今川義元方に与した「鳴海城」を包囲する為に永禄二年(1559年)に築かれた砦の一つの「中島砦」になります。鳴海城下を流れていた扇側と手越川の合流地点の中州に築かれた砦になります。
城郭情報
城名 | 中島砦 |
所在地 | 愛知県名古屋市緑区鳴海町下中地内 |
築城年 | 永禄二年(1559年) |
築城主 | 織田信長 |
城形式 | 平城 |
遺構 | - |
規模 | 長さ八十間(144m)、幅五十間(90m) |
備考 |
訪問日:2020年8月26日
沿革・詳細
織田家家臣であり鳴海城主であった「山口教継」は、織田信秀亡き後跡目を継いだ「織田信長」の能力に対し疑問視しており、織田家を裏切り今川義元に寝返っています。この時、「沓掛城」「大高城」を調略を用いて奪取しており、この山口教継の動きにより、今川家の勢力圏がそれまでの安祥城周辺から一気に尾張国の鳴海周辺に伸びてきて、一気に織田家は窮地に陥る事になります。
織田信長は駿河から今川軍本隊が出陣する前に鳴海城、大高城を攻め落とすつもりではなかったかと思います。その為、大高城には「鷲頭砦」「丸根砦」「氷上砦」「正光寺砦」を築き、大高城を包囲し兵糧攻めを行っています。また、鳴海城には「丹下砦」「善照寺砦」「中島砦」を築いて包囲しています。(ただ、兵糧不足で城に生えていた草木まで食べたとする大高城に対し、鳴海城では兵糧不足に陥ったとする伝承は残っていない事から、鳴海城は備蓄が多かったのか、または海路で兵糧が運び込まれていたのか、または包囲網が甘かったのか・・。)
鳴海城を包囲する三砦の中で、今回紹介する「中島砦」は他の砦と異なり、海又は川沿いに作られた砦となります。その為鳴海城からは見下ろす形の砦であったと思われます。立地から見て、今川方の沓掛城との間の遮断を意図として築かれたのかなと思います。
永禄三年(1560年)、遂に駿河国より今川義元が大軍を率いて尾張国に向けて出陣します。以前は上洛の為の出陣だったと言われていましたが、近年の研究から尾張国においての勢力圏の確保を意図とした出陣だったとされてきています。
義元の本隊が沓掛城に入城したとの報を聞いた信長は軍議を打ち切り、早朝に敦盛を舞い、茶漬けをかきこみ、突如出陣したという。この時付き添ったのは五騎のみともいわれていますね。そして、熱田神宮にて戦勝祈願をしている間に軍勢が集まり、今川家から気付かれないように進軍し、「善照寺砦」に入城したとされます。この時、今川家側からみて反対側の丘陵の斜面に軍勢を待機させていたといいます。
信長が善照寺砦に入城したという報が中島砦にも届くと、中島砦にいた佐々隼人正政次・千秋四郎季忠ら300人が今川軍に攻撃を加え、両将以下50人が戦死したといいます。なぜ、いきなり今川軍に特攻したのか不明なんだとか。
その後、信長は「善照寺砦」から桶狭間山に布陣していたという今川軍に見せつけるように「中島砦」に向けて丘を下って移動したとか。そしてその後、突如振り出した雨に乗じて中島砦を出陣した信長軍は今川義元の本隊のすぐ近くにまで進軍しています。
当サイトでは、桶狭間の戦いの史跡を紹介している特集ページを作成中です。随意更新中ですので是非こちらも見てみて下さい。
訪問記
東海道の鳴海宿の南側を流れる「扇川」とその支流「手越川」の合流する中州に今回紹介する「中島砦」が築かれていました。江戸時代に作られた東海道はまさにこの中島砦を縦断するように作られた街道だったみたいですね。
中島砦の遺構については、都市化や護岸工事などで全く残っていません。ただ、地元の方達が昭和二年に中島砦の石碑を建立し、桶狭間の戦いで戦死した方々の追善法要を行っています。現在でもその石碑は残っていて、土地の所有者の方の好意で見学する事ができます。
石碑が置かれている場所は、ブロック塀が気付かれていて、その一角に「中島砦跡」と書かれた看板が設置されています。
自由に見学できると言われても中々他人のお宅?のフェンスを開けて中に入るっていう行為にかなりの勇気が必要なのは、自分だけではなく中島砦を取り上げられているサイトを見るとそんな感想を述べられている先輩方が多く、この門を開けずに立ち去った方も多いのかもと思う訳です。
こちらが昭和二年に建立された「中島城址」と彫られた中島砦の石碑になります。城と砦の間には明確な区別はないと思うので、城でも間違いないのでしょうね。
地図で所在地を確認
城郭名 | 中島砦 |
所在地 | 愛知県名古屋市緑区鳴海町下中十番地 |
最寄駅 | 名古屋鉄道 名古屋本線「鳴海駅」徒歩6分 |