寺院情報
寺院名 | 禅林山 良参寺 |
所在地 | 愛知県知多郡美浜町小野浦清水十八番地 |
御本尊 | 聖観世音菩薩 |
宗 派 | 曹洞宗 |
創 建 | 天正十三年(1585年) |
札 所 | 知多四国霊場 四十八番札所 知多直伝弘法 五十三番札所 知多百観音霊場 六十四番札所 |
御朱印 | 〇 |
H P | - |
参拝日:2018年10月3日
知多新四国霊場公式ホームページのご紹介
http://chita88.jp/
沿革・由緒
天正十三年(1585年)に開創され、享保十八年(1733年)に現在の地に移転建立。千石船の隆盛を極めた文政八年(1818年)に庫裏を、弘化二年(1845年)に本堂が再建されています。
「知多四国めぐり」より
南知多町の内海も江戸時代末期から千石船の交易で隆盛を極めていましたが、ここ美浜町の小野浦も千石船の海運基地として全国的に名前が知られていたんだとか。そして、天保三年(1832年)十月、この小野浦出身の当時14才の音吉が乗組員として乗船した千石船の宝順丸が遠州沖で暴風雨の為、難破・遭難してしまいます。十四ヶ月の漂流の末、北米ワシントン州ケープ・アラバにたどり着きます。十四名の船員中三名のみがたどり着けたんだとか。生き残った三名が岩吉、久吉、音吉で「三吉」と呼ばれることも。
この三名は、その後英国に保護され、ロンドンを経由して日本に向けて渡航しています。その中で、聖書の日本語翻訳に関っていきます。特に、語学が堪能だった音吉が中心的な役割だったと言われています。
キリスト教が禁教だった江戸幕府に対し、帰国する際キリスト教に拘ると罪に問われると思い、最初は翻訳の依頼を断り続けていたといいます。しかし、翻訳を通じて、キリスト教に興味を持った音吉は後に改宗しクリスチャンとなっています。
音吉は、紆余曲折を得てシンガポールに移住し、慶応三年(1867年)に49歳で亡くなり、現地にて埋葬されます。音吉の墓は開発事業などで移動されてしまい確認ができなかったのですが、2004年に発見され、翌2005年、遺骨の一部が日本に帰国し、音吉の先祖代々の墓と、良参寺にある宝順丸の船員慰霊の墓に納められることになります。実に173年ぶりの帰国ということですね。長い旅路ですね・・・。
音吉についての詳しい事はこちらから
http://www.town.aichi-mihama.lg.jp/docs/2013100806067/
知多四国霊場を行く
国道247号線から一本奥に入った場所にあるのが良参寺になります。国道沿いの電子柱に良参寺への案内看板が掲げられいるので、内海の市街を出た海沿いを走り始めたら注意しながら進んでください。
管理人が行く知多四国霊場巡礼の旅
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参拝記
小野浦地区の集落で一番山側になる場所にあるのが良参寺になります。
境内入口の脇には、地蔵堂が建っています。ストリートビューの画像で右側にパーンしてもらうと宝形造の地蔵堂が見えてきます。この地蔵堂の脇に2~3台分の駐車場があります。
なにかストリートビューと同じようなアングルの写真になってしまいましたが・・・。
良参寺の道路側には壁が設けられています。山門の周りの壁の造形は非常に雰囲気がありますね。
山門
袖壁が設けられた、薬医門の山門になります。
ここの山門の屋根には、鯱が一対掲げられていますね。ただ、老朽化が進行している為、針金などで補強されているのが痛々しいです。
鐘楼
寄棟造瓦葺の鐘楼になります。鐘楼の下部は袴腰が設けられています。
鐘突堂、鐘楼を見てきて、寄棟造の屋根の形状は少数派だと思います。
本堂
入母屋造瓦葺平入の向拝の設けられた本堂になります。曹洞宗の本堂らしく、濡れ縁は設けられていませんね。
中央には、本尊である聖観世音菩薩が安置されています。
大師堂
本堂の向かって左手にある大師堂になります。
三間の建物で、向かって左側には秋葉山三尺坊が安置され、中央には弘法大師像が、向かって右側には観世音菩薩が安置されています。
良参寺の弘法大師像は、「お助け大師」と言われています。
1.昭和三年四月十六日早朝、名古屋市御器所の大正講の団体参拝があり、木村石次郎先達に引率された百七名による徒歩参拝の一行です。その中に父親に手を引かれた十八才の盲女「服部あき子」さんがいました。良参寺の山門を潜ると眼前にパッと光がさし、御大師様の真前で一心にお祈りとしているうちにあたりがぼんやりと見える様になりました。
「ありがたや 光を隠す 雲晴れて 大師の慈悲に 杖おさめいく」
此の事を示す奉納額が大師堂の軒下に掲げられているそうです。(今回参拝した時には気付かなかったので、直伝弘法大師の巡礼をした時に改めて確認させて頂きます。)
「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」・・・
金毘羅堂
江戸時代末期、小野浦の中心に千石船の運行が盛んだったころ、海上交通の安全を祈願するために建立されたという金毘羅堂になります。やっぱり海上交通が盛んな場所には金毘羅山が祀られていますね。
宝順丸船員の墓地
山門を潜ると、上記のような看板が見えます。
音吉の遺骨が良参寺に埋葬された流れが書かれています。この良参寺に参拝するまで、音吉の存在を全く知らなかったので、最初は思いっきりスルーしていました。
参拝し、納経後、改めて看板を読んで、何やら千石船が難破して際の乗組員の墓地があるのかな?くらいの感覚だったのですが、一度拝見させて頂こうと思い、矢印の方向に進むことに。
墓地の一角に、宝順丸乗組員十四名の墓が安置されています。
江戸時代は鎖国政策もあり、遠洋に適さない船しか建造されてこなかったため、想像以上に音吉の様に漂流して外国に流れ着いた日本人が多かったそうです。有名なのが、ジョン万次郎ですかね。
音吉の遺骨が帰国した為、この宝順丸の船員達の墓地が紹介されていますが、それ以前だったら看板もなく知ることがなかったかもしれませんね。
「合掌」
秋葉山常夜燈
常夜燈データ
種 別 | 秋葉山常夜燈 | 建立年月 | 不明 |
設置場所 | 愛知県知多郡美浜町小野浦清水、良参寺山門前 | ||
形 状 | 宮立型(宮前型) 基壇2段、土台石3段 | ||
竿部刻印 | 前面「秋葉山常夜燈」 | ||
台石刻印 | - | ||
火袋台石刻印 | - |
良参寺の山門前には、秋葉山常夜燈が据えられていました。
基壇は非常に薄い石材で組まれていて、その上に、比較的縦長の竿石が用いられた常夜燈本体が据えられています。又、献灯する場所が火袋石ではなく、ガラスが填められた木枠になっています。
境内に秋葉三尺坊大権現が祀られていたので、こちらの常夜燈はこの秋葉三尺坊に関係する物ではないかと思います。
御朱印
参拝を終えて
こちら良参寺は、数少ない知多四国霊場と四国直伝弘法の札所を兼ねている寺院になります。ただ、境内を見渡しても知多四国霊場ばかりで、四国直伝弘法を示すものがほとんど存在していません。この辺りは巡礼者の数の違いが如実に表れてしまいますね・・・。
次の目的地は
良参寺を後にして、次は知多四国巡礼の旅七日目最後の札所になる「護国山 吉祥寺」を参拝します。