霊場巡りの旅

2019年の初めとして知立三弘法を巡礼してきました。

2019年1月13日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

2019年に入り、新年最初の巡礼はどこに行こうかと思案していたのですが、知多四国霊場も結願させて頂き、新たな巡礼先を求めて、今回は三河新四国霊場の納経帳を頂きに出かけようと知立市に向かって出発することにしました。

弘法山 遍照院

知立市弘法町に鎮座する弘法山 遍照院は三河新四国霊場の開創札所となっていて、三河新四国巡礼の際一番最初に納経する場所になっているんだとか。そして参拝後、納経所にて納経帳を頂いている時に、結願後はお礼参りとして再び遍照院に納経されるのがよろしいですよと教えて頂きました。

この遍照院の山門脇には・・・

見返弘法大師と彫られた石柱が立っています。

弘法大師が弘仁六年(815年)に関東巡錫の途中、一か月程この地に滞在し、その間に自らが彫り上げたとされる大師像が三体あり、それぞれ安置している三寺を三河三弘法と称しています。

遍照院では大師像が右に振り向いた様なお姿から見返弘法大師像、二番札所となっている「大仙山 西福寺」では去り行く大師を見送ったという事で見送弘法大師像、三番札所になっている「天目山 密蔵院」では大師との別れの際涙を流したという事で流涕弘法大師とそれぞれ呼ばれています。

弘法大師の旧暦の月命日には、大勢の巡礼の方が訪れ、この三弘法を巡礼されているんだとか。この月命日の日には名鉄バスも臨時バスを運行しているそうで、この月命日の日に巡礼するのがいいのかもしれませんね。

遍照院にて三河新四国霊場と三河三弘法の納経帳を頂きてきました。

納経帳を頂き、境内の写真を撮影して回っていたら・・・なにやら気になるポスターが

平成三十一年(2019年)は再興五十五周年の記念法印が頂けるようです。
これ、3月から頂けるってことなのかな?いまいちわかりにくいポスターですが、少なくとも3月1日からは記念宝印が頂けるそうですので、これは回らないといけないですね。

知立三弘法

さて、三河新四国霊場と三河三弘法の御朱印帳を手に入れたのですが、なんとなくへそ曲がりな自分としては、このメジャーな霊場巡りではなく、知立市に存在する知立三弘法と呼ばれている弘法大師霊場を2019年初めの霊場巡りにしようと思った次第です。
この知立弘法霊場がどういった歴史のある霊場なのかは分からないのですが、少し前にGoogleのストリートビューを見ていてたら「知立三弘法二番札所」と書かれた石柱が据えられた御堂があって調べていく内に、「知立三弘法」という霊場の存在を知りさらに札所の三ヶ寺も判明したので、今回こちらを巡礼していく事にしました訳です。

亀岳山宝蔵寺

まず、知立三弘法 一番札所になります。
こちらの宝蔵寺には、関ケ原の合戦の直前、池鯉鮒に地に於いて水野忠重と堀尾吉晴と酒席を共にしていた時、喧嘩沙汰になり、忠重を殺害、吉晴にも襲い掛かるが逆に切り殺された「加賀野井弥八郎重茂」の墓と、忠重死去の詰め腹を切らされた家臣二名の墓が安置されています。

神前山 了運寺

知立三弘法の二番札所になります。
了運寺の創建は不詳なんですが、一説には知立神社の別当寺院であった神宮寺七坊が起源だと言われています。
了運寺の目の前には旧東海道が走り、その東海道から知立神社への参道が分岐する辻(交差点)の角に当たる部分に了運寺は鎮座していています。

福聚山 慈眼寺

知立三弘法の三番札所になります。
慈眼寺は、江戸時代の初期、池鯉鮒宿では馬市が行われており、馬の供養の為に馬頭観音像を本尊のお堂が建立されたのが始まりと言われています。そして明治時代になり、慈眼寺境内に馬市が移動し昭和初期まで続いていたといいます。境内には馬塚があります。ちなみに、馬頭観音像は行基作と伝えられていて、秘仏とされ60年に一度の御開帳の時以外姿を見ることができません。

駆け足で回ってきましたので、知立駅周辺にはまだまだ色々見るべき場所が存在していますので、もう一度ゆっくりと訪れたいと思います。・・・しかし巡礼した日は・・・寒かったです。

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