城跡巡り

富貴城(知多郡武豊町富貴)

2019年1月8日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

城郭詳細

城 名:富貴城
所在地:愛知県知多郡武豊町大字富貴字郷北百一番地
築城年:不明
築城主:岩田氏
城形式:平城
遺 構:土塁、曲輪
規 模:ー

訪問日:2018年9月26日

沿革・詳細

長尾城主の岩田氏が支城として築城したがの富貴城になります。この辺りは富貴湊を擁する三河湾交易で非常に栄えていた場所になり、地名の富貴も交易によって富がもたらされたからだと言われています。
応仁の乱後、知多半島の守護であった一色氏は西軍に付いていた為、知多守護の職を解かれてしまいます。また、後任の守護も置かれることがなかった為、知多半島の地は群雄割拠の様な様子になります。

渥美半島を治めていた戸田氏は、今川氏と結んでいた為、後方に憂いがない状態でもあった為、知多半島に勢力を伸ばし始めます。現在の河和に河和城を築き、知多半島の先端を制圧します。そして、勢力を北上させ、岩田氏が治めていた富貴城を攻め落城させます。富貴城には戸田氏の長老であったと言われている戸田法雲が入城します。

しかし、同時期には、緒川城主であった水野氏が知多半島を手中に収めるべく、軍勢を南下させ始めます。宮津城、成岩城を次々に制圧し、岩田氏の本城である長尾城に向けて軍勢を進めると、城主であった岩田安広は戦わずして水野氏の軍門に下り、長尾城を開城、安広自身は仏門にはいったと言われています。

戸田法雲は水野氏の軍勢迫る富貴城において、岩田氏とは異なり戦う道を選びます。しかし多勢に無勢、戸田氏本家からの援軍も間に合わず、富貴城は落城し、戸田法雲の生死は不明。戦死したという説もあれば、生き延びて仏門に入り法雲と名乗ったという説が存在しています。

水野氏は、富貴城を落とした後、布土まで進軍し、布土城を築城し、河和城の戸田氏と相対する事になります。

最終的には、渥美半島の戸田氏は今川義元によって攻め滅ぼされ、本家の援軍もなくなってしまった河和戸田氏は、水野氏と講和を結びます。そして、その後水野信元の娘が戸田氏に嫁ぎ、水野氏とは血族となっていきます。

訪問記

富貴城址は現在、本丸跡に「白山神社」が鎮座し、曲輪跡に知多四国霊場二十五番札所「法輪山 円観寺」が鎮座しています。

こちらが、本丸跡に鎮座していると伝えられている白山神社になります。

平成29年まではこの白山神社の境内に愛知県天然記念物に指定されいたクロガネモチが立っていたのですが、残念ながら立ち枯れしてしまい、今では見ることはできません。

境内に向かって石段が伸びており、本丸の曲輪跡と言われるとそんな気になってしまいますね。

社殿後方には、土塁跡が残っているらしいのですが、このあたりかな?とおもうのですが・・・。

白山神社の隣に建つ「法輪山 円観寺」になります。
こちらの境内に富貴城についての案内看板があります。

円観寺に建っているのですが、よくよく読んでみると、富貴城遺構については、住所も含めて白山神社を指していますね。まあ、白山神社は江戸時代まで円観寺によって管理されていましたし、縄張りの状態などを含めて考えても、富貴城の中核部分に円観寺も白山神社も建っているのは間違いないかと思います。

-城跡巡り
-, ,