります。
水盤に彫られている「香海」とはどういういみなんですかね・・・。

本堂

寄棟造瓦葺平入の向拝の設けられた本堂になります。浄土宗の本堂でよく見かける濡れ縁が設けられています。

本堂の軒先には山号が書かれた扁額が掲げられていました。

観音堂

西国三十三観音霊場の薄し本尊が祀られている観音堂になります。こちらの観音堂も山門と同じくして立て直された様な感じです。一列で観音像を並べるとかなり大きな観音堂になるんだなと改めて実感します。

松井氏の墓所

正龍寺の一角には、松井氏歴代の当主の墓石が安置されています。
写真を見て頂くとわかりますが、明治維新後、子爵に任ぜられた松井氏によって整備されたんでしょうね。

松井氏が大きく発展した時の当主「松井忠次」の墓地は、正龍寺ではなく、東条城の近くにあった法応寺の墓所に埋葬されています。しかし、法応寺が廃寺となってしまい、墓所も整理されてしまう事から、松井忠次の墓所は吉良町岡山の花岳寺境内に移設されています。

松井忠次の墓所は、上記で述べた法応寺の他に、
静岡県沼津市の千本山 乗運寺
茨城県笠間市の月崇寺
の二箇寺に安置されています。

塀で囲まれた中には、五輪塔が並んでいました。

参拝を終えて

二度目の参拝となった正龍寺ですが、前回に比べると寺院の中をしっかりと見ることができたのかなと思います。今までも再訪した神社などは一回目よりも細かい場所に目が行くことが多く、機会があれば色々な神社仏閣を再訪してみたいですね。

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