三河新四国八十八ヶ所 東三新四国霊場 豊川市

円福山 妙厳寺[別称:豊川稲荷](愛知県豊川市) 三河新四国霊場 別格札所,東三新四国霊場 八十八番札所

2019年5月16日

令和四年新企画のお知らせ

新企画「愛知県下新十名所」

 新愛知新聞社が昭和二年(1927年)に「愛知県の新十名所を読者投票で決定する。」というイベントを実施します。愛知県下を狂気の投票合戦へと誘ったこのイベントへの投票総数は驚異の1400万票以上。また、100票以上の投票を集めた名所候補は67カ所にも上ります。2022年、当サイトではこの67ヵ所の名所を巡り紹介していこうと思います。

寺院情報

寺院名 円福山 妙厳寺
(別称:豊川稲荷)
所在地 愛知県豊川市豊川町一番地
御本尊 千手観世音菩薩
宗 派 曹洞宗
創 建 嘉吉元年(1441年)
札 所 三河新四国霊場 別格札所
東三新四国霊場 八十八番札所
穂の国観音霊場 別格札所
東海三十六不動尊 十七番札所
御朱印
H P

参拝日:2019年3月30日

円福山 妙厳寺(豊川稲荷)公式ホームページのご紹介


沿革・由緒

詳しくは円福山 妙厳寺(豊川稲荷)公式ホームページの"当山の歴史"というページを見て頂くとして、ここではかいつまんで説明させて頂きます。

東海義易禅師が嘉吉元年(1441年)旧暦十一月二十二日に豊川の地に妙嚴寺御開創します。御本尊に寒巖禅師伝来の千手観世音菩薩を安置し、寒巖禅師御自作の豐川吒枳尼眞天像を山門の鎮守として奉安したそうです。その霊験は顕著で、今川義元公、織田信長公、豊臣秀吉公、徳川家康公等歴代著名人をはじめ広く一般信者の帰依信仰を集めたといいます。

明治時代には有栖川宮家より『豐川閣』の大額が下賜されて以来、当山は『豐川閣(とよかわかく)』と広く知られることとなりました。

円福山 妙厳寺ホームページより抜粋

三河新四国霊場を行く

三河新四国霊場三十九,四十番札所「小林山快泉院」を後にして、別格札所である「円福山 妙厳寺」(別称:豊川稲荷)に向かいます。日本三大稲荷に名を連ねている事でも有名ですが、豊川稲荷が三大稲荷と自称しているわけではないようです。

また、妙巌寺について間違えやすいのが、本尊が豊川稲荷の守護"豐川吒枳尼眞天"ではないという事。妙巌寺の本堂には"千手観世音菩薩"が奉安されています。元々"豊川吒枳尼眞天"は妙巌寺が創建された時には山門の鎮守として奉安されています。そして時代は流れ、神仏習合によって稲荷神(宇迦之御魂神)と同一視され、稲荷信仰の寺社として崇敬を集めました。明治政府による神仏分離令で荒廃する寺院が多い中、豊川吒枳尼眞天と稲荷神は別であり、稲荷ではないという事で稲荷堂の存続は許可されたんだとか。まあ・・・のど元過ぎればではないですが、程なく"豊川稲荷"と呼ばれるようになっていくわけですが・・・。で、現在では豊川稲荷大本殿の本尊として奉安されています。

では、妙巌寺の本尊はというと、総門、山門、からまっすぐ伸びた近年建て替えられた本堂(現地案内板によると「法堂」)に奉安されているのが"千手観世音菩薩"になります。正直、自分もこの記事を書くために豊川稲荷を調べるまでは、本尊は"豐川吒枳尼眞天"だと思っていました。鎮守の稲荷社が非常に大きく本尊より有名になってしまったと理解すればいいんですかね。

参拝記

豊川稲荷の門前になります。まさに門前町が豊川稲荷からJR東海「豊川駅」、名古屋鉄道「豊川稲荷前駅」まで続いています。いろいろなお店を見ているだけでも楽しくなってきますね。
当然、稲荷寿司発祥の地とまで言われている豊川稲荷門前町を散策した時には、稲荷寿司を食してみてください。

豊川稲荷界隈商店街おきつネットで商店街のお店を検索!

http://www5f.biglobe.ne.jp/~okitsu-net/index.html

境内入口、総門

写真を撮り忘れてしまっていたので、ストリートビューのスクリーンショットをば。いい時代ですな。
寺号標に豊川稲荷と彫られていますね。この辺りは時代の流れなんでしょうかね。

総門は、向唐門の四脚門になっています。

向唐門とは?


唐破風が門の前後に見える造りの事を指します。向とは妻入りの事を言います。

ただ、これが本堂などの屋根になると、入母屋造銅葺唐破風が設けらえた屋根とでも表記する所なんですが、総門や山門の屋根になると、入母屋造の屋根部分は表記しない様です。

鎮守堂

総門を潜ると一番最初に見えてくる建物になります。案内板によると「鎮守堂」と呼ぶらしい。

別名、龍天堂とも言われ、昔の神楽殿であったものを昭和五年春本殿の落慶開帳に際し修築したものである。
祭神は白山妙理大権現で宗祖道元禅師が修行の為入宋に際し禅師を守護し、それより曹洞宗の寺院では守護神としてお祀りされている。
内部正面の御尊像は名匠諏訪ノ和四郎の作である。
毎年五月と十一月の大祭の時には、おみこしを本殿より多くの御信者にかつがれて、この鎮守堂に渡御し安置するところである。

現地案内板」より

山門

左右に仁王像が安置されている楼門になります。案内板にありますが、今川義元が寄進したものだそうで、ほぼ五百年前の楼門になります。

天文五年(1536年)今川義元公が寄進した建物で、当山の現存する中で最古の建物で、唯一の丸瓦葺造りの屋根の形をしています。寛政五年(1792年)に修理しさらに昭和二十九年春、名古屋かなえ講の協賛によって大修理が行われました。
左右の阿吽の仁王像は、昭和四十一年に篤信者によって寄進されたものです。

境内案内板」より

鐘楼堂

今まで当ブログで紹介してきた中でも圧倒的な大きさの鐘楼堂になります。
この鐘楼堂の鐘の音が非常に澄んだ音がするそうで、NHKによって除夜の鐘として全国に音色が届けられているそうです。

ここまで大きな鐘楼ですので、鐘を突くのも前進運動です。

丁度参拝していた時に、鐘を突かれていました。こんなにエビ反りになって鐘って突くんですね。

法堂

元々は重層の法堂がたっていたみたいですが、近年建て替えが行われて、ご覧の通りの寺務所と祈祷受付所が一体となった近代的な建物に替わっています。ここまできたら取って付けたような入母屋造の屋根は無くてもよさげなんですけどね・・。周囲の建物との調和で付けたみたいですね。

豊川稲荷大本殿

入母屋造瓦葺妻入りの重層屋根に向拝の設けられた豊川稲荷大本殿になります。
昭和五年に落慶しています。明治時代初期の神仏分離策の時には危うく破却されるところだったのが、明治後期から昭和前期にかけては、これだけ大きな大本殿を建立するというまさに激動の時代の象徴ともいえる建物かなと思います。

この大本殿に掲げられている「豊川閣」と書かれた大額があるのですが、有栖川宮家から下賜されたもので、豊川稲荷を豊川閣と呼ぶようになった因縁になっているそうです。

豊川稲荷大本殿の参拝の作法

1.手水舎にて、手を洗い口をすすぎ衣服を整え姿勢を正します。
2.合掌し「帰命頂礼(又は南無)豊川枳尼眞天(キミョウチョウライトヨカワダキニシンテン)」と唱えて拝礼します。
3.上記の2を3回繰り返します。
4.「尸羅婆陀尼黎吽娑婆訶(オンシラバッタニリウンソワカ)」と21回(7回でも可)唱えます。
5.願いを込めて黙想・祈念します
6.上記の2を3回繰り返して終了です。

そう、何度も言いますが、豊川稲荷は神社ではなく寺院ですので、神社神道の参拝作法である"二拝二拍手一拝"の作法では参拝しません。じゃあ二拍手したからといって豊川枳尼眞天がへそを曲げるとかないわけですが。ただ、自分が参拝している時でも非常に多くの方が神社参拝作法をされていたので、鳥居もある為か間違えている、もしくは混同されている方が多いかなと思った次第です。

 

さて、たぶん大多数の方がここ豊川稲荷大本殿を参拝したら御朱印を頂いたり、もしくは帰路につかれる方が多いかと思いますが、今回「円福山 妙厳寺」に参拝したのは知多四国霊場の遍路の為ですので、大本殿の参拝が終わりましたら、奥の院の方に向かって歩を進めていきます。大本殿前まではすごい人ですが、ここからは一気に参拝される方も減り、同じ寺院なの?という雰囲気になってきます。

奥の院へ

法堂で祈祷の受付をされた方達が使用すると思われる豊川稲荷大本殿に繋がる渡り廊下の下を潜って奥に進んでいきます。すると、境内の雰囲気がまさに一遍して、周囲は木々に覆われていき、木々の間に設けられた参道を進んでいく形になります。

三重塔

奥の院参道を進んでいくと、三重塔が見えてきます。
どういった経緯でここに建立されたのかは解りませんが、色々調べてみると昭和四十六年の建立のようです。

景雲門

三重塔を超えて、奥の院の山門にあたる「景雲門」です。

安政五年(1858年)の創建で、旧奥の院拝殿を昭和五年の大本殿の御開帳に際し、現在地に移転し、景雲門と名付けられました。 彫刻は名匠諏訪ノ和四郎の作で、巧麗をきわめています。

景雲門案内板」より

拝殿を移転させたとありますが、現在の姿を見ると、八脚門の山門と言われても違和感がありません。移転に際して、わざわざ拝殿を山門の様に改築したのか・・・もしくは、拝殿の中央部分が通り抜け可能な「割拝殿」という建築様式の拝殿だったのか・・・興味はつきません。

奥の院

昭和五年の豊川稲荷大本殿が落慶する前までの拝殿と本殿を使用しているのが、妙厳寺の奥の院になります。

文化11年(1814年)の建築で、昭和5年の大本殿の新築に伴い、旧本殿の拝殿を奥の院拝殿として移築したものです。
この建物は春・秋の祭典の行事が行われる霊殿で、信者の諸人が至心を凝らして参拝し、読経礼拝されます。
拝殿の諸処に見られる種々の彫刻は、名匠諏訪ノ和四郎の一代の傑作と言われています。

奥の院説明板」より

拝殿と本殿とは・・・まるで神社建築の様な佇まいです。

入母屋造瓦葺平入で切妻破風が大屋根部分に設け、向拝部分に唐破風を設けた拝殿になります。そして、拝殿の周囲には高覧のある濡れ縁が設けられています。・・・ここまで書くと、まるで神社の拝殿の説明を書いている感じがします。

この辺りからも、神仏習合時代の宗教観を表していると思います。

奥の院を更に奥に進んでいくと・・・

霊狐塚

豊川稲荷を代表するスポットと言えば、現在では800体を超える狐像が祀られているという霊狐塚。

様々なお顔をしたお狐さまが祀られています。現在でもお狐さまの奉納を受け付けているそうで、年々その生息数を増やしていく感じですかね。

いろんな雑誌やホームページなどでこの霊狐塚の事を取り上げていているので、もっと参拝されるかたが多いのかな?と思っていたのですが、自分は静寂の中ゆっくりお狐様を見ていられたので、まだまだそこまで有名ではないのかも・・・?

弘法堂

霊狐塚から折り返すような形で参道を進んでいくと、今回の参拝の目的地でもある、三河新四国霊場番外札所になっている弘法堂が見えてきます。

切妻造瓦葺妻入りで向拝が設けられた御堂になります。
向かって右側の火打窓の所には、窓枠を利用して"びんずる様"が安置されていました。

中央に伝にいう御自作弘法大師像が奉安されています。その前には、狛犬が・・・。弘法大師に・・・狛犬?
調べてみると、狛犬ではなく「唐獅子」であり、唐獅子は空海が密教と共に日本に「唐獅子」を持ち帰ったと言われているそうです。ただ・・・ここに据えられているのは「唐獅子」ではなく間違いなく「狛犬」なんですが。この辺りも・・・神仏習合の名残なのかな?

「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」「南無大師遍照金剛」・・・

宇賀神が祀られた御堂と万堂

宇賀神が祀られている御堂に付いては詳しいことがわからないのですが、金運財運などの神なようで、あれ?お稲荷さんでよく聞く御神徳だなあって思っていたら、宇賀神は宇迦之御魂神と同一視されている神のようですね。

そして、その奥にみえるのが万堂と呼ばれる御堂になります。

万燈堂(禅堂)とも言います。 文久三年(1863年)九月に建立された間口十三間(19.9メートル)、奥行七間(14.5メートル)の構造で、その名の如く参詣の諸人が信仰の心を、分に応じて或いは一燈を、或いは万燈を具現して献じ供養する霊堂です。 正面には、豊臣秀吉の念持仏と伝えられる不動明王、及び文殊菩薩が奉祀されています。 戦後、内部を僧堂に改築し、単を設け、修行僧が坐禅修行する道場として使われました。

万堂案内板」より

御朱印

参拝を終えて

江戸時代に東海道近くに建てられていた豊川稲荷の石鳥居です。神仏分離策の中、一旦は鳥居など神社色のあるものはすべて棄却されたそうなのですが、その後、解体して境内で保存していた石鳥居を再建したんだとか。
この鳥居があるが故に、豊川稲荷=神社と思っていられる方も多いと聞きます。まあ、確かにここまで堂々と境内に鳥居が据えられている寺院って他にないですからねえ・・・。ただ、総門ー山門ー法堂と真っ直ぐに設けられた参道とは並行に参道は設けられていますが中心線からはずれている所から、「ここは寺院であって神社ではない」と教えてくれている様な伽藍配置の様な気がしています。

雑誌・マンガに加えて旅行雑誌の定番"るるぶ"も月額500円(税抜)で読み放題!

やはり、旅先の情報はネット検索もいいですが、るるぶなどの旅行ガイド雑誌が一番ではないかなと思います。ネット情報はどうしてもディープになりがちで、いざ旅行に行こうと思っても、俯瞰的な情報が不足しがちな気がします。
やっぱり、"るるぶ"を見ながら、旅の予定表を作っていくのも、旅行の醍醐味ですよね。

所在地を地図で確認

※地図のマーカーは、三河新四国霊場の番外札所である弘法堂を示しています。

寺院名 円福山 妙厳寺
所在地 愛知県豊川市豊川町一番地
最寄駅 JR東海 飯田線「豊川駅」徒歩5分
名古屋鉄道 豊川線「豊川稲荷前駅」徒歩5分

寺院・霊場巡りの際のバイブルに

元々、当サイトは神社巡りを通じて、皆様の住んでいる所にある"村の鎮守の神様"と呼ばれる神社を紹介してくサイトを目指していたんです。むしろ寺院については、縁遠いものとおもっていたんですよね。しかし、ちょっとした御縁で弘法大師霊場に出会い、そして愛知県では一番活動が盛んな"知多四国霊場"を巡礼、結願する事になりました。でも、神社の事はある程度知識があっても、寺院については未知の世界だったので、少しでも巡礼の時に役に立てばと思い、こちらの本を読ませて頂いております。

https://amzn.to/2UHeO79

少しでも巡礼の時にお役に立てる事もあるかと思います。是非一度読んでみてくださいませ。

次の目的地は?

三河新四国霊場別格札所「円福山 妙厳寺」を後にして、再び姫街道に戻り、東に進み三河新四国霊場四十一、四十二番札所「松亀山 寿命院」に向かいます。

-三河新四国八十八ヶ所, 東三新四国霊場, 豊川市